雅哉は話し終えると、ひび割れた砂時計をそっと作業台に戻した。時がゆっくりと、でも確実に過ぎていくのを感じるほどの静寂。
 志音は今まで知らなかった優里の一面に、ただ言葉を失った。家庭に問題があることは、何となく知っていた。でも、彼はそのことに一切触れなかったし、避けていたように思う。優里なりの強がりだったのか、それとも志音には知られたくなかったのだろうか。自分の弱い部分を見せたくなかったのかもしれない。
 それなのに、自分は何も知らずにずっと優里に甘えっぱなしで、頼ってばかりで。志音は不甲斐なさに打ちひしがれそうになる。
「優里が、そんな境遇に置かれていたなんて……」
「優里くんは、ずっと自分だけで背負おうとしていたんだよ。誰にも迷惑をかけたくないし、心配もかけたくない。それは、彼の強さでもあり、弱さでもあった。特に、親友の志音くんには知られたくなかったんだろうな。……だからあの日、君が砂時計を見て寂しそうだと言ったのには正直驚いた。しかも君が、優里くんの親友だったなんて」
 雅哉は席を立ち、カップに二つコーヒーをついで戻って来た。いい香りが辺りに広がり、少しだけ心が落ち着いていく。
 雅哉は自身を落ち着かせるようにカップに口をつける。
「雅哉さんと優里は友達だったんですね。僕は、優里のことを知っているようでいて、全然知らなかった」
 志音が知っている優里は、弱虫の志音を守ってくれる強い子で、自分よりもずっと大人で何でも知っていて、いつも志音を導いてくれる存在で。志音は彼の後をいつも追いかけていた。
「……優里くんは、あまり本音を言わないような子だったからね。君が気に病む必要はない。……責められるべきは、俺なんだよ。……ここからが誰にも話したことはなかった、君にだから話しておかなければならない、重要な話だ」
 雅哉はもう一度だけコーヒーを飲み込んだ後、覚悟を決めたようにゆっくりと語り始める。
「俺は、彼を父親の支配から解放してやりたかった。夢に向かわせてあげたかった。何度目かの手紙のやり取りの後、優里くんはやっと、父親から離れる決意をしてくれたんだ。そこで、とある計画を立てた」
 雅哉の声音が神妙になったような気がした。志音は注意深く耳を傾ける。
「優里くんを父親から離し、自分のところに匿うこと。それには、ある程度準備が必要だったし、あまり時間もなかった。優里くんの母親が家を出て、行方をくらましてしまう前にやらなければならないことがあったからだ」
 雅哉の話はこうだった。まずは母親に、父親には秘密で転校の手続きを進めてもらうこと。そして、工房で優里と待ち合わせをし、雅哉が優里を連れて自分のアパートに匿うこと。学校には、そこから通ってもらえばいい。とにかく、優里を父親から一刻も早く離したかったのだと。
「優里の母親は幸いにも協力的だった。自分は再婚するから、息子のことは連れていけない。でも、父親のもとへ置いていく息子が気がかりだった。中学卒業まで、少しだけれど優里くんの生活費の援助はするからって、逆にお願いしますと頭を下げられたよ……自分の勝手な罪悪感を埋めるためにね」
 雅哉は皮肉っぽく言う。
「だけど、計画はうまくはいかなかったんだ。あの約束の日、優里くんは来なかった。俺は翌日まで待ったのだけど、姿を見せなかった。優里くんの手紙の住所を頼りに家にも行った。でも引っ越したようで、もう誰もいなかった。彼の消息は途絶えてしまった。……それきり、何の音沙汰もなかった」
 話し終えて、雅哉は深く息をついた。優里を救えなかった後悔に打ちひしがれているように。そうして、志音も彼に告げる決心をする。
「……やっと分かりました。あの日、優里がどうして急いでいたのか。何をしようとしていたのか。優里は、あなたのもとへ行こうとしていたのですね。自分で決めて、自分の足で」
「あの日……? 君は優里くんに会っていたのか」
「はい。でも、途中で記憶が途切れてしまっているんです。あの日、本当は何があったのか。重要な部分が抜け落ちてしまっているんです」
「そうか。君は記憶を取り戻しに、この村に来たというわけだね」
 志音はうなずく。
「優里くんの父親が、彼を連れて行ってしまったと考えるのが自然だろう。きっとばれてしまったんだ。俺たちの計画が」
 苦い顔をして雅哉はつぶやく。
「優里の、父親が……」
 その時、激しい頭痛が志音を襲った。志音は頭を抱えて呻き、作業台に激しく腕をつく。その振動で、優里の砂時計が作業台から転がり落ち――乾いた破裂音とともにいとも簡単に割れた。その瞬間。志音の視界は白く塗りつぶされる――。