玄関の閉まる小さな音が吸い込まれるように消えると、あじさい荘には再び静寂が訪れた。
 志音は身を隠していたが、二階の手すりをにぎり階下を見つめる。
「……やっぱり湊くん。出て行くつもりだったんだ」
 志音が言うと、同じく隠れていた椋太も傍らに来ると答える。
「ったく、家出だなんて。思春期じゃあるまいしね?」
 嘆息しつつ、しかし椋太の言葉からは湊に対する慈愛のようなものを感じた。
「そんなこと言って、椋太くんだって心配で起きてたくせに」
 椋太は苦笑して答える。
「まぁね。あのまま放っておいたら、またよからぬことを考えそうだったからさ」
「……気づいていたんだね。湊くん、あじさい荘に来たとき、ほとんど荷物なんてなかったこと」
「ああ。地元でもない限り、知り合いもいない村にあんな身一つで来ないでしょ、普通は。しかもウエブライターなのに、パソコンすら自前じゃない」
「……最悪を想定すると」
 志音の言葉に椋太はうなずき、声を低くして言う。
「死ぬつもりだった。そう考えるのが、妥当かな。勘違いだといいんだけどね」
 志音は決意のこもった顔を上げると、椋太とともに急ぎ階下へと降りる。寂しそうに立ち尽くす蒼空に、志音は言う。
「必ず連れ戻してくるよ。だから――待ってて」
 椋太も彼にうなずいてみせると、蒼空は薄く微笑んで、しっかりとうなずき返した。


 夜明け前の坂道は、しんと静まり返って、色さえも薄く感じる。湊はほとんど惰性で足を動かしていた。どこに向かうでもない。行く当てなんて最初からないのだ。
 自分は最低な人間だ。志音や椋太にだけではない。蒼空にまでひどいことを言ってしまった。どうして、わざわざ嫌われるような態度を取ってしまうのだろう。ただの八つ当たりだと、自分でも分かっているのに。もともと好かれる性格でもないのだから、表面だけでも取り繕えたら楽なのに。
 湊は足を止めることなく坂道を上がっていく。そういえば、とふと思い出す。自分がこの村に来た理由だ。唯一大切だった愛猫、ルルを亡くして、希望を失って、それからはよく覚えてない。いい死に場所を探していた、ということだけはっきりと覚えている。そうして気が付いたら人気がない道にいて、ルルが目の前に躍り出た気がした。
 ルルを追って、あじさい荘に入っていくのが見えた。だから、湊は勇気を出してあじさい荘を訪れたのだ。まさか、自分が住むことになるとは夢にも思わなかったけれど。
「結局、幻だったんだな……」
 湊は一人つぶやく。本当に自分が生きている理由なんてなくなってしまった。最初の予定通り――実行するしかない。もう、どこにも帰る場所なんてないのだから。
 そう決意し、足を速めた時だった。ふ、と何かが足元をかすめた。やわらかな感触。足にすり寄るように、白い影が――。
「……ルル!」
 まぎれもなく、湊の唯一大切だった存在が、湊の歩みを止めようとするかのようにすり寄っていた。
 白い綿毛のようなふわふわな毛並み、宝石のような美しい瞳。
「嘘、だろ。……やめろよ。幻なら、今すぐ消えてくれ……」
 目の奥が熱い。息が詰まる。けれど、ルルは消えない。湊が構わず足を進めても、ルルはふさふさの尻尾を立てて、すぐ隣をついてくる。立ち止まれば、その額を彼の足にそっと押し当ててくる。
 湊はひざをつき、ルルに触れようとする。でも、触れない。手がすり抜ける。
「なんだ、やっぱり幻じゃないか……」
 湊は再び足を動かす。空は薄桃色を帯び始めている。
「止めようとしてくれてるんだよね。でも……いくら君でもそれは無理だよ」
 湊は感情を押し込めるように深く、静かに息を吐いてから言う。
「……君はただの幻。俺が勝手に作り出した残像」
 湊は再び足を止めしゃがみこみ、触れることのできない幻にそっと指先を伸ばす。
「心配しないで。大丈夫、俺も君のもとに行くから」
 言い終えた、その瞬間。ふ、と風が吹いた。まるで指先からほどけるように、すうっと幻が消える。
「……っ」
 湊は一度きつく目を閉じてから、再び坂を上り始めた。
 いつしか辺りには霧がたちこめ始める。もうどこを歩いているのかもよく分からない。
 そうして、湊の足が止まった。いつの間にか自分は、林の中にいた。薄い霧の先には崖が見える。
「……ちょうどいい、かな」
 湊はゆっくりと崖に向けて足を進めていく。その時だった。後ろから、誰かに腕をつかまれる。
「湊くん!」
 見遣ると、志音が腕をつかんでいた。その横には椋太もいる。
「どうして君たちが……」
 声にも力が入らない。
「帰ろう、湊くん。あじさい荘に」
 志音は変わらずに優しく言う。八つ当たりして怒鳴ってしまったのに、まるで何もなかったかのように。
「そうだよ、湊。君もあじさい荘の住人だろ?」
 椋太が穏やかに笑う。まるで、すべてを包み込むような微笑み。けれど。湊は志音の手を振りほどき、数歩後ずさる。
「来るな。帰ってよ、二人とも! 俺なんていてもいなくても関係ないだろ」
「湊くんは、誤解してるよ。僕たちにとって、湊くんは友達なんだよ。友達なのに、関係ないなんて思わない! そんなこと思うわけない!」
「志音の言う通り。君が笑えば俺たちはうれしいし、落ち込んでいたら心配になる。それって、当たり前のことじゃないかな」
「……やめろよ。そうやって期待させるの。……君たちのことは嫌いじゃない。でも、あまりにも俺とは違いすぎて、遠すぎて、自分がみじめになるんだよ……!」
 湊はまた数歩後ずさる。もう嫌だ。こんな自分から逃げ出したい……! その思いだけが湊を突き動かす。
「……俺は……自分であることを捨てたいんだよ……!」
 今度は大きく一歩を退く。その時だった。足元の土が小さく崩れた。
 ぐらっ――。体が傾く――。
「湊くん!」
「やばい――!」
 二人が同時に地を蹴ったのが見えた。そして。湊の体は宙に浮いていた。ぎりぎりで、湊の腕を志音が掴んでいる。
「……っ、持ち上がらない……!」
 志音の体まで徐々に引っ張られているのが分かった。
「湊、力抜くな! しっかり掴るんだ!」
 そのすぐ後から椋太も湊の腕を引き上げようとする。が、そう簡単に引き上げられるものではない。
「二人とも手を離して! このままじゃ……!」
 湊は引き絞るように声を出す。
「離せるわけない! 絶対に離さない‼」
 志音が叫ぶ。
「俺なんかのためにそこまでしなくていいから!」
「君が落ちたら、俺たちが後悔する……! 例え何があっても、この手を離すことはありえない……!」
 椋太も湊に答えた瞬間だった。三人の体が崖下へと引きずり込まれるように――落ちる。
 ああ、これで終わるんだ。でも、二人だけは。自分はどうなってもよかったのに。なのにどうして――!
 湊がどうしようもない後悔に支配され、それさえもすぐに消えてしまうと思った刹那――背中にふわりとした感触を感じた。風のような柔らかなそれが、宙に投げ出された三人を抱くようにかすめて。
――ばしゃぁ!
 衝撃はなかった。水につかった冷たさだけが自分の目を覚まさせる。水の深さは腰程度。崖から落ちたらひとたまりもないはずなのに。
「げほっ、い、生きてる……⁉ みんな大丈夫⁉」
 志音の声に、水の中に座り込んだ椋太が優雅に手を上げこたえる。
「なんとかね。……しかし、本当に死ぬかと思ったけど、不思議だね? なぜか傷一つないよ」
「なんで……」
 水中に立ち尽くし、呆然とする湊の視界の端……水面に白い小さな影を見た。でもそれはほんの一瞬で、まばきをした瞬間にはもう見えなかった。完全に、消えてしまった。
 皆を、自分を助けてくれたのは――。それを知った瞬間、涙があふれて止まらない。
「なんで、なんで助けるんだよ。俺には何もなくて……誰の役にも立っていなくて、人に八つ当たりしかできないのに……!」
 流れる涙が川水と混ざる。その言葉はルルへ、そして志音と椋太にも向けて。死ぬかもしれないのに。こんな自分のために、どうして彼らは命をかけてしまうのだろう。
 湊は立ち尽くしながら、ただ涙を流すことしかできない。
 志音が近づいて、優しく湊に語り掛ける。
「何より君に、いてほしかったから。僕は――君を助けるために手を伸ばしたこと、絶対に後悔しない」
 志音の強い言葉が、湊の心を溶かしていく。
「俺らは、必要だから助けたんじゃない。ここにいてほしいと思ったから、命を懸けたんだ。……それじゃ駄目だというなら、せめて俺たちのために生きなよ。自分の生きる意味なんて、それから考えても遅くないよ?」
 椋太も立ち上がり、湊のそばに来ると切なそうに笑う。そして、志音が湊へ手を差し出して、微笑む。
「それに、君は何もないって言ったけど。そんなことない。『書くこと』。仕事にできるくらいに、書くこと。誰でもできるわけじゃない。それは、湊くんの何より誇れる武器でしょ?」
「だいたい、自分自身から逃げようったって都合よすぎなの。自分からは逃げられない。どこへ行ってもついてくるからね。……逃げるより、俺たちの手を取ったほうが楽しいと思うけれど、どう?」
 椋太も湊へと手を差し出す。
「……っ」
 涙がとめどなく溢れて、止まらない。それでも湊は二人の手を両手で同時に取った。しっかりと強く。二人は、自分のことを嫌わないでいてくれる。自分という存在を『認めて』くれる。ここにいていいのだと思わせてくれる。
「じゃあ、帰ろう」
「ずぶ濡れで帰って、蒼空の驚く顔も早く見たいしね」
 志音と椋太の言葉に、湊はしっかりとうなずく。
「二人とも……約束してほしい。俺のためだからって……もう二度と、あんな無茶しないで」
「それは無理‼」
 志音と椋太は同時に即答したのだった。