玄関は清潔ですっきりとしており、かすかに花の香りがした。他に靴がないところを見ると、自分たち以外に人はいないのだろうか。頭上にはシンプルな明かりが下がっており、落ち着いた色を放っている。朱色がかった優しい色で、木のぬくもりが際立つようだった。
 「どうぞ、遠慮なく」
 少年は先に上がると、うれしそうにスリッパを出してくれた。
 「ありがとうございます……」
 志音はぎこちなく中へ足を踏み入れる。前方には二階へ続く階段があり、その先は吹き抜けのロフトのようになっているのが見えて、とてもおしゃれだった。外観もそうだったが、和風と洋風が織りなした作りになっており、大正ロマンを想わせた。
 木目がきれいな床も塵一つ落ちてなく、清掃が行き届いているように見える。
 「さ、こっちこっち」
 少年は右手にある広間に志音を促し、重厚なダークオークのテーブルの前に歩いていくと、四つの椅子の一つを引いてみせた。
 「座って。紅茶と日本茶、どっちがいい? コーヒーもあるよ。おすすめは紅茶。あじさい荘の紅茶はオリジナルの調合をしているんだよ」
 「じゃあ、紅茶でお願いします」
 お言葉に甘えて志音は答える。
 「オーケー! ちょっと待っててね!」
 少年はうれしそうにカウンターに向かう。
 志音はぎこちなく椅子に座り、所在無げに周囲を見渡した。太くて立派な木の梁天井からは温かい色の照明が下がる。ふと庭に通じる窓に目を遣ると、紫陽花が咲いているのが見えた。門の横にも咲いていたのと同じく、やはり淡い光を放っているように見える。
 雨はいつの間にか上がっているようで、あんなに激しかった雷鳴もぱたりとやんでいた。アンティークっぽい壁掛け時計、センス良く配置された家具類はどれも高級そうだった。
 やがてことこと、お湯が沸く音がし始める。何ともなしに耳を傾けていると、だんだんと気持ちが落ち着いてきた。志音は小さく息を吐いて、今まで少し緊張していたことに気づく。村を訪れてから、ずっと気を張っていた。いなくなってしまった優里と、消えた記憶。何かを思い出したくて村に来たのに、自分はそれを心の中で怖れているような気がした。
 「ここにお客さんを迎えるのは本当に久しぶり。ずっと昔から、この場所はいろんな人を迎えてきたんだよ」
 少年の声に我に返る。彼はトレーにアンティーク調のティーポットとカップを乗せて運んできた。
 「ありがとうございます。ここは、宿なんですよね。久しぶりってことは今まで休業していたんですか?」
 少年はトレーを慎重にテーブルに置きつつ答える。
 「ここ、あじさい荘はシェアハウスなんだよ。今日一晩の宿として使ってもいいけど、できればしばらく住んでもらえたらうれしい。ま、君がここに来たってことはそういうことになるんだと思うけどね」
 「……? どういうこと? シェアハウスってことは、他にも誰かいるの?」
 「今はいないよ。君が今日、一人目」
 少年は白いカップに紅茶を注ぐ。甘い匂いがたちこめる。
 「待って。じゃあ君は、ここに住んでるの?」
 疑問がうずまく。
 「僕はここの管理人。先代の主人が亡くなってからは僕が引き継いでいるんだ」
 「……そうなんだ。それでどうして僕がここに住むってことになるの?」
 志音はつい矢継ぎ早に問いかける。
 「君がここに来た、っていうことが何よりの理由だよ。あじさい荘に招かれたってことなんだから」
 志音は首をかしげるしかない。
 少年は相手の様子を気に掛ける様子もなく、ソーサーに乗せたカップを志音の前に優しく置いて微笑んだ。
 「いえ、僕は。ただ雨宿りをしていただけで……」
 少年の様子からは、からかっているようにも、でたらめを言っているようにも見えない。
 「きっかけは関係ないよ。でもきっと分かる。君がこのあじさい荘に来た理由。とにかく、流れに身を委ねて、今晩はここでゆっくり過ごしたらいい」
 「はぁ……」
 志音は腑に落ちないながらも、いただきます、とカップに口をつけた。柔らかな甘みと清涼感、そしてフローラルな香りがふくよかに広がる。
 「美味しい……!」
 思わず声に出してしまうほどだ。
 「そうでしょ? 茶葉にラベンダー、ブルーベリー、ジャスミンを隠し味にブレンドしてるんだ。そうすると、香りが紫陽花に似るんだよ。素敵だよね。紅茶好きな先代の主人が考えたんだよ」
 少年は誇らしげに言う。
 「なんだか僕も久しぶりに飲みたくなっちゃった」
 少年はカップを持ってきて向かいに座り、うれそうに紅茶を注ぐと、香りを楽しむ様子で一口含んだ。
 「うん、やっぱり美味しいなぁ。さすがご主人だよ」
 カップを静かに置くと、少年は青くてきれいな目を輝かせて志音を見つめた。子どものような純粋な表情だ。何だか不思議な人だと志音は思う。
 「自己紹介がまだだったね。では改めて。僕はここの管理人をしている蒼空(そら)といいます」
 カップを置いて志音も答える。
 「蒼空くんですね。僕は水野志音です。あの、前の管理人から引き継いだって聞きましたけど、まだ若いですよね。見た感じではまだ……」
 下手したら高校生に見えてしまう。
 「十八ってことにしてる。僕の見た目、そのくらいでしょ? それに、十八ってしておいた方が何かと都合がいいんだ」
 「え?」
 どういうことなのだろう。本当の年齢は違うということだろうか。何か事情があるのだろうと、あまり詮索しないようにした。いずれにしても、年齢がかけ離れているようには見えない。
 「志音くん、もうそんなにかしこまらないでよ。もっとフレンドリーに話してほしいな」
 蒼空は無邪気に笑う。
 「うん、分かった。そうするよ」
 年齢も近いようなので、志音は了承する。蒼空はよかった、とまた笑った。
 「このあじさい荘、ずいぶん古いみたいだけど、いつくらいの建物なの?」
 「昭和の初め頃。ご主人が建てたんだ」
 「ご主人って先代のことだよね……?」
 「そうだよ」
 志音は目をしばたかせるが、相手はどこ吹く風でカップに口をつけている。
 「ここのご主人って、その。いつ亡くなったのかな」
 訊くのは少しためらったが、とても気になった。
 「うーんと、昭和三十五年。六十五歳だったよ」
 蒼空は懐かしそうに目を細めた。まったく嘘をついているようには見えないものの、にわかには信じがたい。
 「それからずっと君が、ここの管理人をしているの?」
 「うん! 最初は慣れなくて大変だったけどね」
 志音は頭を抱えたくなった。どうしたものか。
 「……それなら君と、そのご主人はどういう関係なの……?」
 「それはね」
 蒼空はじっと志音を見つめる。志音も固唾を飲んで答えを待った。
 「内緒!」
 蒼空は唇に人差し指を当てて、いたずらっぽく片目をつむった。肩透かしをくらい、気が抜けてしまった反面、少しほっとしている自分がいた。また突拍子もないことを言われたら困ってしまう。
 志音は気を取り直して続ける。
 「蒼空くん一人で、このあじさい荘の管理をしているの?」
 「ううん、僕一人ではないよ。住む人がいない間は、村の人たちや役場の人たちが交代で掃除をしに来てくれたり、庭の手入れをしてくれたりする。僕の部屋の屋根裏部屋だけは、誰も入ってはいけないことになっているけどね」
 なるほど、ここは村が管理している古民家シェアハウス、といったところだろうか。最後の言葉の意味はよく分からなかったけれど、いちおうきちんとした場所のようで、志音は胸をなでおろす。
 「村の人たちはみんな優しいよ。ご主人がいた頃からそれは変わらない」
 蒼空は優しく微笑んだ。
 「志音くんも今日は疲れたでしょ? もっとお話していたいけれど、あまり長話はよくないかな。寝室は二階にあるよ。好きな部屋を選んでいいからね。お風呂は一階に、檜風呂がある。今は志音くんだけしかいないから、自由に使ってもらってかまわないよ。日常生活に必要なものは一通り揃ってるから心配しないでね」
 「ありがとう。でも、本当に泊めてもらってもいいのかな?」
 村で管理しているのならば、役場の許可や手続きが必要なのではないだろうか。それに、十八の少年が管理人をやっているなんて、やっぱりあやしい。
 「志音くんって心配性? 大丈夫だよ、ここに突然人が来ることは役場の人も、村の人たちも了解していることだから」
 「へ、へぇ。そうなんだ……」
 ますますよく分からなくなってくる志音なのであった。
 「心配しないで。僕は主人亡き後からずっとここの管理人をしているんだよ! もうベテランなんだから!」
 蒼空は胸を張る。でもありえない話だ。それでもふざけているように見えないのが悩ましいのだった。彼は重要な部分をはぐらかすし、聞けば聞くほど分からなくなりそうなので、志音はとりあえず追及しないことに決めた。
 「志音くん、大丈夫。何も心配はいらないよ。だから、今日一晩だけでも泊まっていってほしいな」
 迷っている志音に気づいたのか、蒼空はすがるような目で見つめてくる。心なしか目が潤んでいるようにも見えてしまう。
 「どうしてそこまで……」
 必死さが伝わってきて、帰りづらくなってしまう。
 「君を待っていたからだよ!」
 蒼空は真剣な面持ちで続ける。
 「僕はこのあじさい荘に導かれる人たちを待っていたんだ。来る日も来る日も、たった一人で、この場所で。君があじさい荘を訪れたということは、導かれたということなんだよ。ここは不思議な場所だ。あじさい荘は必要としている人の心を呼び寄せるから」
 蒼空は次に、落ち着いた様子で訊ねる。
 「――ここに来た時、何か不思議なことはなかった?」
 青くてきれいな瞳がまっすぐに志音を捉えた時、はたと思い出す。ほのかに輝くあじさいのそばで、ずっと沈んでいた幼なじみとの記憶の欠片が、少しだけきらめいたこと。今までこんなことはなかった。久しぶりに村を訪れたせいかとも思ったが……。
 もう少しだけここにいたら、また何かを思い出せるかもしれない。志音はゆっくりと顔を上げ、答えを待っている蒼空に優しくうなずいてみせた。
 「……分かったよ。今夜一晩、泊まっていくね」
 その瞬間、蒼空の表情がみるみるうちにほころんだ。
 「うん!」
 いくつか懸念はあったものの、志音は若い管理人の謎の厚意に甘えることにしたのだった。