「こんなところまで勝手に来たら駄目だよ。パパとママが心配するよ」
 志音は手を引かれながら言う。
「志音はちゃんと帰れるから安心していい」
 言いながら優里はどんどん先を行く。
「……? 優里くんは帰らないの?」
「志音には、ちゃんと家族がいるからね。大丈夫、帰れるから」
「優里くんにだって家族がいるでしょ?」
「……あんなの、家族じゃない」
 つらそうにつぶやく優里を見て、志音は口を噤んだ。やっぱり、優里と家族はうまくいっていないのだ。彼は家に帰りたがらないことも多かったし、父母と一緒にいるところを一度も見たことがない。
 志音はもう帰りたいとは言わなかったし、言えなかった。手を引いて前を行く優里から並々ならない決意を感じ取り、それから志音は黙って彼に従った。


 我に返った志音はうつむいてきつく唇を引き結んだ。
「やっぱり駄目だ、このままじゃ……」
 思い出さなければならない。大切な人のために。あの日何があったのか。記憶がないことを理由にして逃げてはいけない。自分の弱さに甘んじてはいけない。志音は顔を上げる。
『またいつでも来てね。君はあじさい荘の招待客なんだから』
 蒼空の言葉が、志音の背中を優しく、そして強く押す。志音は顔を上げると、決意を胸に駆け出した。


 数日後の朝、志音は再び花野枝村に足を向けていた。キャリーを引いて坂道を上っていくと見えてくる、古民家あじさい荘。
 工場は辞めてきた。アパートも引き払った。もうここしか行く場所がない。何より、大切な友達との記憶を取り戻すため、そしていまだ行方が知れない彼の、手がかりをつかむためだ。ここに来れば、何かが変わる気がした。罪悪感を背負っているだけでは何も変わらないから。
 あじさい荘の門の前で、一度深呼吸をする。本当に自分をまた迎えてくれるのだろうか。
 少しの不安に苛まれ、呼び鈴を鳴らすのをためらっていると、玄関の格子戸が開かれた。
 顔を出したのは椋太だった。志音を見ると、少し驚いたような顔をしたものの、すぐに親しげに笑う。
「やぁ志音くん。どうかしたの? 忘れ物?」
 彼は志音の引くキャリーバッグに目を留め、何かを察したのか門を開けて、どうぞと慣れた手つきで中を手のひらで指し示した。
「きっと、蒼空も喜ぶよ。君が帰ってしまったと気づいて、寂しそうにしていたから。お、噂をすれば……」
 たたた、という軽快な足音とともに、蒼空が玄関に姿を見せる。
「志音! よかった、また来てくれた!」
 蒼空が無邪気に志音の前に躍り出ると抱きついた。あまりの軽やかさに、彼の姿を一瞬見失ったほどだ。ほんのりと花の香り、あじさい荘の香りだ。
「やっぱり、しばらくここにいさせてもらいたいんだけど……いいかな」
「もちろん、いいに決まってるよ! 志音は招待客なんだから!」
 天使のような笑顔に迎えられ、志音は改めてあじさい荘へ足を踏み入れるのだった。