あじさい荘のリビングには紅茶のいい香りが漂う。テーブルには椋太が焼いたシュガークッキーもあった。
「まるで、長年会っていなかった恋人どうしの抱擁……のようだったね?」
 椋太は志音にいたずらっぽく耳打ちして、二階へと上がっていく。湊もごゆっくり、と一礼して椋太に続いた。
 志音は椋太のからかいに顔を赤くしながらも、気を取り直して優里に向き直る。優里は穏やかな表情で、珍しそうに周囲を見渡した。
「シェアハウスなんだね、あじさい荘って」
「うん。最初はいろいろあったけど、今はみんな仲良くやってる」
「よかった。志音が元気そうで」
「優里もね。医学生なんてすごいよ。がんばったんだね」
「父の支配から逃れたくて必死だったからね。大学も奨学金でなんとか行けているよ。高校の時に、先生たちが全面的に協力してくれて、父に知られずに申請することができた。……本当に俺は、多くの人のおかげでここまで来ることが出来たんだ」
 優里は微笑むと、一枚のメモ用紙をテーブルに広げた。そこには、『あじさい荘で待ってる、志音』という短いメッセージが書かれていた。
「この手紙を見て、志音が忘れないでいてくれていたことが分かったんだ。うれしかった。ありがとう」
「……あの場所に、また来てくれるかもしれないって思ったんだ。だから、今度こそ、願いを込めて手紙を埋めた」
 砂時計を掘り起こしたあの日、代わりに志音は小瓶にメッセージを入れて埋め直したのだった。いつかまた、優里が見つけてくれる日を信じて。それしか、できることはなかったから。
「あの日のこと……本当にごめん。僕は何もできなかった。あれから優里のことを忘れたことなんてなかった。どこで何をしているのか。無事でいるのか。ずっと気がかりだった。でもあの日、何が起こったのか記憶が曖昧で……でもどうしても思い出したくて、この村に来たんだ。今は、あの日のことちゃんと思い出せる。そして、優里にまた再会できた」
 うれしくて、本当にうれしくて、志音はまた泣きそうな顔になる。
「泣き虫はそのままなんだな」
 優里はそう言って笑った後、少しだけ寂しそうな笑みをたたえて言う。
「君があやまる必要なんてない。志音や雅哉さんのことを巻き込んでしまったのは俺だから。――あの後」
 優里は静かな声で続ける。
「俺は父に頼んだんだ。せめて手紙だけは埋めさせてほしいって。でも、もう戻っては来られないだろうと思った。だから、代わりに雅哉さんからもらった砂時計を埋めたんだ。志音との思い出がずっと消えないように、大切な砂時計で時を閉じ込めておきたかった。あの場所に父に支配されない気持ちがあること、それを支えに生きていきたかったから」
 志音は優里の話に耳を傾け、砂時計を取り出しそっとテーブルに置いた。
「そうだったんだね。……もう一つの、優里の砂時計は割れてしまったんだ。だから、残っているのはこの一つ。実は僕も雅哉さんの工房に行って、この砂時計を見つけていたんだ。まさか優里と一緒のことをしていたなんて、思わなかったけど。そのおかげで、僕も雅哉さんと出会うことができたし、知ることができた」
「ほんとだね。俺と優里は違うようでいて似ているのかもね。……懐かしいな。一つが割れてしまったのは、あの頃の俺の気持ちに区切りがついからかもしれない。本当に持ち主の思いに寄り添う不思議な砂時計だ。さすが雅哉さんが作った砂時計だね」
 優里は目を細めて、あの日を辿るように砂時計に触れる。
「ねぇ、優里はもう平気なんでしょ? お父さんから離れることができたんだよね?」
 志音はふと心配になる。優里は砂時計から手を離すと、少し緊張したように静かに口を開く。
「……大学の寮に、あいつが来た。つい数日前のことだ」
「え……! また君に付きまとってるの⁉」
 思わず志音は身を乗り出した。
「俺は高校を卒業してすぐに、父親から逃げた。もう、何もできない子どもではなかったから。あいつの支配から逃れようとできたのは、君と雅哉さんのおかげだ。それまで父の前では従順なふりをしていた。大人になったら、また志音に会いたい。その時に、誇れる自分でいられるように。……あいつから離れてもう五年になるのに、あいつは俺の居場所を突き止めてまで、追ってきたんだ」
 優里の表情が翳る。
「あいつは言った。『逃げられると思うな。お前は一生俺に尽くせ』。ふざけるなと思ったよ。でも、抵抗したら何をするか分からない。自分だけならいい。でも大学や寮に迷惑が掛かってしまったら……。そう考えると強気に出ることもできなかった……!」
 優里は悔しそうに唇を噛みしめる。
「そんな時に、ふと思い出したんだよ。志音とのこと。大人になったらまた会えるように、そう願ったあの日のことを。それで、まるですがるように花野枝村に来ていた。……ごめん、なんか会って早々重くなっちゃったな。でも大丈夫だからさ、今度はきっと。……志音に会えてよかった。また勇気をもらえたよ」
 優里は席を立つ。まるでこれ以上いると迷惑がかかる、とでもいうように。
「待ってよ、優里。もう帰るの?」
「ああ、あいつがまた何をするか分からない。前みたいに君を危険な目に遭わせたくない」
「もう、そういうのやめよう」
 志音は戻ろうとする優里を引き留める。
「僕だってもう大人だ。あの時みたいな子どもじゃない。今さらそんな理由で突き放されても、僕は納得しないから。それに今は――みんながいる」
 志音は驚く優里に、にっと不敵に笑う。
「今日は泊まっていって。みんなで作戦会議だ」