祭りが三日後に迫ったある日。役場での仕事も終わり、志音が居間の掃除をしていると、あじさい荘の呼び鈴が鳴った。ドアをあけると、門の外にポニーテールに制服姿の気の強そうな少女が立っていた。
「澪さん……!」
 小袖を着ていた時とは少し雰囲気が違う。
「……こんにちは。あの、椋太さんはいますか?」
 澪はためらいがちに訊ねる。
「ごめん、今、湊と一緒に買い物に出かけてて。よかったら中で待っていてもいいけれど」
「いえ、大丈夫です。今日はこれを返しに来ただけなので」
 澪は小さなバッグを志音に渡す。空のお弁当箱だ。
「椋太さんに、美味しかった、ありがとうって伝えてください」
「うん、伝えておくね」
「あの……」
 澪は再びためらいがちに口を開く。
「椋太さんって何者なんですか? 噂にきいていた印象とまったく違くて」
「噂?」
「はい。椋太さんは、天嶺(あまね)ホールディングス社長の御曹司でしょう?」
 初めて聞くことに、志音は目を丸くする。天嶺ホールディングスという企業は志音もよく知っていたし、おそらく知らない人がいないというくらいの有名企業だ。
「恋人と駆け落ちして、ホストになったって……そして、この前、奥様が亡くなった時に葬式にも来なかった。そうお母さんたちが噂してたのを聞いていたから。祭りでご一緒するので、どんな人なのかって、少し不安だったんです。でも、実際話してみたら、まったく違いました。料理が得意で、優しくて。無理に踏み入ってこようとしないですし」
 志音は初めて知る話の数々に驚きつつも言う。
 高校生の澪でさえ知っている、ということはすでに村じゅうで語られていることなのだろう。椋太は気にする素振りさえみせていない。でも、村の人たちの前に出ることが、本当は辛いことだったのかもしれない……。
「椋太くんは、本当に優しい人だと思うよ。僕らのことも思いやってくれるし。でも、僕らもあんまり椋太くんのことは知らないんだ。あまり自分のことを話す人ではないから。……でも、椋太さんは悪い人では決してない。それだけは胸を張っていえることだよ。一緒に暮らしている僕が言うんだから、間違いない」
 澪はふっと柔らかく笑う。
「そうなんですね。……お祭り、楽しみにしてます」
「うん、よろしくね」
 その時だった。タイミングよく椋太と湊が帰ってくる。
「ちょっと椋太くん、買いすぎだよ。重くて大変なんだから」
「つい食材買いすぎちゃうんだよね」
「割り勘だからね。無職だからってただ飯は駄目だよ。ちゃんと払ってもらうから!」
「分かってるって」
 二人は両手に大きな買い物袋を提げたまま、志音と澪に気づき足を止める。
「澪ちゃん。どうしたの?」
 椋太が親しげに笑いかける。
「ちょっと、お弁当箱を返しにきただけ」
「そうなんだ、ありがとう。よかったら紅茶でも飲んでく? 特製の紅茶があるけど」
「い、いい! それじゃ!」
 澪は話もそこそこに駆けていってしまう。
「せっかちだね、彼女」
「それ、本気で言ってるの? 澪さん、顔真っ赤だったけど。どうするの、椋太くん」
「まぁまぁ、湊くん」
 なだめる志音を尻目に、湊はじと目で椋太を見遣った後、ぶつぶつ言いながら家へと入っていく。最近の湊は以前と比べて目に見えて口数が多くなってきたし、はっきりと物を言うことも増えてきた。椋太のおかげだろうと、志音は思う。
「澪さん、お祭り楽しみにしてるって。よかった、ちゃんと来てくれるみたいだよ」
「……ああ。無事に終わるといいけれど」
 椋太は何か気がかりなことがあるように言い、荷物の一つをさりげなく志音に託して、家の中へと入っていくのだった。

 今夜の片づけの当番は志音だった。洗い物をしていると、珍しく椋太が皿拭きをかって出てくれた。湊は夕飯と入浴をすませた後は、基本部屋から出てこないし、蒼空はここ数日姿を見せない。そういうことは割と多く、本人からも心配しないでと言われているので、あまり詮索はしないようにしている。
 あじさい荘の夜の静かな時間に、水を流す音と皿の音が響く。
「……椋太くん。少し込み入ったことをきいていい?」
 椋太は一瞬手を止め、すぐに皿拭きを続けると返す。
「いいよ。君からそんなことを言い出すなんて珍しいね。少し緊張してしまうな」
 と言いながらも、彼からはそんな様子はうかがえない。
「……椋太くんは、本当に天嶺ホールディングス社長の息子なの?」
「ああ、もしかして。聞いちゃった?」
「……うん。驚いた」
「だろうね。そんな風には見えないと思うし」
 椋太の口調も表情もあくまで穏やかだ。志音は思い切って口を開く。
「もしかして、あじさい荘に来た日。お母さんの葬儀だった……?」
 あじさい荘の前で、まるで魂が抜けたように佇んでいた椋太。蒼空が見つけてくれなければこうして出会うこともなく、他人どうしのまま、椋太は再びどこかへ消えてしまったのだろう。
「ああ、その通りだよ。あの日は母親の葬儀だった。結局門前払いで追い出されて、出席はできなかったけどね」
「ストーカーされて逃げて来た、って嘘だったんだね」
「あーそんなことも言ったかな。ごめんね」
 椋太は手を止め、あの日を思い出すように言う。葬儀に来なかったのではなく、出席できなかったのが事実で、でも噂では母親の葬儀にも来ない人でなしの息子、というレッテルを張られてしまっている。志音はとても歯がゆく思う。
「母親が重い病にかかり、花野枝村で療養していることは知っていた。でも俺は、一度も見舞いに行かなかった。父親と違って、俺のことを理解してくれていた母親だったのに。俺は仕事を優先した。俺を必要としてくれている姫たちがたくさんいたからね。……いや、彼女たちのせいにしてはいけないな。俺が行きたくなかったんだ。こわかった。村に戻って後ろ指を指されるのも、母親の弱った姿を見るのも。……葬儀を追い出されるのも仕方がないよ。どちらにしても放蕩息子に変わりはないし、人でなしって言われても甘んじて受け入れるしかないかな」
 椋太は苦笑しつつ、皿を棚にしまう。
「僕は、椋太くんをそんな風には思わない。大事なのは、今、ここにいる椋太くんで、僕にとっては大切な友達だから」
「ありがとう、味方でいてくれる人がいるのは心強いよ」
「……ついでだから、もう一つだけ訊いていい?」
「何でもどうぞ」
 椋太はにっこりと言う。
「駆け落ちして出て行ったって本当?」
 志音が声をひそめて問うと、椋太はふっと吹き出した。
「噂がだいぶ一人歩きしているみたいだけれど、それはないよ。俺が村を出たのは、会社を継ぎたくなかったからと、父親と口論になったから。逃げ出したんだよ、俺は」
 椋太は最後の皿をしまい終えると、優美に微笑んで言う。
「俺は、君や湊に会えてよかったって思っているよ。――おやすみ」
 椋太が去った後、さらなる静寂があじさい荘を包み込む。村の人たちが抱く、椋太への誤解を何とか解けないかと考えながら、志音も自室へと向かうのだった。