暦は葉月へと移り代わり、もう半ばも過ぎた。あじさい荘が一番静かな時間は、夜の帳がおりきったこの時間だ。廊下を歩く音もやみ、自室には蛙の鳴き声だけが響いてくる。
 帰省客でにぎわうお盆も終わったせいか、よけいに静けさが際立っているように思えてくる。蒼空はたぶん、屋根裏部屋にいて、湊も部屋で原稿と向き合っているだろう。椋太は母親の新盆から帰ってきて、静かな時間を過ごしているはずだ。今度こそ、家族とちゃんと向き合えたと、椋太は言って切なそうに微笑んでいた。
 花野枝村の夜は、真夏だというのに涼しい。冷房がいらないくらいだ。開けていた窓からはふわりとレースのカーテンが舞って、ひやりとした心地のいい風が通っていく。
 ふと志音は窓辺に置かれたガラス細工の砂時計に目をやる。硝子細工工房あかつきで、若き硝子細工職人の店主――藤谷(ふじたに)雅哉(まさや)からもらったものだ。志音は工房が気に入り、仕事が終わった後や、休日に足しげく見学に通った結果、少しずつではあるけれど硝子細工作りを教わるまでになった。『物づくり』が好きだった志音にとって、毎日が砂時計のように、きらきらと輝いているようだった。でも――。そのたびに頭をかすめるのは優里のことだ。行方が分からない親友。志音にとってヒーローのような存在で。
 蛍舞う庭で聞いた、『すべて忘れなさい』という男の声。記憶がまるでその言葉にせき止められているような心地がしたし、何より吐き気をもよおしてしまうくらいの気持ち悪さが、志音の心に歯止めをかけていた。
 志音はやるせなさに、すがるように砂時計を手に取る。本当に、いつまでも眺めていたくなるくらいにきれいだ。記憶を取り戻さなくてはならないのに、なぜ足踏みをしてしまうのだろう。
 志音は砂時計を傾けた。さらさらと流れ落ちるガラスの砂。まるで乾いた音が聞こえてきそうなくらい優しく、それでいて繊細で。
『願掛けなんだ。これは、俺の願い』
 唐突に、優里の声がよみがえってくる。久しぶりの声に、志音は目を見開いた。まるで自分の声に応えてくれたように思えて、志音の視界がにじむ。
「優里……」
 志音はこぼれそうになる涙をぐっとこらえて、優里の声を手繰り寄せるように、あの日の片鱗を探る。もう離したくない。手放したくない。答えてほしい、自分の声に――。まるで志音の願いに答えるように。記憶がいつになく鮮明に、色を伴って志音の脳裏に映像を結ぶ――。

 
 十年前の六月。あの日、今にも雨が降り出しそうな空の下で、優里はポケットから透明なガラス瓶を取り出した。中には手紙らしき白い便せんがきれいに折りたたまれている。
「俺の手紙。社の先の、この場所に埋めていく。ちゃんと覚えておいて」
 優里はそう言って、凛と大人っぽく微笑んだ。
「手紙? どうして」
 小学四年生の志音は、優里を見上げる。
「願掛け。またいつか、ここで君と会えるように。未来へ向けた手紙だよ」
「どういうこと? 優里、いなくなっちゃうの?」
「……うん」
 優里は寂しそうに笑う。彼のそんな顔を初めてみた志音は一気に不安になる。
「やだよ、優里、どこにも行かないで」
 志音がすがるように見つめても、優里は視線をそらしてしまう。
「……ごめん」
 志音の視界が歪む。泣きそうになるのをぐっとこらえた。優里を困らせてしまうのは嫌だったから。
「俺は、もうここにはいられないんだ。どうしても、駄目なんだ。……志音の分も持ってきた。願いを書いて、一緒に埋めよう。大人になったら、またこの場所に帰って来られるように。また必ず会えるように」
 志音はうなずいて、差し出された小さな紙を受け取った。そして、木の幹の上に押しあてるようにして、泣きそうな震える手で、せいいっぱい心を込めて書いた。
『また、優里と会えますように』と。
 木の枝を使い、二人で地面を掘って。二つの便せんが入った小瓶を想いを込めて埋めた――。