蒼空は二階に上がる。廊下に沿っていくつか部屋がある。すべて障子戸だ。志音は階段すぐの部屋を借りることにした。
中は八畳ほどの和室だ。階下の庭が見渡せる窓、そのそばには文机が置かれ、引き出しのタンスが置かれている。中には蒼空が言った通り寝間着の浴衣がきちんとたたまれていた。
「本当にいいのかな……」
いまだ半信半疑の志音だったが、一晩だけ泊まると約束してしまったので帰れないし、蒼空の純粋で澄んだ瞳を思い出すと、まぁいいかという気持ちになってしまうのだった。
それにしても、この古民家はやはり不思議な感じがする。謎の少年管理人と、庭園に植えられた、ほのかに光を放つように見える紫陽花。そして、垣間見えた埋もれていた記憶の断片。
『今日が最後だから』
はっきりと響いてくる幼なじみの言葉。もう少しで何かを思い出せそうな気がするのに。優里はあの日、自分に別れを告げるために連れ出した……だけだったのだろうか。
思い詰めていても仕方がない。志音が空気を入れ替えようと窓を開けた時だった。誰かが道に佇んでいるのが見えた。さっきまでの土砂降りの雨に打たれたのか、ずぶ濡れだ。金髪で長めの髪をハーフアップにしている。服装は白いシャツに、黒のスラックス。スーツのジャケットは脇にかかえていた。まだ若いように見える。普通ではない様子だけれど、大丈夫だろうか。志音が少し気がかりに思っていると、彼に誰かが駆け寄った。あじさい荘の自称管理人、蒼空だ。志音は慌てて階下に降り、蒼空のもとへ向かう。何だかとても心配だったからだ。
「よかったら、あじさい荘で紅茶を飲んでいきませんか?」
蒼空は志音に言ったのと同じように、佇む人物にも話しかけている。
「蒼空くん!」
「あ、志音。ねぇ彼もきっと、あじさい荘に招かれた一人だよ」
青年は緩慢にこちらを見た。整った顔立ちだけれど、なんだかひどく疲れているようにも見える。
「君たち、誰?」
青年は何の感情もこもってないような口調で問う。問うわりには、たいして興味もないというような、生気のない目をしていた。
「僕は蒼空。このあじさい荘の管理人だよ」
蒼空は誇らしげに胸を張る。
「……急にすみません。蒼空、ほら迷惑になるから戻るよ」
「えー、どうして? 彼もここを必要としてるはずなのに」
「違うってば。ほら、行こう」
志音は蒼空の腕を引く。その時だった。青年が力尽きたようにしゃがみこんだ。とても具合が悪そうだ。
「大丈夫ですか……!」
志音は駆け寄る。
「何か、食べ物を……」
声にも力がない。もしかして、お腹が空きすぎて行き倒れ寸前だったのだろうか。今のご時世、珍しくはないことかもしれないが……ただ、相手はまだ若いのに。
顔色は悪く今にも気を失いそうだった。
「お腹空いているの?」
蒼空が心配そうに問うと、青年は無言でうなずいた。
「それは大変。さぁ中へ。肩を貸すよ!」
蒼空はためらいもせずに、見知らぬ男を起こそうとする。志音も手伝い、二人で青年を支えながら中へ入れると、やっとのことで居間の椅子にすわらせた。
青年はぐったりとテーブルに突っ伏してしまう。
「缶詰ならあるよ。あと、ご飯も! 志音くんお願い、手伝って!」
「もちろん!」
キッチンの棚の中には缶詰やレトルト食品などの保存がきく食料があった。とりあえずパックご飯とレトルトのカレーを温め、テーブルに運ぶ。その間、蒼空はバスタオルを持ってきて、彼の肩にかけてあげている。
「食べられますか?」
志音が問うと、金髪の青年はぐっと真に迫った様子でスプーンをにぎった。それからはすさまじかった。あっという間に平らげてしまい、ご飯を当然のようにお代わりをして無言で食べ続けている。
志音は呆然と眺めていたが、蒼空は彼を優しい眼差しで見守っていた。
ひとしきり食べ続け満足したのか、やがて青年はふうっと息をつき背もたれにもたれかかった。
「はぁ……まじで餓死するかと思った」
あっけに取られて見つめている志音に気づき、青年はグラスの麦茶を飲み終えてから口を開く。
「何者、って顔してるね。助けてもらったし、ちゃんと名乗るよ。荒牧(あらまき)椋太(りょうた)。二十五歳。元ホスト」
青年は飄々と言うと、整った微笑みをみせた。元ホスト、というだけあって、微笑み慣れているような印象を受ける。
彼はバスタオルで雨に濡れた髪を拭きつつ、続ける。
「本当に助かったよ。数日さまよっていたような気がするし、正直どのくらい食べてなかったのか覚えてないくらい」
椋太はほっとしたように息をつく。
「あの……どうしてこんなところに?」
元ホストが小さな村をさまようなんて、まったくよく分からない。
「ああ、ストーカー被害にあってね。この村には実家があるから、ちょっと逃げて来たんだよねー。マンションも追い出されるし、なんだか踏んだり蹴ったりだよね」
椋太は苦笑すると、バスタオルを被ったまま、参ったという風に両手を頭の後ろで組むと続ける。ストーカーされるなんて、ホストも大変なんだな、と思いつつ、志音は彼の話を疑いもなく聞いていた。
「でも、俺は実家なんて頼れる身分じゃない、そう考え直して、しばらく彷徨ってたら、ちょうど光が見えた。古い家屋が青白く印象的に見えてね。とうとう死ぬのかって思いながら近づいたら……君たちに出会った、ってわけ。それにしてもこんなところに古民家なんてあったんだね。子どものころまで村に住んでいたのに知らなかったな」
椋太は軽く言って笑う。深刻な状況にもかかわらず、彼はいたって明るい。さっきの死にそうな様子とは打って変わった態度だった。
「やっぱり。君もこのあじさい荘に招かれた一人だったんだ」
蒼空がとんっと軽くテーブルに両手をついて、うれしそうに身を乗り出した。
「なんだかよく分からないけど、君もありがとう。助けてくれて」
椋太はぽんぽんっと蒼空の頭に手を置く。彼から見れば、蒼空は子どもに見えるらしい。蒼空は嫌がる素振りを見せずに、ますますうれしそうに笑顔を輝かせた。
蒼空の後で志音も名乗り、自分もつい先ほどここに来たばかりだということを伝えた。蒼空はうれしくてたまらないという風に口を開く。
「このあじさい荘に来る人たちはみんな招待客なんだよ。行くところがないなら、ここに住んだらいい!」
「住む?」
椋太は不思議そうな顔をした。無理もない。蒼空の言うことが突拍子もないことは、志音も体験済みだった。
「そう! 僕はここの管理人をしてる。ここはあじさい荘、シェアハウスなんだから!」
蒼空は胸を張った。
「え、そうなの? いいのかい?」
椋太は深く考えることなく、受け入れたようにすんなりと軽く問う。
「君がここにいたいと望むなら、僕も、このあじさい荘も拒むことはしないよ。ここはそういう場所だから」
「へぇ? シェアハウスか。なんだかおもしろそうだね。志音くんっていったよね、君もここに?」
椋太は興味があるのか、バスタオルを肩にかけなおすと言う。
志音は首を横に振る。
「いえ、僕は今夜一晩泊まって明日には帰る予定です」
「そうなんだ。じゃあ、今のところ候補は俺だけってことだね。うん、いいかも」
椋太は一人うなずいている。部外者である志音には何も言う資格はない。管理人(自称)である蒼空がいいというならば、何も言えないが、椋太については少しだけ気になる。悪い人には見えないけれど……。
「あ、君。俺のことがあやしいって目をしてるね?」
不敵に笑う椋太に、志音は慌てて首を横に振る。
「い、いえ! 僕は別に!」
「いいよ、ごまかさなくても。そういう視線には慣れているしね」
「……ごめんなさい」
志音が素直に謝る。でも相手はまったく気にしていない様子だ。
「別にいいよ。それが一般の普通の反応なんだし。親にも見放されてるくらいだしね」
椋太は一つ息をついて、片手で頬杖をつくと話し始める。
「正直にちょっとした自己紹介をしようか。元ホストっていうのは本当。売上げはそこそこよかったし、結構稼げてたかな。見た目にはまぁ、自信あるほうだったしよくモテた。困るくらいにね。でも、あまりに姫たちをその気にさせすぎて、ストーカーされるし、泣かれて説得するのに数時間消費なんて日常茶飯事。よくトラブルにもなりかけた。仕事とはいえ、ちょっときつかったな。本当はただ、姫たちが笑って、喜んでくれるのがうれしかっただけなんだけどね……」
ため息まじりに言ってから、椋太は片手でグラスを弄ぶ。
「ということで、悪い奴ではなさそうでしょ? いいかな。ここにしばらく置いてもらっても。家賃とかは、まぁどうにかして払うよ」
「もちろんだよ、椋太。このあじさい荘は誰も拒まない。求める人をいつでも受け入れるんだから」
「ありがとう。助かるよ」
椋太は安堵したように笑う。彼もまた、事情を抱えている一人らしい。
誰しもが家族に頼れるわけではないし、仲が良いとは限らない。そういえば優里もそうだった、と志音は思う。彼の家庭環境もいいとは言い難かったこと、幼かった志音でも何となく分かっていた。優里はたびたび、家に帰りたくないと言っていたから。彼を見失ってしまったあの日も、家にはもう帰らない、そう言っていた――。彼は自分の意志で出て行ったのだろうか……。
「おーい、志音くん?」
蒼空の声に現実に引き戻される。
「あ、ああ。ごめん。ちょっとぼうっとしてた」
また少し、埋もれている記憶が見えたような気がした。この村に来てから、少しずつ記憶が動き出しているような気がしてならない。
「……志音くん。さては君も隠していることあるね?」
「え?」
椋太からのいきなりの鋭い指摘に、志音は動揺を隠せずに戸惑ってしまう。
志音がなんて言ったらいいのか迷っていると、椋太はふっと笑う。
「なんてね。冗談だよ」
椋太はタオルを片手に立ち上がる。
「さて。さっそくだけどシャワー浴びてくるよ。さすがに風邪ひきそうだし」
「うん、一階の奥にあるよ。部屋は二階ね。上がってすぐの部屋は志音くんが使ってるから、それ以外なら好きな部屋使っていいよ」
「どうも」
椋太は何も疑問に思うこともない様子で洗面へ向かう。志音は椋太の姿を黙って見送る。今までかかわったことがないタイプだ。
「志音も、遠慮しないでくつろいでね」
蒼空は無邪気に笑うので、志音もありがとう、と微笑んだ。
「用があるときは部屋にある鈴を鳴らして。すぐに向かうから。ちなみに僕の部屋は屋根裏部屋なんだ。快適でお気に入り。それじゃ僕も一旦部屋に戻ろうかな。久しぶりに動いたらちょっと疲れちゃった」
蒼空が去ると急に辺りが静かになる。
「久しぶりに動いた……?」
彼は本当に不思議な少年だ。見た目は繊細でガラスのような美少年。それでいて人懐っこく無邪気で、自分の素性については管理人、とだけ。おかしな言動をするのは、冗談なのか、本気なのか。嘘をついているように見えないし、訊こうとしてもうまくはぐらかされてしまう。
響いてくる蛙の鳴き声が大きくなったような気がした。すっかり暗くなった庭には紫陽花が、やはりほんのり輝いているように見える。
少年もそうだけれど、この場所も不思議だった。失ったはずの記憶もゆるやかにほどけていくようだし、温かくて居心地がいい。静寂がこんなにも心地がいいなんて。
志音はいつになく落ち着いた気持ちで、すっかり冷めてしまった紅茶を口に含むのだった。
中は八畳ほどの和室だ。階下の庭が見渡せる窓、そのそばには文机が置かれ、引き出しのタンスが置かれている。中には蒼空が言った通り寝間着の浴衣がきちんとたたまれていた。
「本当にいいのかな……」
いまだ半信半疑の志音だったが、一晩だけ泊まると約束してしまったので帰れないし、蒼空の純粋で澄んだ瞳を思い出すと、まぁいいかという気持ちになってしまうのだった。
それにしても、この古民家はやはり不思議な感じがする。謎の少年管理人と、庭園に植えられた、ほのかに光を放つように見える紫陽花。そして、垣間見えた埋もれていた記憶の断片。
『今日が最後だから』
はっきりと響いてくる幼なじみの言葉。もう少しで何かを思い出せそうな気がするのに。優里はあの日、自分に別れを告げるために連れ出した……だけだったのだろうか。
思い詰めていても仕方がない。志音が空気を入れ替えようと窓を開けた時だった。誰かが道に佇んでいるのが見えた。さっきまでの土砂降りの雨に打たれたのか、ずぶ濡れだ。金髪で長めの髪をハーフアップにしている。服装は白いシャツに、黒のスラックス。スーツのジャケットは脇にかかえていた。まだ若いように見える。普通ではない様子だけれど、大丈夫だろうか。志音が少し気がかりに思っていると、彼に誰かが駆け寄った。あじさい荘の自称管理人、蒼空だ。志音は慌てて階下に降り、蒼空のもとへ向かう。何だかとても心配だったからだ。
「よかったら、あじさい荘で紅茶を飲んでいきませんか?」
蒼空は志音に言ったのと同じように、佇む人物にも話しかけている。
「蒼空くん!」
「あ、志音。ねぇ彼もきっと、あじさい荘に招かれた一人だよ」
青年は緩慢にこちらを見た。整った顔立ちだけれど、なんだかひどく疲れているようにも見える。
「君たち、誰?」
青年は何の感情もこもってないような口調で問う。問うわりには、たいして興味もないというような、生気のない目をしていた。
「僕は蒼空。このあじさい荘の管理人だよ」
蒼空は誇らしげに胸を張る。
「……急にすみません。蒼空、ほら迷惑になるから戻るよ」
「えー、どうして? 彼もここを必要としてるはずなのに」
「違うってば。ほら、行こう」
志音は蒼空の腕を引く。その時だった。青年が力尽きたようにしゃがみこんだ。とても具合が悪そうだ。
「大丈夫ですか……!」
志音は駆け寄る。
「何か、食べ物を……」
声にも力がない。もしかして、お腹が空きすぎて行き倒れ寸前だったのだろうか。今のご時世、珍しくはないことかもしれないが……ただ、相手はまだ若いのに。
顔色は悪く今にも気を失いそうだった。
「お腹空いているの?」
蒼空が心配そうに問うと、青年は無言でうなずいた。
「それは大変。さぁ中へ。肩を貸すよ!」
蒼空はためらいもせずに、見知らぬ男を起こそうとする。志音も手伝い、二人で青年を支えながら中へ入れると、やっとのことで居間の椅子にすわらせた。
青年はぐったりとテーブルに突っ伏してしまう。
「缶詰ならあるよ。あと、ご飯も! 志音くんお願い、手伝って!」
「もちろん!」
キッチンの棚の中には缶詰やレトルト食品などの保存がきく食料があった。とりあえずパックご飯とレトルトのカレーを温め、テーブルに運ぶ。その間、蒼空はバスタオルを持ってきて、彼の肩にかけてあげている。
「食べられますか?」
志音が問うと、金髪の青年はぐっと真に迫った様子でスプーンをにぎった。それからはすさまじかった。あっという間に平らげてしまい、ご飯を当然のようにお代わりをして無言で食べ続けている。
志音は呆然と眺めていたが、蒼空は彼を優しい眼差しで見守っていた。
ひとしきり食べ続け満足したのか、やがて青年はふうっと息をつき背もたれにもたれかかった。
「はぁ……まじで餓死するかと思った」
あっけに取られて見つめている志音に気づき、青年はグラスの麦茶を飲み終えてから口を開く。
「何者、って顔してるね。助けてもらったし、ちゃんと名乗るよ。荒牧(あらまき)椋太(りょうた)。二十五歳。元ホスト」
青年は飄々と言うと、整った微笑みをみせた。元ホスト、というだけあって、微笑み慣れているような印象を受ける。
彼はバスタオルで雨に濡れた髪を拭きつつ、続ける。
「本当に助かったよ。数日さまよっていたような気がするし、正直どのくらい食べてなかったのか覚えてないくらい」
椋太はほっとしたように息をつく。
「あの……どうしてこんなところに?」
元ホストが小さな村をさまようなんて、まったくよく分からない。
「ああ、ストーカー被害にあってね。この村には実家があるから、ちょっと逃げて来たんだよねー。マンションも追い出されるし、なんだか踏んだり蹴ったりだよね」
椋太は苦笑すると、バスタオルを被ったまま、参ったという風に両手を頭の後ろで組むと続ける。ストーカーされるなんて、ホストも大変なんだな、と思いつつ、志音は彼の話を疑いもなく聞いていた。
「でも、俺は実家なんて頼れる身分じゃない、そう考え直して、しばらく彷徨ってたら、ちょうど光が見えた。古い家屋が青白く印象的に見えてね。とうとう死ぬのかって思いながら近づいたら……君たちに出会った、ってわけ。それにしてもこんなところに古民家なんてあったんだね。子どものころまで村に住んでいたのに知らなかったな」
椋太は軽く言って笑う。深刻な状況にもかかわらず、彼はいたって明るい。さっきの死にそうな様子とは打って変わった態度だった。
「やっぱり。君もこのあじさい荘に招かれた一人だったんだ」
蒼空がとんっと軽くテーブルに両手をついて、うれしそうに身を乗り出した。
「なんだかよく分からないけど、君もありがとう。助けてくれて」
椋太はぽんぽんっと蒼空の頭に手を置く。彼から見れば、蒼空は子どもに見えるらしい。蒼空は嫌がる素振りを見せずに、ますますうれしそうに笑顔を輝かせた。
蒼空の後で志音も名乗り、自分もつい先ほどここに来たばかりだということを伝えた。蒼空はうれしくてたまらないという風に口を開く。
「このあじさい荘に来る人たちはみんな招待客なんだよ。行くところがないなら、ここに住んだらいい!」
「住む?」
椋太は不思議そうな顔をした。無理もない。蒼空の言うことが突拍子もないことは、志音も体験済みだった。
「そう! 僕はここの管理人をしてる。ここはあじさい荘、シェアハウスなんだから!」
蒼空は胸を張った。
「え、そうなの? いいのかい?」
椋太は深く考えることなく、受け入れたようにすんなりと軽く問う。
「君がここにいたいと望むなら、僕も、このあじさい荘も拒むことはしないよ。ここはそういう場所だから」
「へぇ? シェアハウスか。なんだかおもしろそうだね。志音くんっていったよね、君もここに?」
椋太は興味があるのか、バスタオルを肩にかけなおすと言う。
志音は首を横に振る。
「いえ、僕は今夜一晩泊まって明日には帰る予定です」
「そうなんだ。じゃあ、今のところ候補は俺だけってことだね。うん、いいかも」
椋太は一人うなずいている。部外者である志音には何も言う資格はない。管理人(自称)である蒼空がいいというならば、何も言えないが、椋太については少しだけ気になる。悪い人には見えないけれど……。
「あ、君。俺のことがあやしいって目をしてるね?」
不敵に笑う椋太に、志音は慌てて首を横に振る。
「い、いえ! 僕は別に!」
「いいよ、ごまかさなくても。そういう視線には慣れているしね」
「……ごめんなさい」
志音が素直に謝る。でも相手はまったく気にしていない様子だ。
「別にいいよ。それが一般の普通の反応なんだし。親にも見放されてるくらいだしね」
椋太は一つ息をついて、片手で頬杖をつくと話し始める。
「正直にちょっとした自己紹介をしようか。元ホストっていうのは本当。売上げはそこそこよかったし、結構稼げてたかな。見た目にはまぁ、自信あるほうだったしよくモテた。困るくらいにね。でも、あまりに姫たちをその気にさせすぎて、ストーカーされるし、泣かれて説得するのに数時間消費なんて日常茶飯事。よくトラブルにもなりかけた。仕事とはいえ、ちょっときつかったな。本当はただ、姫たちが笑って、喜んでくれるのがうれしかっただけなんだけどね……」
ため息まじりに言ってから、椋太は片手でグラスを弄ぶ。
「ということで、悪い奴ではなさそうでしょ? いいかな。ここにしばらく置いてもらっても。家賃とかは、まぁどうにかして払うよ」
「もちろんだよ、椋太。このあじさい荘は誰も拒まない。求める人をいつでも受け入れるんだから」
「ありがとう。助かるよ」
椋太は安堵したように笑う。彼もまた、事情を抱えている一人らしい。
誰しもが家族に頼れるわけではないし、仲が良いとは限らない。そういえば優里もそうだった、と志音は思う。彼の家庭環境もいいとは言い難かったこと、幼かった志音でも何となく分かっていた。優里はたびたび、家に帰りたくないと言っていたから。彼を見失ってしまったあの日も、家にはもう帰らない、そう言っていた――。彼は自分の意志で出て行ったのだろうか……。
「おーい、志音くん?」
蒼空の声に現実に引き戻される。
「あ、ああ。ごめん。ちょっとぼうっとしてた」
また少し、埋もれている記憶が見えたような気がした。この村に来てから、少しずつ記憶が動き出しているような気がしてならない。
「……志音くん。さては君も隠していることあるね?」
「え?」
椋太からのいきなりの鋭い指摘に、志音は動揺を隠せずに戸惑ってしまう。
志音がなんて言ったらいいのか迷っていると、椋太はふっと笑う。
「なんてね。冗談だよ」
椋太はタオルを片手に立ち上がる。
「さて。さっそくだけどシャワー浴びてくるよ。さすがに風邪ひきそうだし」
「うん、一階の奥にあるよ。部屋は二階ね。上がってすぐの部屋は志音くんが使ってるから、それ以外なら好きな部屋使っていいよ」
「どうも」
椋太は何も疑問に思うこともない様子で洗面へ向かう。志音は椋太の姿を黙って見送る。今までかかわったことがないタイプだ。
「志音も、遠慮しないでくつろいでね」
蒼空は無邪気に笑うので、志音もありがとう、と微笑んだ。
「用があるときは部屋にある鈴を鳴らして。すぐに向かうから。ちなみに僕の部屋は屋根裏部屋なんだ。快適でお気に入り。それじゃ僕も一旦部屋に戻ろうかな。久しぶりに動いたらちょっと疲れちゃった」
蒼空が去ると急に辺りが静かになる。
「久しぶりに動いた……?」
彼は本当に不思議な少年だ。見た目は繊細でガラスのような美少年。それでいて人懐っこく無邪気で、自分の素性については管理人、とだけ。おかしな言動をするのは、冗談なのか、本気なのか。嘘をついているように見えないし、訊こうとしてもうまくはぐらかされてしまう。
響いてくる蛙の鳴き声が大きくなったような気がした。すっかり暗くなった庭には紫陽花が、やはりほんのり輝いているように見える。
少年もそうだけれど、この場所も不思議だった。失ったはずの記憶もゆるやかにほどけていくようだし、温かくて居心地がいい。静寂がこんなにも心地がいいなんて。
志音はいつになく落ち着いた気持ちで、すっかり冷めてしまった紅茶を口に含むのだった。
