和と洋を調和させた、美しいあじさい荘がこの場所に建てられたのは、昭和二年の梅雨時のことだった。とある子猫は、しとしとと降る雨のとある夕暮れどき、紫陽花の葉の下で雨宿りをしていた。まだ真新しい木の香りがする庭、雨を避けられる紫陽花の下にようやく身を落ち着けたところだった。子猫は体を丸める。お腹がひどく空いていたし、とても寒かった。
ふと、ここから見える縁側に一人の青年が姿を見せた。紫陽花の咲く庭を見つめている。今まで見たことがない栗色の髪が印象的だった。背は高く、手足はすらりと長い。シャツは肘までまくっており、手首には光る時計。ベストは子猫の毛色によく似たグレー。子 猫にとっては見慣れない容姿で、不思議に思いつつじっと青年を見つめた。
佇むその姿はどこか寂しげに見える。と、青年と目が合った。子猫はさらに身を縮こませる。逃げようとも、力が入らない。子猫にはもう、走り出す力は残っていなかった。
青年はゆっくりと近づいてくる。そして、片膝をつき、優しく微笑んだ。人からこんなに優しい微笑みを向けられたのは初めてで、子猫は目を丸くして、じっと青年を見つめ続けた。そしてこの時初めて、彼の目の色が空を映したように青いことに気が付いた。
「おいで」
穏やかで優しい声が胸に響く。彼は手を伸ばして、ふわりと子猫を抱き上げる。大きな手、ぬくもりが心地良く、そしていい香りがした。
「君の瞳の色も、澄んだ青色だね。紫陽花と同じ色だ。それなら、君の名は――」
子猫は腕の中で青年を見上げて、にゃと小さく鳴く。人はこわい存在だとずっと思っていた。でも、彼のことはこわいとは思わない。陽だまりみたいに、温かだったから。
「行く当てがないならおいで。かわいそうに、ひどく痩せて。元気もないね。ミルクを温めてあげるよ」
子猫は青年の声を聞きながら、おとなしく身を預けていた。彼は子猫を蒼空、と名付けてくれた。そうそれが――まだ子猫だった自分と、あじさい荘の最初の主である青年との出会いだった。
青年の名――蒼空の主人の名は、御影(みかげ)怜司(れいじ)といった。父親はイギリスのロンドン出身で貿易商をしており、母親は旧華族の日本人。彼は父の事業を学び、独自の輸入商社を設立していて、この邸宅は、彼が三十歳の若さで建てたばかりの自宅だった。もっとも、この家に来たばかりの子猫だった自分は、そんなに難しいことはまだ知らなかったけれど。
そして、結婚する予定だったフィアンセが病気で亡くなってしまったことも後に知ることになる。部屋には彼女の小さな写真が飾ってあったのを覚えている。時々悲しそうな顔をしていたのは、彼女のことを思っていたからかもしれない。
この家の猫になってからは、飢えることも凍えることもなくなった。毛並みもふわふわになって、蒼空は怜司にしてもらうブラッシングが何よりも好きだった。
彼は、蒼空と名前が入った首輪をかけてくれた。青くてきれいな石がはめ込まれていてすぐに気に入った。
でも時折、怜司は寂しそうな顔をして、外を眺めていることがあった。その理由は、婚約者が亡くなったことのせいなのか、それとも……。怜司が村民からよく思われていないことは、子猫の蒼空も知っていた。
――彼に対する心無い言葉は、蒼空も聞いたことがある。『あの屋敷には鬼が住んでいる』『外国の血が入っているんだって』『気味が悪い。目を合わせると呪われるぞ』。屋敷の前で帰宅した怜司が石を投げられているのを見たことがあったし、車を傷つけられたり、嫌がらせをされていることも知っていた。商店では物資の仕入れを断られたりして、明らかな差別を受けていたのだった。
それでも彼は、決して怒らない。蒼空が心配げににゃあと鳴くと、彼は優しく抱き上げて言った。
「大丈夫だよ。慣れてるから。それでも、私は人を信じたいんだ。人は必ず分かり合えるのだと」
怜司は蒼空の目をじっと見つめて。
「私の容姿が他とは違うから、警戒されることは仕方がない。人は『知らないもの』に怯えるから。……じゃあどうしたら、私のことを分かってもらえるだろうな」
怜司は蒼空を胸に抱きながら、何かを考えているようだった。蒼空がまた、彼の顔を見上げにゃあと鳴くと、怜司は微笑む。
「君はもしかして私の言っていることが分かるのかな? ふふ、君と話をしていると勇気をもらえるし、なんだかアイデアが湧いてくるような気がするよ」
蒼空は怜司の目に、熱がこもっていくのを見た気がした。怜司はあきらめていない。自分に何ができるだろう、拾ってくれた彼に恩返しができたなら。少しでも彼が優しい人だということを人に分かってもらえたら。
蒼空は、そればかり考えるようになっていた。
ふと、ここから見える縁側に一人の青年が姿を見せた。紫陽花の咲く庭を見つめている。今まで見たことがない栗色の髪が印象的だった。背は高く、手足はすらりと長い。シャツは肘までまくっており、手首には光る時計。ベストは子猫の毛色によく似たグレー。子 猫にとっては見慣れない容姿で、不思議に思いつつじっと青年を見つめた。
佇むその姿はどこか寂しげに見える。と、青年と目が合った。子猫はさらに身を縮こませる。逃げようとも、力が入らない。子猫にはもう、走り出す力は残っていなかった。
青年はゆっくりと近づいてくる。そして、片膝をつき、優しく微笑んだ。人からこんなに優しい微笑みを向けられたのは初めてで、子猫は目を丸くして、じっと青年を見つめ続けた。そしてこの時初めて、彼の目の色が空を映したように青いことに気が付いた。
「おいで」
穏やかで優しい声が胸に響く。彼は手を伸ばして、ふわりと子猫を抱き上げる。大きな手、ぬくもりが心地良く、そしていい香りがした。
「君の瞳の色も、澄んだ青色だね。紫陽花と同じ色だ。それなら、君の名は――」
子猫は腕の中で青年を見上げて、にゃと小さく鳴く。人はこわい存在だとずっと思っていた。でも、彼のことはこわいとは思わない。陽だまりみたいに、温かだったから。
「行く当てがないならおいで。かわいそうに、ひどく痩せて。元気もないね。ミルクを温めてあげるよ」
子猫は青年の声を聞きながら、おとなしく身を預けていた。彼は子猫を蒼空、と名付けてくれた。そうそれが――まだ子猫だった自分と、あじさい荘の最初の主である青年との出会いだった。
青年の名――蒼空の主人の名は、御影(みかげ)怜司(れいじ)といった。父親はイギリスのロンドン出身で貿易商をしており、母親は旧華族の日本人。彼は父の事業を学び、独自の輸入商社を設立していて、この邸宅は、彼が三十歳の若さで建てたばかりの自宅だった。もっとも、この家に来たばかりの子猫だった自分は、そんなに難しいことはまだ知らなかったけれど。
そして、結婚する予定だったフィアンセが病気で亡くなってしまったことも後に知ることになる。部屋には彼女の小さな写真が飾ってあったのを覚えている。時々悲しそうな顔をしていたのは、彼女のことを思っていたからかもしれない。
この家の猫になってからは、飢えることも凍えることもなくなった。毛並みもふわふわになって、蒼空は怜司にしてもらうブラッシングが何よりも好きだった。
彼は、蒼空と名前が入った首輪をかけてくれた。青くてきれいな石がはめ込まれていてすぐに気に入った。
でも時折、怜司は寂しそうな顔をして、外を眺めていることがあった。その理由は、婚約者が亡くなったことのせいなのか、それとも……。怜司が村民からよく思われていないことは、子猫の蒼空も知っていた。
――彼に対する心無い言葉は、蒼空も聞いたことがある。『あの屋敷には鬼が住んでいる』『外国の血が入っているんだって』『気味が悪い。目を合わせると呪われるぞ』。屋敷の前で帰宅した怜司が石を投げられているのを見たことがあったし、車を傷つけられたり、嫌がらせをされていることも知っていた。商店では物資の仕入れを断られたりして、明らかな差別を受けていたのだった。
それでも彼は、決して怒らない。蒼空が心配げににゃあと鳴くと、彼は優しく抱き上げて言った。
「大丈夫だよ。慣れてるから。それでも、私は人を信じたいんだ。人は必ず分かり合えるのだと」
怜司は蒼空の目をじっと見つめて。
「私の容姿が他とは違うから、警戒されることは仕方がない。人は『知らないもの』に怯えるから。……じゃあどうしたら、私のことを分かってもらえるだろうな」
怜司は蒼空を胸に抱きながら、何かを考えているようだった。蒼空がまた、彼の顔を見上げにゃあと鳴くと、怜司は微笑む。
「君はもしかして私の言っていることが分かるのかな? ふふ、君と話をしていると勇気をもらえるし、なんだかアイデアが湧いてくるような気がするよ」
蒼空は怜司の目に、熱がこもっていくのを見た気がした。怜司はあきらめていない。自分に何ができるだろう、拾ってくれた彼に恩返しができたなら。少しでも彼が優しい人だということを人に分かってもらえたら。
蒼空は、そればかり考えるようになっていた。
