花野枝(はなのえ)村。訪れるのは十年ぶりだった。
 人口八千人ほどの景観豊かな村で、『日本の美しい村』にも選ばれているほどだ。精悍な碧影山(へきえいざん)の裾野に広がる家々や田畑はまるでパノラマ写真のようで、一度は目におさめようと訪れる人々も少なくはない。
村を流れる清く美しい紫水川(しすいがわ)も、豊かな景観を彩っていた。
水野(水野)志音(しおん)は、梅雨真っただ中の張りつくような空気にやや押され気味になりながらも、木々に囲まれた坂道を下っていた。
 空はどんよりとした曇り空。今にも降り出しそうだけれど、天気予報では曇りの予報だった。
 ここは車が一台通るのがやっとの道だ。舗装もされていない。両脇には青空のような紫陽花が咲き誇っており、少しだけじっとりとした空気を涼しく爽やかにしてくれるようだった。
少しも変わっていない。この道は思い出の道。
 鳥の声と葉が風に揺れる音に耳をすませる。
 あの出来事から十年が経ち、自分は二十歳になった。今日は、十年前のあの日だ。志音はぎゅっと手のひらを握り込む。
 何か思い出せるかとも思ったが、記憶はそうやすやすと戻ってはこないようだ。
「どうして思い出せないのだろう」
 誰にともなくつぶやいた言葉も、鬱蒼としげる木々に吸い込まれていくようだった。十年前の記憶を取り戻したい。そのために、花野枝村を訪れたのだった。
 あの日何があったのか。思い出せていたなら、何かが変わっていただろうか。
 確かめるすべもなく、志音は人気のない小道で立ち尽くし途方に暮れた。
『志音、俺のこと忘れないでいて。何があっても、きっとまた会えるから』
 憶えているのは消えてしまった幼なじみからの言葉。
 記憶を探っても、情景がすべて歪んでいて見えない。なのにその声だけは、はっきりと響くのだ。まるで自分を責め立てるように――。

 夏目(なつめ)優里(ゆうり)は当時、中学一年生だった。志音は彼よりも三つ年下で、小学四年生だった。
 十年前の今日、幼なじみで親友だった優里は、志音の目の前から忽然と消えてしまった。最後に一緒にいたのは自分だったはずなのに、志音の記憶はなぜか曖昧ではっきりしないものだった。あの日、志音は優里に連れられて、ここ――花野枝村にきた。二人でよく遊びにきていた隣村だったので、志音はその日も、いつもと変わらず、何の疑いもなく優里についてきた。……ここまでははっきりと覚えている。
 でもその後、志音はなぜかバス停のベンチで目を覚ました。
「優里は……?」
 隣に彼はいない。どこにも姿はない。志音は泣きながら家に帰り、優里がいないことを訴えた。母親と一緒に優里の家にも行った。でも引っ越した後だった。通っていた中学校にも問い合わせてもらったが、転校手続きは済んでいて、それ以上のことは個人情報の観点から教えてはもらえなかった。
「きっと、優里くんには……何か特別な事情があったのよ。きっと新しい学校で元気にしてる。だから心配しなくても大丈夫よ」
 母親の優しい声に、幼かった志音はただうなずくしかなかった。けれど、心の中ではずっと引っかかっていた。あの日、本当は何があったのか。なぜ、自分の記憶が途切れたままなのか。分からないまま、十年の時が流れてしまった。
 
 重たい気持ちを抱えたまま、志音はとぼとぼと元来た道を引き返す。
 林道を抜けるとすぐに大粒の雨が地面を叩き始めた。傘は持っていないし、バス停までも遠い。
 駆け足で雨宿りできる場所を探していると、青白い不思議な明かりが視界に映る。古民家風の建物が、雨で煙る中でぼんやりと浮かび上がって見えた。
 辺りには、他に建物は見当たらない。志音は降り注ぐ雨の中、導かれるようにそちらへと駆ける。
 古民家は竹垣で囲まれており、閉ざされた門の横には「あじさい荘」という、木でできた古びた看板が置かれていた。門の軒下が雨宿りにはちょうどいい。一般宅ではないようなので、雨が降りやむ間の少しの時間だけ軒下を借りることにした。
 雨音が辺りを包み込む。ハンカチで濡れた髪、服や鞄をさっと拭いていると、ふと気づく。門の両脇に植えられた紫陽花が、ぼんやりと青白く光を放っているように見えたのだ。
 不思議に思いながら、造花なのかと指先で触れてみるが、人工物ではない。よく分からないけれど、そういう品種なのだろうか。
村には何度か遊びに来たことがあるけれど、この辺りには来たことがなかった。あじさい荘、何だか神秘的な場所だ。
雨はまだやみそうにない。雨音にじっと耳を傾けていると、幼い頃の自分の声が唐突に頭にこだましてきた――。