後日、湊はとある冊子を片手に村役場を訪れていた。職員の南雲拓海が窓口カウンター越しに姿を見せる。
「おや、湊くん。珍しいですね。今日はどうかしましたか?」
すっかり顔なじみの拓海は親しげに言う。湊は突然押しかけてすみません、と前置きした後、持ってきていた冊子をカウンターに置く。『花野枝だより』。村で村民に向けて発行されている広報誌だ。
湊はとあるページを開いて。
「このコラム。南雲さんが書いてるんですよね」
半ページというわずかなスペースだけれど、そこにはしっかりと南雲の名が記してある。
「ああ、これね。恥ずかしながら。でも私は……どうも書くのが苦手で。毎回毎回頭を悩ませて、苦労しながら書いているんですよ」
南雲はやれやれ、という風に笑う。
「あの、もしよろしければこのコラム。俺に書かせてもらっていいでしょうか。一回きりでもかまいません。どうか、お願いします!」
湊は頭を下げる。
「時々村民の皆さんにも書いてもらうことはあるし、何より――私が助かりますよ、湊くん!」
南雲はうれしそうにうなずく。コラムを書くことが相当厄介だったようで、南雲は快く承諾してくれた。
自分の気持ちを、素直に書こうと決めていた。気取らず、格好をつけず、ただ正直に。あじさい荘に来てから、少しでも自分は変われたのだと思うし、これからも、『自分』のままで、もっと変わっていきたいと思う。
すべての人でなくてもいい。誰か一人の心に届いたらいい。そう願いを込めて。
『古民家あじさい荘より』
(花野枝村広報誌コラム・文/高宮 湊)
朝が来る前、霧が出る。
まだ暗くて、夏だというのに少し寒くて、足元の先すらみえないような、そんな深い霧だ。
この村に来た時、僕はまだ霧の中にいた。前にも進めなくて、だからといって後戻りもできない。
もう歩くのはやめたい。そう思った時、小さなぬくもりが寄り添った。幻だと思った。気のせいだと思った。でもそのぬくもりは、僕を見つめて、『まだ終わりじゃない』と、告げているように思えた。
信じられないかもしれないが、そのぬくもりの正体はもう亡くなってしまった僕の愛猫だった。僕をこの場所まで連れて来てくれたのだと思う。愛猫の姿が、僕が作り出した幻だとしても、僕はあの体験を大切にしたいと思うし、一生忘れないと思う。
僕はあじさい荘に住んでいる。皆さまもよくご存じの、ちょっと風変わりなシェアハウスだ。そこには、「おかえり」がちゃんとある。
誰かと比べて落ち込む日も、うまくいかない仕事にへこむ夜もある。それでも。
「あなたは、あなたでいい」
そう言ってくれる誰かが、そばにいてくれた。
「帰ろう」
そう言って、何があっても手を差し伸べてくれる誰かがいた。そのおかげで、今、僕はここにいられる。生きていられる。
霧は、いつか晴れる。ゆっくりでもたどりつける。
この村のどこかで、同じように霧の中で立ち止まっている人がいたら、どうか思い出してほしい。あなたがいていい場所は、たしかにこの世界のどこかにある。
自分で選ぶことができる。その場所を、信じて。
僕にとって大切な居場所が、あじさい荘だったように――。
「おや、湊くん。珍しいですね。今日はどうかしましたか?」
すっかり顔なじみの拓海は親しげに言う。湊は突然押しかけてすみません、と前置きした後、持ってきていた冊子をカウンターに置く。『花野枝だより』。村で村民に向けて発行されている広報誌だ。
湊はとあるページを開いて。
「このコラム。南雲さんが書いてるんですよね」
半ページというわずかなスペースだけれど、そこにはしっかりと南雲の名が記してある。
「ああ、これね。恥ずかしながら。でも私は……どうも書くのが苦手で。毎回毎回頭を悩ませて、苦労しながら書いているんですよ」
南雲はやれやれ、という風に笑う。
「あの、もしよろしければこのコラム。俺に書かせてもらっていいでしょうか。一回きりでもかまいません。どうか、お願いします!」
湊は頭を下げる。
「時々村民の皆さんにも書いてもらうことはあるし、何より――私が助かりますよ、湊くん!」
南雲はうれしそうにうなずく。コラムを書くことが相当厄介だったようで、南雲は快く承諾してくれた。
自分の気持ちを、素直に書こうと決めていた。気取らず、格好をつけず、ただ正直に。あじさい荘に来てから、少しでも自分は変われたのだと思うし、これからも、『自分』のままで、もっと変わっていきたいと思う。
すべての人でなくてもいい。誰か一人の心に届いたらいい。そう願いを込めて。
『古民家あじさい荘より』
(花野枝村広報誌コラム・文/高宮 湊)
朝が来る前、霧が出る。
まだ暗くて、夏だというのに少し寒くて、足元の先すらみえないような、そんな深い霧だ。
この村に来た時、僕はまだ霧の中にいた。前にも進めなくて、だからといって後戻りもできない。
もう歩くのはやめたい。そう思った時、小さなぬくもりが寄り添った。幻だと思った。気のせいだと思った。でもそのぬくもりは、僕を見つめて、『まだ終わりじゃない』と、告げているように思えた。
信じられないかもしれないが、そのぬくもりの正体はもう亡くなってしまった僕の愛猫だった。僕をこの場所まで連れて来てくれたのだと思う。愛猫の姿が、僕が作り出した幻だとしても、僕はあの体験を大切にしたいと思うし、一生忘れないと思う。
僕はあじさい荘に住んでいる。皆さまもよくご存じの、ちょっと風変わりなシェアハウスだ。そこには、「おかえり」がちゃんとある。
誰かと比べて落ち込む日も、うまくいかない仕事にへこむ夜もある。それでも。
「あなたは、あなたでいい」
そう言ってくれる誰かが、そばにいてくれた。
「帰ろう」
そう言って、何があっても手を差し伸べてくれる誰かがいた。そのおかげで、今、僕はここにいられる。生きていられる。
霧は、いつか晴れる。ゆっくりでもたどりつける。
この村のどこかで、同じように霧の中で立ち止まっている人がいたら、どうか思い出してほしい。あなたがいていい場所は、たしかにこの世界のどこかにある。
自分で選ぶことができる。その場所を、信じて。
僕にとって大切な居場所が、あじさい荘だったように――。
