その夜のこと。蒼空に呼ばれ、志音たちはリビングに集まった。
「これで、今回のあじさい荘の住人が揃ったね」
 皆がテーブルにつくと、蒼空はうれしそうに言う。
「もう誰も来ないってこと?」
 志音の問いに、彼は自信たっぷりに答える。
「今回は三人だけみたいだよ。……紫陽花がそう言ってるから」
 また不思議なことを言う蒼空は庭の紫陽花に目を遣る。志音も視線を追った。紫陽花は相変わらずほのかな光を放っている。湊はまた首をひねっていたし、椋太は気にしているのかいないのか、涼しげな顔をしていた。
「みんなにみてもらいたいものがあるんだ。庭の紫陽花を見ていて」
 そう言って、蒼空は部屋の照明を落とした。夜の闇に浮かぶ光景がさらに鮮やかに、そして神秘的に縁取られた。
 志音は言葉を失い、縁側へと歩みを進める。しっとりと濡れた色硝子のような花びらに、蛍の柔らかな光がふわりと降り立つ。
 蛍の光は頼りなく、それでいて確かにゆったりとたゆたう。一匹、また一匹と紫陽花の間を舞い、光の線を描いていく。
 志音は立ち尽くしその光景に見入っていた。時間だけがそっと止まったような、この一瞬のためだけに静寂があるような気さえしてくる。幻想的な光景の中にただ身を委ねていると、心の奥にそっと何かが触れた気がした。漂う蛍の光が、まるで記憶の欠片のように志音に近づいて、手のひらに浮かび躍る。
『大人になってまた戻って来られるように、会えるように。願掛けをしていきたいんだ』
 優里の声が聞こえる。記憶の断片が浮かび上がってくる――。


 手を引かれてたどり着いたのは、小さな祠の前だった。祠の後ろにはしめ縄が巻かれた大木がある。その先には木々に囲まれた小さな草原が広がっている。
 その場所まで志音を導くと、優里は言った。
「大人になってから、また戻って来られるように。願掛けをしたいんだ。志音を連れてきたのは、君にだけはちゃんと話しておきたかったからだよ」
「ちょっと待って。大人になってからって? もう会えなくなるの?」
 志音は不安に苛まれる。優里は友達がいない志音にとって唯一無二の味方だ。優里と会えなくなってしまうなんて、考えただけでおそろしかった。
「寂しいけれど、これは必要な別れなんだ。きっと、また会える。願いが叶うように願掛けをするんだよ」
 優里はとある木の根元を、落ちていた木の枝で堀り始めた。
「何かを埋めるの?」
「そう。志音も手伝って」
 その時、人の気配がして二人は同時に振り返る。そこにいた人物は――。


『このことは、忘れなさい。君にはかかわりのないことだ』
 優里とは違う声が頭の中で響き、志音は我に返る。かざした手のひらの上には、蛍はもういない。ふいに思い出した男の声に、志音は不快感を覚え、おろした手をぎゅっと握り込み、気持ち悪さに耐える。なぜだろう、胸が苦しくなる。今までの記憶とは違うおそろしい何か。
『――今は黙っておやすみ』
 声が志音の頭を鈍く殴りつけるように再び響く。迫りくる息苦しさに思わず床にひざをついた。
「志音くん!」
 蒼空の声だ。同時に部屋には明かりがつく。いくらか動悸がおさまってきたところで、志音は周囲を見遣る。庭を見つめたまま立ち尽くす椋太も湊も、あまり顔色がよくないように見えた。
「大丈夫?」
 そばに来てくれた蒼空が、心配そうに片膝をつく。
「大丈夫だよ、ありがとう」
 志音はゆっくりと立ち上がる。少しだけ眩暈がしたけれど、それだけであとは何ともない。さっきまでの苦しさが嘘のようだ。
「今日は何だか疲れた。部屋に戻るよ」
 湊はうわごとのように言って、階段へ向かう。
「俺も、今日はもう寝ようかな。みんなおやすみ」
 椋太の口調はいつものように軽かったけれど、何か思い詰めたような顔をして、足早に姿を消してしまう。後には志音と蒼空が残った。どことなく、それぞれの思いだけが重たくこの場所に残されているような気がした。
「……ちゃんと戸締りしないとね」
 心を落ち着けつつ、志音は縁側の雨戸を閉めようとした。まだ心の整理が追い付いていない。初めて、記憶を取り戻すのがこわいと感じてしまった。
「ごめんね、志音。そして、みんなにも。もう部屋に行っちゃったけど……」
 蒼空がしゅんとうつむく。
「どうして君があやまるの?」
 志音が手を止め優しく問うと、蒼空はゆっくりと口を開く。
「このあじさい荘には、少し癖があって。ほんの些細なきっかけが、それぞれ秘めている胸の内に語り掛けてしまうんだ。人の心って、前向きなことばかりじゃないでしょ? この家はね、その人が『向き合うべきもの』をそっと浮かび上がらせて、ちょっと荒っぽいやり方で引っ張り出してしまう。それは人によっては残酷で、痛くて辛いことかもしれないけれど……まだできることがあるって教えてくれているんだよ」
 蒼空はそう言って優しく家を見回してから、続ける。
「……今回は蛍がきっかけになっちゃったみたいだね。ごめんね、本当にそういうつもりじゃなかったんだ。ただ……みんなが初めて揃った夜だったから。きれいな光景を一緒にみてほしかった。今の時期、近くの小川から蛍がまるで紫陽花に誘われるみたいに舞う。それがあまりにきれいだったから……」
 蒼空の気持ちが志音にも温かく流れ込んでくる。
「蒼空くん……。うん、ちゃんと分かっているよ。きっと、二人も分かってくれると思う。だからあんまり自分を責めないで。……おかげで、また『分かったこと』が増えたしね」
「……本当? 君も何か、大切なことを思い出せた?」
 志音は一瞬瞠目し、そして言う。
「うん。きっと大切なことなんだ。……そうだよね。――ちゃんと向き合わないといけない」
 あの日を思い出すことはこわいけれど、知らなくてはいけないのだ。あの日、何があったのか。なぜ優里が消えたのか――。そのために、自分はここにいるのだから。
 志音は記憶を大切に胸に抱えるように、そっと雨戸を閉めるのだった。