――そんなことよりも。

 美鈴は、きのう妖の森で出会った男のことを思い出していた。
 百が統領と呼んでいたあの男は、たしかに昔、迷子の美鈴を助けてくれた人に似ていた。しかし、十年以上経っているのに見た目がまったく変わっていなかったのだ。やはり、彼はあやかしなのだろうか。
 そんなことを考えていると、ふと自分の体が軽いことに気づく。
 いつも朝起きると体が重かったり頭痛がしたりでしんどいのだが、今日はそれがまったくない。不思議に思っていると、百が「どうした」と声をかけてくる。

「なんだかいつもより体が楽なの。きのうはいろいろあったのに疲れていないなんて不思議だと思って」
「ああ、それは――」
「寿香お嬢さまはどちらにいらっしゃいますか!?」

 百の言葉を遮るように、外で女中の騒ぎ声がした。

「なんだ、朝からうるさいのう」

 本邸と美鈴が住む納屋は距離があるから、こんなところまで女中が来るのはめずらしい。
 美鈴も不思議に思って耳を澄ませていると、女中たちのおしゃべりが聞こえてきた。

「そんなに大声を出してどうしたのよ」
「寿香お嬢さまがご懐妊されたのよ!」

 女中たちは興奮した様子でひとしきりしゃべると、慌ただしく駆けていってしまった。
 寿香には婚約者はいなかったはずだ。
 いったい誰との子どもなのだろうか。
 疑問に思いながらいつもの地味な着物に着替え、最低限の身支度を整える。百には納屋から出ないように言い聞かせ、外に出た。
 
 本邸への道を歩いていると、ちょうど寿香と鉢合わせた。

「あら、お姉さま」

 振り返った寿香は、水色のワンピースを着ていた。不気味なほど穏やかに微笑んでいて、目が合ったとたん難癖をつけてくるいつもの妹には見えない。
 美鈴は警戒心を強めながら、口を開く。

「女中が騒いでいたのだけど」
「あらやだ、もう知ってしまったの?」

 寿香は口元に手を当てて優雅に笑う。