翌日。蜩の声がひときわ大きく響き渡る、あじさい荘門外。一人の男が現れた。優里の父親だ。呼び出したのはこちらだった。男はふてぶてしい笑みを浮かべ、少しも悪びれる様子も見せずに、のこのこと現れた。
 彼の目が鋭く捉えるのは優里だ。隣には志音、そして、湊、椋太が肩を並べて立ちはだかる。
「優里、お前から呼び出すなんて何かと思えば……何だこの連中は」
吐き捨てるように言い、まるでゴミでも見つめるかのような父親の視線。子どものころはこわくて仕方がなかった。でも今は怯まない。今度こそ――優里を守る。
父親が近づこうとする。しかし、志音が止める。
「近づかないで。あなたを呼びだしたのは、二度と優里にかかわらないでほしいからです」
 志音は一歩歩を進めて言う。
「今ここで誓ってください。二度と、優里にはつきまとわない、と」
 父親の目が忌々しそうに細められる。
「なぜお前に指図されなければならない? これは家族の問題だ。他人が口を挟むな」
「お前なんて、家族じゃない。家族だと思ったこともない。俺は、お前の道具にはならない。お前はお前で、俺の知らないところで勝手に生きてくれ」
 優里が堂々とはっきりとそう告げると、父親は呆れたように笑う。
「そう言われてもなぁ。いいんだぞ? お前の今までの努力をすべて台無しにしても。お前だって、騒ぎを大きくしたくはないだろう?」
 父親の目が卑しく光る。
「俺は決して無理を言っているわけではない。医者になるんだろ? なら、こちらにも分け前ってもんが必要だ。お前を育ててやった父親なんだから」
「……ほんとクズだな」
 椋太がわざと聞こえるような声で言い放った。
「ちょ、ちょっと椋太くん……!」
 湊が慌てた様子で彼の腕を引くも、椋太は引き下がらない。
「おっさん、それ以上俺の友達に付きまとうなら、こちらだって考えがないわけじゃない。俺の父親は天嶺ホールディングスの社長だ。俺が頼めば、あんたの存在くらい簡単に、文字通り消せると思え」
 椋太は冷たく笑うとスマホの画面をかざす。そこにはよくテレビで目にする社長と、椋太が肩を組んで写っている、誰が見てもプライベートでオフな写真だった。相手の顔が引きつる。
「椋太くんやりすぎじゃないかな……」
 湊が志音に耳打ちする。
「でも結構効いてるみたいだよ」
 男は顔をひきつらせたまま、ふっと鼻で笑う。
「どうせはったりだろ」
「そう思うならどうぞご勝手に。ただ……こちらも容赦しないよ?」
 椋太の冷ややかな目と言動に、男は怯んだように一歩二歩後ずさると、どさっと両膝を地面につけた。
「優里……俺を助けてくれ。お願いだ」
 男は、今度は懇願し始める。
「どうかこの通り。今までのことは謝る。暴力を振るったことも謝る。だから、俺を助けてくれ……‼ お願いだ、優里」
「……もう無理だよ。俺は、あんたを捨てる。父親でも何でもない」
 優里の目は揺るがない。それでも、相手に対して哀れんでいるのが分かった。それは父親としてではなく、ただの他人を哀れんでみるような、そんな視線だ。優里の言葉に、震えていた男の肩が止まる。
「……そうか。お前も俺を捨てるのか……。お前が俺から逃げるなら……殺してやる」
 男は折りたたみナイフを取り出す。
「お前を殺して、俺も死ぬ!」
 空気が凍り付く。間髪入れずに男は優里めがけて地を蹴り突進する。
「優里危ない!」
 志音はとっさに男の腕を両手でつかむと、力任せに押し返す。
「志音!」
「下がって、優里!」
 駆け寄ろうとする優里にすかさず叫ぶ。湊がなおも向かおうとする優里を押さえ、椋太は志音に加勢する。二人がかりでやっと、男を地面に押し倒した。志音は椋太とともに男の腕を地面に押さえつけるも、なおも抵抗しようとする。
「お前は……そうか、思い出したぞ。あの時の忌々しいガキだな。また俺の邪魔をするのか。やはりあの時殺しておくべきだった……!」
 男はすさまじい力で志音と椋太の手を振りほどくと、体勢を崩した志音に向かってナイフを向ける。
「志音‼」
 優里、椋太が同時に叫び、湊が目を伏せる。
 刺される――! そう志音が覚悟した時だった。目の前に黒い影が目にもとまらぬ速さで躍り出た。蒼空だった。彼は華奢な体で男の腕をいとも簡単にねじり上げる。男はたまらずににとうとうナイフを落とした。
「――この場所で、人を傷つけることは絶対に許さない」
 今までの蒼空とは別人のような冷淡さだった。
 皆があっけに取られる中、男は戦意喪失した様子でその場に膝をついた。
 蒼空は立ち尽くす皆に、いつものように笑いかけ、みんなに怪我がなくてよかった、とほっとしたように言った。
「志音……。よかった怪我がなくて。本当に心臓が止まるかと思った……。あんまり無茶をするな」
 優里は困ったように、けれど心から安堵するように言う。
「今度こそ、優里を守りたかったから」
 それから志音は地面に力なくひざをつき、項垂れたままの男に視線を移し、静かに口を開く。
「優里は……もうあなたのものではありません。これ以上何かするようなら、警察に通報します」
 男はゆるゆると顔を上げる。その目からは傲慢も欲も憎しみもすでに潰えかけているように見えた。
「……分かった。もういい。――お前の好きにしろ、優里。俺はもうお前のもとには現れない。……約束するよ」
 男は立ち上がると、力なく去っていく。
「いいの、このまま逃がしてしまって。立派な銃刀法違反で殺人未遂だけど」
 椋太が問うと、優里は男のしぼんだような背中を見つめながら言う。
「はい、もうこれでじゅうぶんです。あの人はもう、言葉通り来ないと思うから」
 男の姿が見えなくなり、少しだけ場の空気がゆるむと、湊がずっと気になっていたと言わんばかりに椋太に問う。
「椋太くん、さっきの脅し、本気だったの?」
 椋太はふっと笑って。
「本気なわけないだろ。親父とは和解できたけど、この先も頼るなんてことはしないよ、絶対にね。それに、いくら親父でも人一人消すなんて無理だから」
「だよねー。よかった……。あの時の椋太くん、目が本気だったからまさかと思っちゃったよ」
 湊は心から安堵しているようだった。
「そうでもしないと、はったりってばれるでしょ」
「ほんと心臓に悪いから……」
 湊はいつものようにぼやく。
「あれ、蒼空くんがいない」
 志音は彼の姿を探すも、すでに姿を消してしまっていた。
「本当、何者なんだろう、蒼空くん……」
 湊も周囲を見回しつつ、首をかしげる。
「蒼空は自由だからね。誰にも彼の行動を把握することはできない。……さて、それじゃ俺たちは先に戻って冷たい飲み物でも用意してるよ。行こうか、湊」
「うん。はぁ疲れたー……。今日だけで寿命が十年くらい縮んだ気分だよ。ほんとあじさい荘っていろいろ起こるよね……」
「それが楽しいと俺は思うけどね?」
「俺はもっと心穏やかに過ごしたいね。だいたいこの村、やたら行事も多いしさぁ、南雲さんも結構人使い荒くない?」
 椋太と湊はいつものように軽口を叩き合いながら、先にあじさい荘へと戻っていく。
 蜩の鳴き声と土の匂いがようやく意識に戻ってきた。陽が傾きかけていることにも、今更気づいた。
「……終わったんだよね、これで」
 その一言に優里の唇がわずかに震えた。そして、ほんの少しだけ切なそうに微笑む。
「本当に、今度こそ終わった……。志音のおかげだよ」
 それから優里は志音を見遣り、あの頃と同じように笑う。
「――後でちゃんとみんなにもお礼しないとな。それと、そういえば……」
 優里はふと、思い出したように顔を上げる。
「最後に助けてくれた少年は誰?」
「ああ、蒼空くんのことだね。あじさい荘の管理人だよ」
「管理人だって? あの子が? まだ少年じゃないか」
「十八歳だって言ってたよ。見た目だけは、って」
 志音はいたずらっぽく笑う。
「……どういうこと? しかも彼、ハーフなのか。髪色はきれいな銀色だし、目の色は青かったし」
「さぁ? 蒼空くんのことは謎が多いから。でも、それが『あじさい荘の管理人』なんだよ。それより話したいこと、まだまだたくさんある。行こう優里!」
 志音は先に歩き出す。
「それよりって、重要なことだよね? 管理人なんだからなおさら。謎が多いってそれで片づけていいのか? それにさっきのあの身のこなし、只者じゃないと思う。……って志音!」
 優里が追い付いて、志音の横に並ぶ。
 あじさい荘の夏が、ゆっくりと過ぎていく――。