翌朝、志音が階下へ降りると、椋太がすでにキッチンに立っていた。ベーコンを焼くいい匂いもしてくる。そういえば、椋太は料理担当を自ら買って出ていた。彼はその約束を守っている。
「椋太くん、おはよう。早いね」
 志音が声を掛けると、椋太は優美に微笑む。
「おはよう。いちおう料理担当だからさ、それだけはしっかりやらないとね。他には何もないんだし」
 昨夜のことがあり少し心配していたが、椋太はいたって普通でいつも通りだった。彼にも、何か思うところがあったのだろうか。
 志音は身支度を整え食器の準備を手伝っていると、湊も姿を見せた。彼はまだ少し眠そうな顔をしている。部屋には美味しそうな匂いがたちこめはじめていた。
「そういえば、蒼空の姿が見えないね? 真っ先に飛んできそうなのに」
 椋太はフライパンを火にかけながら言う。
「まだ屋根裏部屋かもね」
 椋太は慣れた様子でフライパンをふるいながら答える。
「まぁ、好きなだけ寝かせといてあげようか。蒼空の分はラップしておこう」
 やがて椋太が運んできた皿に、志音は釘付けになった。滑らかに折り重なるスクランブルエッグに粗びき胡椒がひと振りと、そっと添えられたミントの葉。カリっと焼かれたベーコンの香りが食欲を誘う。
 そして別の皿には焼き立てのバゲット、グリーンサラダ、コーンポタージュ。
「すごい……なんだかホテルの朝食みたい……」
 テーブルに並べられた料理に、志音は驚いて目をしばたかせる。湊も思わず姿勢を正していた。
「朝食は大事だからね。それに、朝食を優雅にすると姫たちは喜ぶんだよ。その癖が抜けてないのかもしれない」
 そう言って、椋太は華麗に微笑む。
「……今の話がなければもっと食欲がわいたのにな」
「おや、手厳しいね湊」
 と言いつつも、椋太は楽しげだ。二人は短い時間でだいぶ打ち解けたようで、時々軽口を言い合ったりしているのは志音も知っていた。
 湊はスクランブルエッグをフォークですくうと誰よりも早く口に運び、そして動きを止めた。――のも束の間、無言で次から次へと口へ運んでいく。
 それを見た志音もゆっくりとスクランブルエッグをすくい、ぱくりと口に入れる。優しい塩味と甘さが柔らかさとともに広がり、ふわりとほどけていく。
「椋太くん、プロだよこれ……」
 思わずつぶやいてしまうほどだ。スクランブルエッグだけではない。添えられたベーコンも、バター香るバゲットも、濃厚なコーンポタージュも、サラダも(おそらくドレッシングも特製)、どれをとっても素晴らしく美味しかった。
「ま、料理だけは自由だったからね。何より好きだったし」
 椋太は意味深に言うと、バゲットをかじる。
「……すごいな。元ホストで、軽くて、気障なのに。こんな特技があるなんて……」
 湊は感心しながらスープをすくう。
「ほめているんだか、けなしているんだか分からないな」
「……おいしい料理に罪はないって話だよ」
 冗談めかしていう椋太に、わざと憎まれ口を叩く湊。
 なんだか少しだけ、来たばかりのあじさい荘のぎこちなかった雰囲気がやわらいだような気がした。それぞれが何かを抱えている一体感が、そうさせているのかもしれない。
 ふと、二人には話していいかもしれないと、志音は思った。誰かにきいてほしかった。少しずつ優里のことを思い出し始めている今、たった一人で抱え込むには重い。
 志音は手を止めると、勇気を出して口を開く。
「僕が……ここに来たのは」
 椋太と湊は同時に顔を上げる。
「記憶を取り戻すためなんだ。離れてしまった幼なじみとの記憶を探しに来た」
 志音は優里と最後に一緒にいたのは自分だったが、その時の記憶だけをなくしてしまっていること、なぜか気が付いたら、バス停のベンチに寝かされていたことを二人に話した。
「もしあの日、何があったのか思い出せたら、優里があの日、何を伝えたかったのか、どこへ行ってしまったのか分かるかもしれない。だから花野枝村に来たんだ。自分にできること、すべてやりたい。もう後悔したくないから、前に進んでみようって決めたんだ」
 椋太と湊は黙って真剣に耳を傾けてくれていた。だからこそ、志音はさらに気持ちを打ち明ける決意をする。
「昨日蛍を見ながら少し思い出したことがあって。確かめに行きたいんだ。その……もしよかったら、一緒についてきてもらえないかな」
 志音は緊張していた。こんなことを言って、迷惑だと思われないだろうか。巻き込むなと、自分たちには関係ないと冷たくあしらわれないだろうか、嫌われないだろうか――不安だけ渦を巻いて、志音はひざに置いた手をぎゅっとにぎりしめ、二人の返答を待った。
 先に口を開いたのは椋太だった。
「……なるほど、いいね。記憶探しの旅、付き合うよ。ほら、俺暇だから」
 その後で、湊が言う。
「うん、俺も賛成だよ。一緒に行きたい。大切な人がいなくなってしまった気持ち、すごくよく分かるから。僕の場合、人じゃなくて猫なんだけどね。……僕たちが一緒に行くことで、志音くんが勇気を出せるなら、喜んで」
「二人とも……。ありがとう」
 二人の気持ちがうれしくて、志音は思わず泣きそうになってしまうのをこらえた。
「あぁ、いい匂い。これはふわふわスクランブルエッグの匂い……」
 鼻をくんくんとさせながら階下へ降りてきたのは蒼空だった。
「おはよう、蒼空くん」
 志音が言うと、蒼空はおはようと、うれしそうに、そして軽やかに席についた。場の空気が一気に和む。
「管理人なのに、寝坊しちゃった。お腹ぺこぺこ」
「待ってて。今軽く温め直してくるよ」
 椋太がキッチンへと立つ。それからはなごやかに、朝食の時間が過ぎていったのだった。