「ねぇ優里、どこまで行くの?」
 志音は泣き出しそうになりながらも、三つ年上の幼なじみへ言葉を投げた。優里はそんな志音の不安をよそに、ずんずんと細い林道を進んでいく。村までは子どもだけで徒歩で来られた。
「もう少し先まで」
「えー帰ろうよ」
 どよどよとした空の色も、幼い志音の心細さを煽る。
「大丈夫だよ。俺がついてる」
 優里は少しも恐れていない。淡々としている様子だ。
「そうだけど、こんなところまで来たことないし、パパやママにもあんまり遠くには行っちゃ駄目だって言われてるし」
 村にはよく来ていたものの、こんな山奥っぽいところまで来たことはなかった。
「志音は弱虫だな。そんなんじゃこの先、生きていけないよ。世の中には、もっとこわいことなんてたくさんある」
「そんなこと言われても」
 志音はべそをかく寸前だ。優里は時々難しいことを言う。志音はいつもぴんとこなくて首をかしげるばかりだ。
「今日が最後なんだよ。今日しかないんだ。だからお願いだ、一緒に来て」
「どういうこと?」
 志音の質問に答えないまま、優里はどんどん先を行く――。

 志音は、はっと我に返る。雨はまだやみそうになく、ますます地面を叩きつけ始めていた。あの日の記憶だった。今まで少しも思い出せなかったのに。
 辺りはどんよりと暗く、雨音だけが響いていた。突然湧き上がってきた記憶、誰もいない不気味さ。志音は心もとなくなり、人がいないか思わず門の中を覗いた。看板が出ているのだから、何かの施設だと思った。昔ながらの引き戸の玄関はしっかりと閉じられている。
 格子戸がある窓を見遣るも、薄暗くてよく分からない。外観は和と洋が入り混じったような、ちょっとモダンな古民家だ。
「誰もいないっぽい……?」
 もうすぐ夕暮れ時なのだが、明かりの一つもついていない。だが入り口の紫陽花はよく手入れされているように見える。
 周囲にはコンビニもないし、バスの本数も少ないので下手したら帰れなくなってしまう。
 スマホはかろうじて圏外ではないようだったが、タクシーを呼ぶのも気が引ける。小さな町工場勤務の自分にとってタクシー代なんて高価だ。
「仕方がない、行こう」
 足を踏み出そうとすると雷鳴がとどろいた。まるで足を阻むかのような激しさだ。雨脚もさらに強くなる。
 志音は怯むが、バス停まで走るしかないのだ。意を決してその場を離れようとした時だった。ぱっと古民家に明かりがついた。温かな夕陽のような光だった。そして、閉ざされていた玄関の木戸ががらがらっと音を立てて開いた。
 まさか人がいるとは思っていなかったので、志音は息を飲む。と、顔を出したのは意外な人物だった。年の頃は十八ほどだろうか。はからずも目が合ってしまい、人見知りの志音は何となく気まずい思いをする。
 濃い青のブラウスに黒のズボン姿の少年は、志音を見るとぱっと顔を輝かせた。とても人懐っこい表情に、警戒心の強い志音は逆に身構えてしまう。しかも少年は、およそ村の古民家に似つかわしくないような容姿だ。銀髪のきれいな髪は後ろでゆるく結ばれているし、目の色も青く、まるで日本人離れしている。ハーフだろうか? でもこんなところに? 志音にはてなが渦巻いていたが、気を取り直して言う。
「すみません。急な雨だったので、軒下をお借りしていました。もう行きます」
 志音はぺこりと頭を下げ去ろうとする。
「待って!」
 たたた、と軽い足音をたてて少年は玄関を出るとまるで招き入れようとするかのように、門の扉を開いた。しかも天使のような無邪気な笑み付きだ。胸に下がったきれいな石がきらりと光る。
「あの……」
 勝手に軒下を借りたのが悪かっただろうか。志音が戸惑っているのを見てか、彼はいけないとつぶやくと、姿勢を正し改めてといった様子でこちらを見た。
「よろしければ、お茶でも飲んでいきませんか?」
 さっきとは打って変わった落ち着いた態度と優美な微笑みに、志音は唖然とした後、控えめに答える。
「お心遣い、ありがとうございます。でもバスの時刻があるので……」
「この村のバスは、もう行ってしまった時刻ですよ」
 え、と志音は腕時計を見遣る。時刻は十六時過ぎ。
「嘘……!」
 ついさっきまで十五時過ぎだったはずだ。この時刻ではバスはもう行ってしまっているだろう。信じられなくて、志音はスマホを見る。やはり時刻は腕時計と一緒だ。
「……帰れない」
 がっくりと肩を落とす。一体自分は何を勘違いしていたのだろう……。終わった。徒歩だとしたら二時間はかかるだろうし、結構な山道を外灯もない中歩くのは現実的ではない。観念してタクシーに頼るしかなくなってしまった。志音がぐるぐると考えているのを尻目に、少年はなぜかうれしそうだった。
「ね、だから……いえ、よろしければ……あーもう! やっぱり敬語は苦手! 向いてないや!」
 少年はもどかしそうに言うと、まっすぐに志音を見た。志音は再び輝く瞳を向けられてたじろぐ。
「安心して! このあじさい荘の部屋、空いてるからさ!」
「え、いや。泊まる気はないよ」
「そんなこと言わないで、とにかくお茶だけでも! さ、入って入って!」
「いや、でも!」
 少年に背中を押され、促されるまま志音はあじさい荘と呼ばれる古民家に立ち寄るはめになってしまった。