志音はさっそく荷物を整理しながら今後のことを考えていた。蒼空の話では、役場の人の訪問が近いうちにあるらしい。彼は管理人だけれど、家賃のこと等はくわしくは知らないそうだ。不思議だなぁと思いつつも、志音は追及しないことにしていた。それは椋太も同じで(彼の方は無頓着なのかもしれない)、特に触れはしなかった。
 家賃や光熱費、食費。当たり前のことだけれど、これらを払うためには新たに仕事を探さなければならない。
 いろいろと考えていると、無性にあじさい紅茶が飲みたくなった。志音が階下に降り、蒼空からおいしい淹れ方を教えてもらっている時だった。玄関の戸の音がした。椋太だろうかと思ったが、彼はテーブルにつき遅い朝食のトーストをかじっていた。
「誰か来た?」
 志音が玄関に出ると、黒縁眼鏡をかけた青年がうつむきがちに立っていた。とてもおとなしそうで、自信なさげな雰囲気をまとっている。急いできたのか、わずかに息をきらしていた。
「あの、すみません……」
 青年が何かを言おうとした時、蒼空も彼を見つけてうれしそうに声をかける。
「こんにちは。君もあじさい荘の招待客だね?」
「は、はい?」
 青年は明らかに戸惑っていたので、代わりに志音が口を開く。
「あの、どうかされました?」
 志音が問うと、彼は緊張した様子で答える。
「す、すみません。こちらに、猫が入ってきませんでしたか……? あの……門のところから、こっちに入っていくのを見て……。それで……ドアの隙間から、ふっと中へ消えていったような……。死んでしまった猫にあまりにも似ていたので、つい追いかけてしまって」
 玄関の戸が少し開きっぱなしになっていたようだ。黒縁眼鏡をかけた青年は居心地が悪そうにしどろもどろに言う。視線も下向きで、あまり目も合わさない。
「猫? いえ、たぶんここには……」
 と言いかけ、志音は口をつぐむ。もしかしたら、自分たちが気づいていないだけかもしれない。猫が音もなく入ってきて、どこかに隠れてしまっている可能性はじゅうぶんにあり得る。
「念のため、探してみましょうか」
 志音が答えると、眼鏡の青年は一瞬、期待を込めた目をした。が、すぐに思い直したように表情を戻してしまう。
「いえ……。やっぱりいいです。……きっと見間違いだったんです。ルルは、もうどこにもいませんから。……呼び鈴も鳴らさずに、いきなり押しかけてしまってすみませんでした……」
 青年は小さく言うと、とぼとぼと引き返そうとする。
「待って。ここで一休みしていかない?」
蒼空は玄関におりて青年に駆け寄ると、無邪気に言う。
「い、いえ。俺は」
「少し疲れているように見えるよ。……それに、ひどく思い詰めているようにも」
 すると、青年は自嘲気味に小さく笑う。
「やっぱり、そう見えますよね……。いいんです、これが素なので……」
「元気出して。今ちょうど紅茶を淹れているところなんだ。美味しいよ。香りもよくて、あじさい荘特製なんだ」
 蒼空が屈託なく言うも、青年の答えはつれなかった。
「……いえ、遠慮しておきます。……それでは」
 青年は力なく玄関に向かう。
「ちょ、ちょっと待って!」
 志音は思わず青年を呼び止めた。何だか放っておけない。このまま行かせてしまったら、本当に消えてしまいそうに感じた。あの日の優里と重ねてしまうのかもしれなかった。
「あなたの猫の話、きかせてくれませんか?」
 出て行こうとしていた青年の足が止まる。
「どうして、そんなこと言うんですか」
 青年の声はか細い、でもどこか非難めいて聞こえた。見ず知らずの他人が、どうして引き止めるのか――。彼の背中がそう語っているように思えた。
「僕にも大事だった人がいました。今はもうどこにいるのかさえ分かりません。だから、分かる気がするんです。話をすること、誰かに聞いてもらうこと、それだけで少し救われることがあるんじゃないかって」
「ですが……」
 彼はこちらに背を向けたまま、うつむく。彼は迷っているようだった。完全には拒絶していない、そう感じた。
「……たとえ見間違いだったとしても」
 後ろから椋太の声がした。話を聞いていたらしい。椋太の声を聞き、青年はゆっくりと振り向いた。椋太は壁に背をもたれさせながら続ける。
「君の『もういないはずの猫』が見えた気がしたのなら、それって案外大事なことかもしれないよ?」
 青年の目が揺れる。少しだけ潤んでいるように見えた。
「……猫って、思い出してほしいときにふっと現れることがあるんだよ。僕はよく知ってる。――どう? 少しだけ、立ち寄ってみない?」
 蒼空が静かに、優しく背中を押すように言った。
「……分かりました。紅茶一杯の間だけなら……」
 青年は眼鏡を外すと、ぎこちなく涙を拭った。