「優里」
志音が優里と一緒に願い事を埋めようとしていた時だった。男の人の声にどきりとして手を止める。そこには見知らぬ男性がいた。が、隣にいた優里が驚いたように呟いた。
「……お父さん」
志音はほっと安堵する。彼の父親ならば心配はない。きっと優里を心配して迎えに来たのだろう。よかったね、と言おうとして志音は口を噤む。優里の顔から血の気が引いており、わずかに手も震えているのが分かった。
「優里……?」
普通ではない彼の様子に、志音は相手の男性を見上げる。上背のある父親は張り付けたような笑みを浮かべて、優里、ただ一人を見つめている。いや、凝視している、と言った方が正しいかもしれない。志音は幼いながらも、何か言い知れない恐怖を感じた。
「優里、帰ろう」
父親がゆっくりと近づいてくる。優里がぐっと腕に力を込めたのが分かった。
「……俺は、帰らない!」
まるで懇願するように、優里は叫ぶ。
「俺は、お父さんの奴隷じゃない! もう言いなりになんてならない!」
「優里!」
ぴしゃりと打つような鋭い声に、優里は怯えたように口を閉ざした。志音はただ茫然と立ち尽くすしかない。見たことのない優里の姿、そして威圧的で執着をあらわにした普通とは違う父親。幼い子どもを怖気づかせるにはじゅうぶんすぎた。
「どうして、分かったの。俺がここに来ること」
優里の問いに、父親は歩みを止める。
「聞き出したんだ。綾香(あやか)から。なんだかこそこそとしていたから、あやしいと思ったんだよ。そうしたら案の定これだ。それからはお前を監視していた。いつでもお前を連れ戻せるように」
「……お母さんを脅したの? それともまた……暴力を振るったの?」
父親は答えなかった、代わりに足を動かし再びこちらに近づいてくる。
「そんなことは、どうでもいいことだ。綾香はもう、家を出て行ったのだから。さぁ戻っておいで」
不自然なほどの優しい声で、震える優里へと手を伸ばそうとする――。
「やめてください!」
気が付くと、志音は自分でも驚くくらいの勇気を振り絞り、父親の前に両手を広げ立ちはだかっていた。
「優里は嫌がっています!」
この時、父親は初めて志音に視線を向けた。忌々しそうに目を細め、志音を睨みつけた。泣き出しそうになりながらも、それでも必死で立ちはだかった。
「どけ、邪魔だ」
父親はためらいもなく、容赦のない力で志音の肩をつかむ。そして志音の小さな身体はいとも簡単に突き飛ばされていた。
地面に背中を打ち付け、息が詰まる。
「志音!」
駆け寄ろうとする優里を父親が制した。
「離せ! 俺はもうお前なんかに屈しない!」
「生意気を言うな!」
父親は優里の頬を殴りつけた。優里は地面に倒れ込みながらも、父親を睨んだ。
「なんだその目は! お前、やっぱり俺のことを馬鹿にしてるんだろ‼」
父親は躊躇なく優里の胸ぐらをつかむと、もう一度優里に向かって拳を振り上げる。志音は強く地を蹴っていた。
「やめて! 優里を殴らないで‼」
志音は父親の後ろから必死に胴にしがみつく。
「このっくそガキが‼」
が、あっけなく再び突き放されて、志音は再び地面に突っ伏した。涙が止まらない。なんて自分は無力なのだろう。
「志音……!」
優里が呼ぶ声。志音は泣きながら立ち上がる。守らなければ。優里を守らなければ。その思いだけが、志音を奮い立たせていた。
「あーー、もういい」
父親の苛立った声がした。彼は志音のもとへ近づいてくる。殴られる――志音が思わず身構えた時、彼は放っていた鞄からペットボトルを取り出すと、優しく志音に差し出した。
驚いて見上げる志音に、父親はさっきとはまるで別人のように、優しく諭すように言う。
「喉が渇いただろう。これを飲んで、少し落ち着いて話をしよう?」
志音は息を飲む。緊張と恐怖で喉はからからだった。無性に水分が欲しくなる。
「志音、駄目だ!」
優里がとめようとするも、父親に何かを耳打ちされ動きを止めた。それを目の端に留めながらも、志音は誘惑に負けてしまう。ペットボトルを受け取り、ごくごくと飲んでしまう。冷たくて甘い液体が喉を通る心地よさに、志音は少し落ち着きを取り戻す。
「いい子だ。優里とは友達なのかい?」
父親は優しい声で、志音に質問を浴びせる。志音は素直に答えているうちに、徐々に眠くなってきてしまう。世界がぐらりと揺れる。優里の声が聞こえた気がしたけれど、足元が崩れ落ちていく。意識が深く沈んでいく直前聞こえた声が、志音の脳裏に浸透していく。
「すべて忘れなさい。君にはもう――かかわりのないことだ」
それきり、志音からすべての音が消えた。
「志音くん!」
雅哉の声が、志音を現実に引き戻した。気が付くと志音は床に膝をついており、目の前には割れた砂時計の欠片が散乱していた。
「……っ」
涙が頬を幾度も伝う。止まらなかった。思い出した。すべて。あの日、優里を守りたかったのに守れなかったこと。己の無力さに打ちひしがれたこと。
志音は砕けた砂時計の欠片を一つ、手のひらにのせる。この砂時計は、優里から志音へ向けた言葉だったのだ。また会えますように、その願いさえ許されなかったあの日のことを忘れないように――。
「雅哉さん……優里は……」
彼はすべてを悟ったかのように志音の肩に優しく手を置いた。あの日の悔しさがとめどなくあふれて、止まらなかった。
志音が優里と一緒に願い事を埋めようとしていた時だった。男の人の声にどきりとして手を止める。そこには見知らぬ男性がいた。が、隣にいた優里が驚いたように呟いた。
「……お父さん」
志音はほっと安堵する。彼の父親ならば心配はない。きっと優里を心配して迎えに来たのだろう。よかったね、と言おうとして志音は口を噤む。優里の顔から血の気が引いており、わずかに手も震えているのが分かった。
「優里……?」
普通ではない彼の様子に、志音は相手の男性を見上げる。上背のある父親は張り付けたような笑みを浮かべて、優里、ただ一人を見つめている。いや、凝視している、と言った方が正しいかもしれない。志音は幼いながらも、何か言い知れない恐怖を感じた。
「優里、帰ろう」
父親がゆっくりと近づいてくる。優里がぐっと腕に力を込めたのが分かった。
「……俺は、帰らない!」
まるで懇願するように、優里は叫ぶ。
「俺は、お父さんの奴隷じゃない! もう言いなりになんてならない!」
「優里!」
ぴしゃりと打つような鋭い声に、優里は怯えたように口を閉ざした。志音はただ茫然と立ち尽くすしかない。見たことのない優里の姿、そして威圧的で執着をあらわにした普通とは違う父親。幼い子どもを怖気づかせるにはじゅうぶんすぎた。
「どうして、分かったの。俺がここに来ること」
優里の問いに、父親は歩みを止める。
「聞き出したんだ。綾香(あやか)から。なんだかこそこそとしていたから、あやしいと思ったんだよ。そうしたら案の定これだ。それからはお前を監視していた。いつでもお前を連れ戻せるように」
「……お母さんを脅したの? それともまた……暴力を振るったの?」
父親は答えなかった、代わりに足を動かし再びこちらに近づいてくる。
「そんなことは、どうでもいいことだ。綾香はもう、家を出て行ったのだから。さぁ戻っておいで」
不自然なほどの優しい声で、震える優里へと手を伸ばそうとする――。
「やめてください!」
気が付くと、志音は自分でも驚くくらいの勇気を振り絞り、父親の前に両手を広げ立ちはだかっていた。
「優里は嫌がっています!」
この時、父親は初めて志音に視線を向けた。忌々しそうに目を細め、志音を睨みつけた。泣き出しそうになりながらも、それでも必死で立ちはだかった。
「どけ、邪魔だ」
父親はためらいもなく、容赦のない力で志音の肩をつかむ。そして志音の小さな身体はいとも簡単に突き飛ばされていた。
地面に背中を打ち付け、息が詰まる。
「志音!」
駆け寄ろうとする優里を父親が制した。
「離せ! 俺はもうお前なんかに屈しない!」
「生意気を言うな!」
父親は優里の頬を殴りつけた。優里は地面に倒れ込みながらも、父親を睨んだ。
「なんだその目は! お前、やっぱり俺のことを馬鹿にしてるんだろ‼」
父親は躊躇なく優里の胸ぐらをつかむと、もう一度優里に向かって拳を振り上げる。志音は強く地を蹴っていた。
「やめて! 優里を殴らないで‼」
志音は父親の後ろから必死に胴にしがみつく。
「このっくそガキが‼」
が、あっけなく再び突き放されて、志音は再び地面に突っ伏した。涙が止まらない。なんて自分は無力なのだろう。
「志音……!」
優里が呼ぶ声。志音は泣きながら立ち上がる。守らなければ。優里を守らなければ。その思いだけが、志音を奮い立たせていた。
「あーー、もういい」
父親の苛立った声がした。彼は志音のもとへ近づいてくる。殴られる――志音が思わず身構えた時、彼は放っていた鞄からペットボトルを取り出すと、優しく志音に差し出した。
驚いて見上げる志音に、父親はさっきとはまるで別人のように、優しく諭すように言う。
「喉が渇いただろう。これを飲んで、少し落ち着いて話をしよう?」
志音は息を飲む。緊張と恐怖で喉はからからだった。無性に水分が欲しくなる。
「志音、駄目だ!」
優里がとめようとするも、父親に何かを耳打ちされ動きを止めた。それを目の端に留めながらも、志音は誘惑に負けてしまう。ペットボトルを受け取り、ごくごくと飲んでしまう。冷たくて甘い液体が喉を通る心地よさに、志音は少し落ち着きを取り戻す。
「いい子だ。優里とは友達なのかい?」
父親は優しい声で、志音に質問を浴びせる。志音は素直に答えているうちに、徐々に眠くなってきてしまう。世界がぐらりと揺れる。優里の声が聞こえた気がしたけれど、足元が崩れ落ちていく。意識が深く沈んでいく直前聞こえた声が、志音の脳裏に浸透していく。
「すべて忘れなさい。君にはもう――かかわりのないことだ」
それきり、志音からすべての音が消えた。
「志音くん!」
雅哉の声が、志音を現実に引き戻した。気が付くと志音は床に膝をついており、目の前には割れた砂時計の欠片が散乱していた。
「……っ」
涙が頬を幾度も伝う。止まらなかった。思い出した。すべて。あの日、優里を守りたかったのに守れなかったこと。己の無力さに打ちひしがれたこと。
志音は砕けた砂時計の欠片を一つ、手のひらにのせる。この砂時計は、優里から志音へ向けた言葉だったのだ。また会えますように、その願いさえ許されなかったあの日のことを忘れないように――。
「雅哉さん……優里は……」
彼はすべてを悟ったかのように志音の肩に優しく手を置いた。あの日の悔しさがとめどなくあふれて、止まらなかった。
