翌日朝早く、志音はバスに間に合うようにあじさい荘を後にする。蒼空の姿はなかった。一言お礼を言いたかったが、起こしてしまっては悪いと思い、部屋にお礼の書き置きを残してきた。
椋太も寝ているのか姿は見えない。問題なくバスに乗り、そのまま仕事場へ向かう。
志音の職場は、町の小さな工場だ。金属プレス加工の工場で、おもに自動車の部品などを卸している。
志音は小さい頃から手先は器用な方で、ものづくりに興味があったこともあり、高校卒業と同時に就職を決めた。
今は工場近くの、小さなアパートで一人暮らしをしている。
家族はごくごく普通の家庭で、父も母も健在、両親ともに現役で会社勤めをしている。優里のように、いわゆる問題がある家庭ではまったくなかったし、小さい頃から現在まで、ありふれた生活だったけれど満足していた。家庭には問題はなかったものの、志音は幼少のころから人付き合いが苦手で、いじめられっ子タイプだった。
もちろん、職場でも例外ではなかった。午前の業務が終わり、昼休憩となった。
「ねぇねぇ志音ちゃん」
先輩社員が馬鹿にしたような、猫なで声で話しかけてきた。志音はまたかと思いつつ返事をする。ちゃん付けで呼ばれるのは本意ではないが、指摘したところで無駄だと分かっていたので何も言わない。
「そこに書いてあるやつ、全部買ってきてもらえるかな?」
メモ用紙を渡される。
複数の人たちのであろうタバコの銘柄や、ペットボトル、菓子類やティッシュなどの日用品もある。
「今日も、ですか」
駄目もとで、志音は問う。
「そ。いいでしょ、志音ちゃん? 先輩の頼みはちゃんときかないと」
茶髪の先輩社員はにやにやしながらこちらを見ている。その瞳の奥には、逆らったら容赦しない、といった脅しが込められているようで、志音はうなずくしかない。
「分かりました。行ってきます」
「頼むねー」
志音は作業着のまま、コンビニへ向かった。着替えている時間はない。町工場からコンビニまで近いわけではなく、往復で行けば昼休みは終わってしまう。
もちろん相手はそれを承知で志音に頼んでいるのだ。自分の昼休みなんてまともに取ったことがないので、昼飯はいつも自分で握ったおにぎりだった。これなら歩きながら片手でさっと食べられる。
工場長もぐるで、見て見ぬふり。社長には嘘の報告をしているようだ。
ローテーションで決まっている業務後の清掃も、毎日工員たちから押し付けられていたし、他の人のミスを自分のせいにされたこともあった。
目を付けられたきっかけはほんの些細なことだ。
志音、という名前だ。
「志音ちゃんなんて、かわいい名前でちゅね」
そう先輩社員からからかわれたのがきっかけだった。工場内では一番の下っ端なので、最初は仕方がないと思っていたのだが、それはどんどんエスカレートしていき、今では工場の使用人扱いだ。
いじめられるきっかけは同じではない。おとなしく、人に反抗したり歯向かったりしない。だからといって特に人とつるむ性格でもないので、はたからみればマイペースに見えるのだろう。それが気に入らないという人が少なからずいて、強い人たちの鼻にかかってしまうのかもしれなかった。
親友の優里はそんな自分をいつも庇ってくれていた。彼は年上でもあったし、正義感が強く、自分の意見をはっきりと言える子だった。何度助けてもらったのか、数えきれないほどで、志音は憧れていた。まるでヒーローみたいだった。
「それなのに僕は……」
何もできないでいる。彼の行方は分からないままなのに。
歩きながらメモをぎゅっと握りしめる。本当にこのままでいいのだろうか。彼が消えてから十年間、心に蓋をして見ないふりをしてきた。
先輩社員たちに何も反抗せず、今の不遇に甘んじているのは、負い目を感じていたからだ。村に置き去りにしたままの記憶。あの日何があったのだろう。なぜ記憶がないのだろう。もしあの時、本当は優里に何かがあったのだとしたら……。
その罪悪感がずっと心にわだかまり、今のどうしようもない状況が当たり前だと受け入れてしまっている。どうして自分だけが無事で、優里だけがいなくなってしまったのか。
自分だけが幸せになってはいけない。不幸でなくてはならない。でも、本当にそれでいいのだろうか――。ふいに疑問が頭をもたげてくる。本当にできることはないのか。
花野枝村に行ってから、ずっと心がざわついている。このままでいいのか。あの村では今までにない記憶が呼び起こされたのに。
コンビニを出ると、雨がぽつりぽつりと降り始めていた。
なんともなしに空を仰ぐ。どこからともなく幼い声が聞こえてきた――。
椋太も寝ているのか姿は見えない。問題なくバスに乗り、そのまま仕事場へ向かう。
志音の職場は、町の小さな工場だ。金属プレス加工の工場で、おもに自動車の部品などを卸している。
志音は小さい頃から手先は器用な方で、ものづくりに興味があったこともあり、高校卒業と同時に就職を決めた。
今は工場近くの、小さなアパートで一人暮らしをしている。
家族はごくごく普通の家庭で、父も母も健在、両親ともに現役で会社勤めをしている。優里のように、いわゆる問題がある家庭ではまったくなかったし、小さい頃から現在まで、ありふれた生活だったけれど満足していた。家庭には問題はなかったものの、志音は幼少のころから人付き合いが苦手で、いじめられっ子タイプだった。
もちろん、職場でも例外ではなかった。午前の業務が終わり、昼休憩となった。
「ねぇねぇ志音ちゃん」
先輩社員が馬鹿にしたような、猫なで声で話しかけてきた。志音はまたかと思いつつ返事をする。ちゃん付けで呼ばれるのは本意ではないが、指摘したところで無駄だと分かっていたので何も言わない。
「そこに書いてあるやつ、全部買ってきてもらえるかな?」
メモ用紙を渡される。
複数の人たちのであろうタバコの銘柄や、ペットボトル、菓子類やティッシュなどの日用品もある。
「今日も、ですか」
駄目もとで、志音は問う。
「そ。いいでしょ、志音ちゃん? 先輩の頼みはちゃんときかないと」
茶髪の先輩社員はにやにやしながらこちらを見ている。その瞳の奥には、逆らったら容赦しない、といった脅しが込められているようで、志音はうなずくしかない。
「分かりました。行ってきます」
「頼むねー」
志音は作業着のまま、コンビニへ向かった。着替えている時間はない。町工場からコンビニまで近いわけではなく、往復で行けば昼休みは終わってしまう。
もちろん相手はそれを承知で志音に頼んでいるのだ。自分の昼休みなんてまともに取ったことがないので、昼飯はいつも自分で握ったおにぎりだった。これなら歩きながら片手でさっと食べられる。
工場長もぐるで、見て見ぬふり。社長には嘘の報告をしているようだ。
ローテーションで決まっている業務後の清掃も、毎日工員たちから押し付けられていたし、他の人のミスを自分のせいにされたこともあった。
目を付けられたきっかけはほんの些細なことだ。
志音、という名前だ。
「志音ちゃんなんて、かわいい名前でちゅね」
そう先輩社員からからかわれたのがきっかけだった。工場内では一番の下っ端なので、最初は仕方がないと思っていたのだが、それはどんどんエスカレートしていき、今では工場の使用人扱いだ。
いじめられるきっかけは同じではない。おとなしく、人に反抗したり歯向かったりしない。だからといって特に人とつるむ性格でもないので、はたからみればマイペースに見えるのだろう。それが気に入らないという人が少なからずいて、強い人たちの鼻にかかってしまうのかもしれなかった。
親友の優里はそんな自分をいつも庇ってくれていた。彼は年上でもあったし、正義感が強く、自分の意見をはっきりと言える子だった。何度助けてもらったのか、数えきれないほどで、志音は憧れていた。まるでヒーローみたいだった。
「それなのに僕は……」
何もできないでいる。彼の行方は分からないままなのに。
歩きながらメモをぎゅっと握りしめる。本当にこのままでいいのだろうか。彼が消えてから十年間、心に蓋をして見ないふりをしてきた。
先輩社員たちに何も反抗せず、今の不遇に甘んじているのは、負い目を感じていたからだ。村に置き去りにしたままの記憶。あの日何があったのだろう。なぜ記憶がないのだろう。もしあの時、本当は優里に何かがあったのだとしたら……。
その罪悪感がずっと心にわだかまり、今のどうしようもない状況が当たり前だと受け入れてしまっている。どうして自分だけが無事で、優里だけがいなくなってしまったのか。
自分だけが幸せになってはいけない。不幸でなくてはならない。でも、本当にそれでいいのだろうか――。ふいに疑問が頭をもたげてくる。本当にできることはないのか。
花野枝村に行ってから、ずっと心がざわついている。このままでいいのか。あの村では今までにない記憶が呼び起こされたのに。
コンビニを出ると、雨がぽつりぽつりと降り始めていた。
なんともなしに空を仰ぐ。どこからともなく幼い声が聞こえてきた――。
