『二度と顔を見せるな。お前など息子ではない』
『……実は奥様は重い病でして……一度帰って顔を見せてさしあげてほしいのです』

 椋太ははっと目を覚ます。もうすんでしまったことなのに、夢にまでみようとは。この前――あじさい荘の庭にたゆたう蛍を見た時。隠そうとしていた思いが一気にこみあげてくる心地がして、たまらずに部屋へ逃げてきたことを思い出し……ふっと自分を嗤う。
 結局自分は逃げることしかできない。過去も、現在(いま)も。椋太は今一度、心に、そして向き合わなければならない気持ちに蓋をする――。


 六月も終わりにさしかかった頃、あじさい荘にとある訪問客があった。あじさい荘を担当し、何かと志音たちを気に掛けてくれる村役場の職員、南雲拓海だった。
 志音は彼を居間に通し、湊とともにテーブルにつく。椋太は来客のために飲み物の準備を、蒼空は今日もどこかへ行っているのか、姿を見せない。
「突然すみません。ちょっと今日は、君たち三人に話……といいますか、お願いがあって来たんです」
 拓海は椋太が運んできたあじさい紅茶を一口含むと、感心したような顔をした。
「いつも思いますけれど、この紅茶。とても香りがよくて、今までに飲んだことがない高級な紅茶の味がしますね」
 すると椋太が優雅な微笑みを浮かべて答える。
「あじさい荘、特製の紅茶のようですよ。蒼空から調合と美味しい淹れ方を教わったんです」
「なるほど。これはぜひ、花野枝村の特産品として推していきたいところ……いやいや、今日は別の用があって来たのでした。話を戻しましょう」
 拓海は志音をはじめ、席に着いた椋太や湊を見つめながら、鞄からファイルを取り出し、テーブルに開いてみせた。ファイルにはフライヤーが入っている。
「花野枝歴史祭り、ですか」
 志音が言うと、拓海はうれしそうにうなずく。フライヤーには、袴姿の凛々しい侍三人と、可愛らしい姫のイラストが描かれている。
「……やっぱり、行事はありますよね。祭りは村おこしにもなるし……」
 湊は不安そうに言い、浮かない顔をする。
「ああ、この祭り。まだやってるんですね」
 椋太は知っている風に言う。そういえば、彼は花野枝村出身だと言っていた。
「行ったことはないけれどね。名前を知っている、その程度だよ」
 椋太はあまり興味なさげに紅茶を飲んでいる。
「地元だったのに、それはもったいないですね」
 拓海は残念そうに言った後で、続ける。
「花野枝村には、戦国時代、戦に破れて逃れてきた武将、葛岡(くずおか)高綱(たかつな)と、その家臣二人、黒坂(くろさか)信茂(のぶしげ)、安藤(あんどう)久義(ひさよし)、そして高綱の正室である美和(みわ)姫の、三人の伝説が残っているのです。村人たちに助けられながら、彼らは乱世を生き延びたのです。……とまぁ語りたいことはたくさんあるのですけれど、今回はやめておきますね」
 まだ話し足りない、という風に拓海は一度話を切ると続ける。
「花野枝歴史公園で、三人に扮するという仕事があるのですが……人材不足でして、毎年その……少しお年を召した方がやられている、という現状がございまして」
 拓海は言いにくそうに言葉を濁した後で続ける。
「募集をかけてもなかなか適任がいなくて困っていたところなんです」
 拓海の瞳が爛々と輝きだす。何だか、彼の言いたいことが分かってしまったような気がするものの、志音は拓海の言葉を待つ。
「それで、それでです! あじさい荘にいらした若いお三方に、役に扮していただきたいと思い、今回お邪魔させてもらった次第なんですよ!」
 志音はやっぱり、とうなずき、湊は嫌そうに頬を引きつらせている。
「……いや、でも。俺は遠慮しておくよ」
 めずらしく椋太が、笑顔で一歩下がった発言をする。
「椋太くん……!」
 拓海がどうして、と言わんばかりに立ち上がる。普段はとても落ち着いていて、大人の雰囲気を醸し出している拓海だったが、今回は少し違う。いつもよりも熱がこもっているように見える。さすがの椋太も引き気味で、嫌な予感がしているのかカップを手にしたまま後ずさっている。
「え……何ですか」
「君みたいに、女性受けしそうな容姿で逃げるなんてゆるされないことです。実にもったいないです!」
「いや、それはそうかも……しれませんけど」
 椋太は困ったように言葉をにごらせた。
「それに、君たち二人も!」
 急に火の粉がこちらにも降りかかり、志音は心の中で身構える。湊は黙っていたけれど、その表情が「嫌だ」と物語っていた。
「志音くん、君だってとてもいい。君のような凛とした静かな美しさこそ、侍にはふさわしい。立っているだけで絶対に目を引くこと間違いなし! それに、湊くん。眼鏡の下に隠された端正な顔立ち。時々隠せていません……! この際、開き直って祭りの貴公子になっちゃってください!」
「はい……?」
 湊は訊き返した後、「何を言っているのか分からないです」、と逃げ腰だ。
「あの……南雲さん?」
 様子がいつもと違う彼に、志音は大丈夫ですかと声をかけようとするも、拓海は前のめりに続ける。
「君たち三人が参加してくだされば、村おこしにうってつけなんです‼」
 拓海は熱をこめて立ち上がると、勢いよくテーブルに手をついた。村おこし、それが拓海にとって最重要事項なのだろう。
「もちろん、バイト代も出します。衣装もこちらで準備します。どうか引き受けてはもらえないでしょうか!」
 拓海の真剣な目が志音たちの背中を押す。
「……分かりました、南雲さん。僕たちはあじさい荘に住まわせてもらっていますし、村にもお世話になっているので、引き受けます」
 志音の言葉をきいたとたん、拓海の目がさらに輝きを増したように見えた。
「村おこしのため、と言われてしまっては仕方がないなぁ。俺たちが格安でこの場所にいさせてもらっている、そのことは事実だからさ。今こそ恩返し、ということだね」
 椋太も拓海の熱意に負けたのか、渋々といった様子で了承する。
「……あの。俺はそういうの苦手なんですけど……。俺につとまるのでしょうか。人見知り激しいし……」
 湊がうつむいて自信なさげに言うと、椋太はぽんっと優しく励ますように肩に軽く手を置く。
「平気だよ。俺や志音がフォローするから。南雲さん、俺たちは具体的に何をすればいいんですか?」
 椋太が問うと、南雲はやっと落ち着きを取り戻したようで、いつもの様子で席につき、咳払いをした後で答える。
「失礼。少々熱が入りすぎてしまいましたね。……そんなに心配しなくて大丈夫。祭り当日は、歴史公園にいてもらうだけでいいです。来客と記念撮影が主な仕事となります。それと、祭り前の準備手伝いもお願いしたいんです」
「まぁ人見知りの湊には苛酷かもしれないけれど、村への恩返しだと思って。侍役なんだから黙ってても最悪オーケーだと思うよ」
 椋太が湊に目配せするも、湊の浮かない顔は変わらなかった。
「うん、椋太くんの言う通りだよ。僕たち二人がそこは何とかするから」
 志音が背中を押すように言うと、湊は不安そうにしながらも小さくうなずく。
「では、配役はこちらで決めさせてもらいますね。家臣の二人、信茂と久義はそれぞれ志音くんと、湊くん。そして武将の高綱役は……椋太くんにお願いします!」
「俺なんかが主役でいいんですか?」
 椋太は思いもよらなかったのか、少し驚いていた。
「もちろんですよ、椋太くん。ぜひ、村の祭りを盛り上げてもらいたい!」
 椋太はまいったな、という風に肩をすくめるも、引き受けてくれるようだ。
「あ、そういえば美和姫役は誰なんですか?」
 志音が尋ねると、拓海はいいところに気づいたね、とにっこり笑う。
「今年は、地元の高校生にお願いしてあるんですよ。祭りは二日間ありますが、最後の日の夕方に、彼女に舞を舞ってもらうんです。美和姫は、舞がたいそう得意だったそうなので、それにあやかることになりました。彼女には二か月も前から練習に励んでもらっています。――今年は例年より盛り上がりそうです」
 拓海は楽しそうに言うと、プリントを三人に渡す。
「これは準備から当日までの予定表です。目を通しておいてくださいね。それでは、私はここで失礼いたします」
 拓海は人の良さそうな笑みを向けると、あじさい荘を去った。
「とんだ役を仰せつかってしまったね。当日だけじゃなくて、祭りの準備もあるし、久しぶりに働きますか」
 椋太は拓海からもらったプリントを持って、二階へと上がっていく。
「本当に、僕なんかが人前に出て大丈夫なのだろうか。感じ悪いとか、言われないといいけど」
 クッションを抱きながら、自信なさげに不安を吐露する。そして肩を落として湊は落ちこんだようにソファに沈み込んだ。
 志音はというと……少しだけ楽しみだった。けれどこの祭りが、とある騒動を引き起こすことになろうとは誰も予想していなかった。