蒼空がしばらく木の上で昼寝をしていると、あっという間に下校時間になった。蒼空は大きく伸びをした後、ふみが歩いてくるのを尻尾を揺らしながら待った。
 やがてふみが一人で寂しそうに歩いてくるのが見えた。蒼空は彼女の目前に降り立ち、にゃあと鳴く。
「あなた。朝の猫ちゃんね」
 ふみはしゃがみこむと、蒼空の頭を優しくなでてくれた。
「ありがとう。とっても……おもしろかった」
 他の子が言うように、たしかに声は小さかったけれど、とても可愛らしい声だったのを覚えている。それに笑うと八重歯が見えて少し猫みたいだと思った。
 蒼空はもう一度にゃあと鳴いて、自分の後をついてくるように促した。ふみも蒼空が言わんとしていることに気づいてくれて、ついてきてくれる。
「……ここって」
 屋敷まで案内してきた蒼空に、ふみはこわがるように足を止めた。蒼空は彼女の足にじゃれつく。こわくないよ、と伝えたかった。
「ここがあなたのおうちなの? でも……鬼が住んでるから近づいちゃいけないって……みんながそう言ってる」
 ふみは蒼空を抱いて後ずさるも、ふと足を止める。
「なんだか、とってもいい匂いがする。甘い香り」
 ふみは蒼空を抱いたまま、生垣からおそるおそる庭をのぞく。蒼空はこの匂いを知っていた。紅茶と、甘いクッキーの香りだ。
 蒼空の目に、怜司の姿が映る。窓辺の椅子に腰掛け、分厚い紙の束に滑るようにペンを走らせていた。傍らにはカップが置かれている。
 蒼空はわざと大きくにゃあと鳴いた。
「……っ、猫ちゃんしーー!」
 ふみが慌てて人差し指を唇に当てる。すると怜司がこちらに気づいた。蒼空は合図を送るように長い尻尾をくゆらせる。
 彼は一瞬驚いたような顔をしていたが、すぐに柔らかく微笑んで席を立つ。ほどなくして、屋敷の門が開かれた。
「……おや。君が連れて来てくれたのかい、蒼空」
 蒼空は何も言えずにかたまっているふみの腕を降りると、怜司の足にすり寄った。彼は優しく蒼空を抱き上げる。
 次に怜司はふみに視線を移した。彼女は怯えたように肩を縮めてうつむく。少しだけ震えているようにも見えた。ふみは逃げようにも足が震えて逃げられないようだった。
「初めまして」
 怜司の優しい声音にも、彼女はびくりと肩を震わせた。
「こわがらないで。私は君を怒ったりしないから」
 続く優しい声に、ふみは少しだけ肩の力を抜いたように見えた。
「あの……えっと……っ」
 彼女は何かを言おうとしていたが、あきらめたようにまたうつむいてしまう。その様子に、怜司は穏やかな声でそっと言う。
「無理に言葉を探さなくて大丈夫。だから安心して」
 ふみはゆっくりとおそるおそる顔を上げた。その目は遠慮がちだったけれど、ちゃんと怜司を見ていることが蒼空には分かった。
「蒼空が連れて来てくれたのなら、君はもう大切な客人だね」
 怜司が優雅に微笑むと、ふみは小さく唇を震わせて、小さい声で言う。
「……勝手に、家をのぞいてしまって……ごめんなさい」
 彼女はずっとそれを伝えたかったらしい。蒼空はふみを励ますように優しく鳴く。
「気にしなくていいよ。君が来てくれて、私はうれしいのだから。よかったら、紅茶を飲んでいくかい? 大切な客人をもてなしたいんだ」
「……でも。私……早く帰って家の仕事を手伝わないと……。でも、少しだけなら……」
 ふみは勇気を振り絞るようにして続ける。
「飲んでみたい。紅茶なんて……飲んだことがないから、どんな味がするのか……知りたい」
「では、君の口に合うように、やさしい味を選ぼうか。甘さをちょっと多めにしてね」
 怜司が片目をつむってみせると、ふみは恥ずかしそうにうつむくのだった。
 彼がふみを導いて、屋敷の玄関に入ると彼女はふと立ち止まってしまう。ふみは玄関の鏡に映った自分を見て、はっと思い出したように自分の髪を手でおさえた。
「……やっぱり、駄目……。私……こんな汚いぼさぼさの髪で……こんな立派なお屋敷に上がれません……っ」
 ふみの顔は真っ赤だった。蒼空は怜司の腕から抜け出すと、ふみの足元にすり寄る。それでも彼女は泣きそうな顔をして唇を引き結び、鏡を避けるように後ずさった。
「ふさわしさなんて、この家には必要ないよ」
 ふみは首を横に振るばかりだ。
「私……やっぱり……」
 ふみが踵を返そうとすると、怜司は口を開く。
「……もしよかったら、座ってもらえるかな」
 怜司は椅子に座るように促す。ふみは戸惑いながらも椅子に腰を下ろした。
「少しだけ、整えさせてもらってもいい?」
 怜司が問うと、ふみは緊張したようにうなずいた。彼はふみの後ろから、やさしく髪に触れる。くせのある髪を優しく指で梳かして、二つに分けた髪を青いリボンでそっと結んだ。
「はい。これで君の言うふさわしいお客様になったかな?」
 ふみは鏡に映る自分を息を飲んで見つめ、それから初めて口をほころばせ、そして――彼女の頬に涙が伝うのを蒼空は見たのだった。