村の会合場所は、木造の古びた建物だった。蒼空はこっそりと開いた窓から様子を眺めていた。集会所の中も人が多く押し寄せていて、外にも人だかりができている。野良仕事からそのまま着たという様子の男たちや、子どもを抱えた母親、ふみくらいの年齢の子供たちから老夫婦まで、老若男女様々だった。
「あの屋敷の人が、何やら話をするって聞いたから気になって」
「外国の人なんて、信用できるのかいね」
「お屋敷の前を通るといつもいい匂いがするんだよね」
「子どもがたぶらかされてるって聞いたけど……」
蒼空は様々な声を聞きつつ、人だかりの中心にいる怜司に目を向け、これから始まる言葉にそなえて耳を傾けた。
長机の前の怜司はいつものようにシャツにベスト姿だ。怜司は皆に注目されながらも、まったく動じている様子はなく、むしろ背筋をぴんと伸ばし堂々として立っていた。それが蒼空にとっても、とても誇らしく思えた。
まずは村長から、事の顛末が話される。ふみに始まり、最近ではほかの子供たちも屋敷をたびたび訪れていること、このままでは村の秩序が乱れる、何かを企んでいるのか、という話にまで発展していく。
「皆さんがご心配されていることも分かります」
怜司が静かに口を開く。
「私がただ善意で、屋敷の扉を開いている、と言っても信用されにくいでしょう。でしたら、提案があります」
怜司は机に両手をつき、皆の顔をしっかりと見つめながら言う。
「今後、私の屋敷は週に一度、誰にでも開くようにします。子どもたちだけではなく、すべての人にです。紅茶とお菓子をご用意します」
辺りが一斉にざわついた。
「お菓子が食べられるの……?」
「紅茶って?」
否定的な言葉ももちろんあったが、興味を示す声もちらほら上がる。
「ご心配であれば、誰かに見張っていただいてもかまいません。ですが、どうか先入観と想像だけで拒むことだけはしないでください。あなた方の目で見て、話をしてから、判断していただきたい」
怜司の真剣な訴えに、今度は辺りがしんと静まり返る。
「……なんでそこまでするんだよ、あんたは」
どこからともなく声がした。怜司は少し間を置いた後、決意したように口を開く。
「かつて、私の大切だった人は、この村が好きでした。屋敷が完成したあかつきには、共に暮らす予定でしたが、それは叶いませんでした。……彼女も人が好きでしたから、きっとここにいたら……生きていたら同じことをしていたと思います。誰かが屋敷を訪れてくれることが、私には少しだけ、彼女と話せているようにも思えるのです。――この屋敷が、誰かの救いになれたなら、私はうれしく思います」
蒼空は思う。ふみに笑顔が戻ったみたいに。誰かの救いになれれば――自分もうれしいこと。
最後に怜司は深く一礼した。それは謝罪ではなく、まるで大切なものを差し出すかのような、穏やかな礼だった。しんと辺りは静まり返っていたが、ふいに。
「……それなら、少しだけ、寄らせてもらってもらおうかな」
一人の女性がにこやかに言う。それからは、緊張に包まれていた辺りの空気は一変して、温かいものに変わっていくのが分かった。
疑いよりも何よりも、それぞれの心に何か変化が芽生えたのだと、蒼空は確信する。そのことが何よりうれしくて、蒼空は尻尾を大きく揺らすのだった。
それからいつしか、怜司の屋敷は『あじさい荘』と親しみを込めて呼ばれるようになった。猫としての蒼空は、二十年、怜司とともにいた。怜司の死後、遺言どおりに屋敷は村に寄贈された。
最初は皆が共に語らう場所、そのうちに心に傷を負った人々や、行き場のない人を招く場所ともなり――そして、今。『シェアハウス』として、かつてと同じように人の心を救っている。
いつの日だったか、怜司が蒼空に冗談まじりに言ったことがある。
『蒼空、君がこのあじさい荘を引き継いでくれたらいいのにな。君はずっとそばで私やあじさい荘を見てきたから、きっと私の意志を継いでくれると思うのに』
蒼空は強く願った。このあじさい荘を守っていきたい、と。そうして、主無き後、蒼空はこの古民家あじさい荘に戻って来た。人の姿となって。
人がいなくなれば、屋根裏部屋で猫として眠り続け、人が訪れれば人の姿となり、住人を迎える。
そうして蒼空は今でもこのあじさい荘に残り、人々のことを迎え入れ、見守っている。
「蒼空くんもおいでよー! 優里ももうすぐ着くって」
庭で志音がこちらに向かって手を振っている。
「うん、今行くね!」
蒼空は微笑んで返事をすると、軽く身を翻して、皆の元へ向かう。どんなに時がうつろっても、人が変わっても。ここは、あじさい荘として、人々の心を救い続ける。心優しく、気高い主人の願いが続く限り。
【了】
「あの屋敷の人が、何やら話をするって聞いたから気になって」
「外国の人なんて、信用できるのかいね」
「お屋敷の前を通るといつもいい匂いがするんだよね」
「子どもがたぶらかされてるって聞いたけど……」
蒼空は様々な声を聞きつつ、人だかりの中心にいる怜司に目を向け、これから始まる言葉にそなえて耳を傾けた。
長机の前の怜司はいつものようにシャツにベスト姿だ。怜司は皆に注目されながらも、まったく動じている様子はなく、むしろ背筋をぴんと伸ばし堂々として立っていた。それが蒼空にとっても、とても誇らしく思えた。
まずは村長から、事の顛末が話される。ふみに始まり、最近ではほかの子供たちも屋敷をたびたび訪れていること、このままでは村の秩序が乱れる、何かを企んでいるのか、という話にまで発展していく。
「皆さんがご心配されていることも分かります」
怜司が静かに口を開く。
「私がただ善意で、屋敷の扉を開いている、と言っても信用されにくいでしょう。でしたら、提案があります」
怜司は机に両手をつき、皆の顔をしっかりと見つめながら言う。
「今後、私の屋敷は週に一度、誰にでも開くようにします。子どもたちだけではなく、すべての人にです。紅茶とお菓子をご用意します」
辺りが一斉にざわついた。
「お菓子が食べられるの……?」
「紅茶って?」
否定的な言葉ももちろんあったが、興味を示す声もちらほら上がる。
「ご心配であれば、誰かに見張っていただいてもかまいません。ですが、どうか先入観と想像だけで拒むことだけはしないでください。あなた方の目で見て、話をしてから、判断していただきたい」
怜司の真剣な訴えに、今度は辺りがしんと静まり返る。
「……なんでそこまでするんだよ、あんたは」
どこからともなく声がした。怜司は少し間を置いた後、決意したように口を開く。
「かつて、私の大切だった人は、この村が好きでした。屋敷が完成したあかつきには、共に暮らす予定でしたが、それは叶いませんでした。……彼女も人が好きでしたから、きっとここにいたら……生きていたら同じことをしていたと思います。誰かが屋敷を訪れてくれることが、私には少しだけ、彼女と話せているようにも思えるのです。――この屋敷が、誰かの救いになれたなら、私はうれしく思います」
蒼空は思う。ふみに笑顔が戻ったみたいに。誰かの救いになれれば――自分もうれしいこと。
最後に怜司は深く一礼した。それは謝罪ではなく、まるで大切なものを差し出すかのような、穏やかな礼だった。しんと辺りは静まり返っていたが、ふいに。
「……それなら、少しだけ、寄らせてもらってもらおうかな」
一人の女性がにこやかに言う。それからは、緊張に包まれていた辺りの空気は一変して、温かいものに変わっていくのが分かった。
疑いよりも何よりも、それぞれの心に何か変化が芽生えたのだと、蒼空は確信する。そのことが何よりうれしくて、蒼空は尻尾を大きく揺らすのだった。
それからいつしか、怜司の屋敷は『あじさい荘』と親しみを込めて呼ばれるようになった。猫としての蒼空は、二十年、怜司とともにいた。怜司の死後、遺言どおりに屋敷は村に寄贈された。
最初は皆が共に語らう場所、そのうちに心に傷を負った人々や、行き場のない人を招く場所ともなり――そして、今。『シェアハウス』として、かつてと同じように人の心を救っている。
いつの日だったか、怜司が蒼空に冗談まじりに言ったことがある。
『蒼空、君がこのあじさい荘を引き継いでくれたらいいのにな。君はずっとそばで私やあじさい荘を見てきたから、きっと私の意志を継いでくれると思うのに』
蒼空は強く願った。このあじさい荘を守っていきたい、と。そうして、主無き後、蒼空はこの古民家あじさい荘に戻って来た。人の姿となって。
人がいなくなれば、屋根裏部屋で猫として眠り続け、人が訪れれば人の姿となり、住人を迎える。
そうして蒼空は今でもこのあじさい荘に残り、人々のことを迎え入れ、見守っている。
「蒼空くんもおいでよー! 優里ももうすぐ着くって」
庭で志音がこちらに向かって手を振っている。
「うん、今行くね!」
蒼空は微笑んで返事をすると、軽く身を翻して、皆の元へ向かう。どんなに時がうつろっても、人が変わっても。ここは、あじさい荘として、人々の心を救い続ける。心優しく、気高い主人の願いが続く限り。
【了】
