「それでどうやって俺が演奏できるようにしてくれるっていうんだ?」
「うん。これからとってもびっくりする話をするけど、どうか冷静に聞いてね」

 昔ながらの瓦屋根の民家と今風なスレート屋根の家、今昔が入り乱れる家々の横を後ろに恵を乗せて自転車で通り過ぎていく。できない自分に向き合う決心がついたからか、行きよりも少しだけ漕ぐスピードが速くなっていた。

「その前振りは絶対に冷静ではいられないやつじゃん」
「ふふ。じゃあ秘策を話すね。わたしは他人に乗り移ることができるの」
「は? 乗り移る?」

 信号のない十字路に差し掛かった所で、俺はブレーキをかけていた。交差道路をゆっくりと移動する赤色のトラクターを待つ間、恵が発した言葉の意味を理解しようと努める。

「そう。魂の主導権を奪って、乗り移った人の体を自由自在に操ることができるんだ。凄いでしょ」
「そ、そんなことできんのかよ!」

 幽霊が見えるというだけで充分に非現実的だけど、今回の話は完全にどこかの小説や漫画の内容だ。想像以上に自分の声が上擦ってしまっている。これを聞いたのが俺じゃなくシューだとしたって、同じような反応になるだろう。多分。

「わたしのこと怖くなっちゃった? 大丈夫。基本的に精神が安定している人の主導権は奪えないから。苦しいことがあったり、悲しいことがあったりして、落ち込んで精神が不安定になっている人じゃないと魂に干渉できないみたいなんだよね」

 トラクターの後ろには一台も車が来ていなかったため、再び自転車を漕ぎ出した。

「なんでそんなこと知ってるんだよ」
「……わたしの存在を誰かに気付いて欲しくて色々と試してた時期があったから」

 電柱や電線の上にいるカラスの鳴き声を煩わしいと感じるくらい、恵の声は低くて静かだった。もしかしたらあまり触れてほしくない過去なのかもしれない。

「そ、そうか。話したくないことなら、話さなくていいよ」
「こみはるは優しいね。そうしてくれると助かるかな。とにかく、ギターが弾けないこみはるの代わりに、わたしがこみはるに乗り移って弾いてみるのはどうかなって思ってるんだ。今は拒否反応が出てしまうせいで弾けないみたいだけど、一度弾いちゃえば自然と向き合えるようになる気がするんだよね」
「恵が俺の体を動かしている間、俺の意識はどうなってるんだ? 意識がないんだとしたら恵が弾いてても意味ないだろ?」
「その点は大丈夫。体の自由が効かなくはなるけど、意識はあるはずだから心配しないで。荒療治になっちゃうかもしれないけど、まずはギターに向き合えるようになったっていう経験を積むことから始めてみよう。慣れてくればそのうち、こみはるだけの力で弾けるようになるはずだからさ」
「そんなうまくいくもんかな?」
「うまくいくよ! だってこみはるギター好きだもん! 演奏するのが好きだから、人一倍悩んでるんでしょ? 好きだったからこそ、弾けなくなった自分を責めちゃってるんでしょ? もう一度演奏できるかもって希望が見えてきたら、絶対にこみはるは張り切っちゃうってわたしは思うな」

 そうなんだろうか? 俺は好きなのか? ギターを始めた頃の気持ちなんてとうの昔に忘れてしまった気がする。
「初心忘るべからず」なんて言葉をよく聞くけれど、ずっと覚えていられたらこんなに苦労してないよ。自分の原点を見失わなければ、常に目標に向かって一直線に走り続けられるはずだ。忘れてしまったから、今の俺はこんなにも遠回りをしているんだ。
 恵は陽菜のようだと何度だって思う。俺の行く先を照らしてくれるところがそっくりで、そんなに光ってくれるなよと愚痴を言いたくなってしまう。

「帰宅したらまずやりたいことがあるんだ」
「やりたいこと?」

 『BlessingGirl』の姿を脳内に思い浮かべる。俺が宮川さんに憧れたのは、下手な時からずっと動画をアップし続けていたからだ。自分が成長していく過程をひたすらにアップし続け、常にストイックで在ろうとする姿に感銘を受けたんだ。

「ああ。俺も一から始めてみようと思ってさ、演奏している様子を撮影してみようと思うんだ」
「それは陽菜ちゃんのため? それとも凛ちゃんのため?」
「あいつらに俺の姿を見せたいって気持ちがないわけじゃないけど、これは俺のためだ。『BlessingGirl』みたいにストイックに臨めたら、俺は俺のことを認められるようになる気がするんだ」

 自宅に到着して自転車を置いた俺は、玄関を開けるとローファーを乱暴に脱ぎ捨て、手も洗わず一目散に自室を目指した。階段を駆け上がり自室の扉を勢いよく開け、録画状態にしてあるスマホを机の上に置く。撮影用の機材なんて持ってないから不格好に映るだろうが、これでいい。

「よし、やるぞ!」

 スタンドに置かれているギターへと手を伸ばす。手の震えや、内側から湧き起こる気持ち悪さを無視して、ネックを掴んだ。
 勢いが良かったのはそこまでで、弦やネックの感触を味わった瞬間、体が鉛に変化したかのように動かなくなってしまった。拒否反応の強さを改めて体験したことで、自身に刻まれた恐怖が相当なものだということを実感する。

「くっ、ああああああ!!」

 平常心を失い、みっともなく目尻に涙を溜めながら叫んでしまう。脂汗が頬を伝っていくのを感じながら、助けを乞おうと恵を見つめる。俺の視線だけで全てを察してくれた彼女は深く頷いてくれた。

「じゃあ、これから始めるね」

 恵が目を瞑って俺の背中に手を伸ばしてくる。生きている者に触れることはできないが、精神が不安定な状態になっている者の魂には触れることができるらしい。説明を聞いていただけではわからなかった内容が、体験したことで実感へと変わっていく。
 視界がぼやけ、意識が遠のいて、半分眠ったかのような状態になったかと思うと、胸の内側に自分のものではないナニカが誕生したのを感じた。それが恵の魂だと本能が理解したのと同時に、身も心も委ねたくなるような温かい感覚が全身を包み込んでいた。
 その感覚は先程まで感じていた恐怖を吹き飛ばしてくれて、あっという間に平常心を取り戻してしまう。いや、取り戻すなんてヤワなものじゃない。やる気と自信が際限なく溢れてきて、テンションを高みへと押し上げていく。久しく忘れていた高揚が心臓の高鳴りを速めていた。
 恵に乗り移られてどれほどの時間が経過しただろう。まだ一分も経っていないように思えるし、一時間以上経過したようにも思える。ただ一つ言えるのは、天井に設置されたライトの光が二重にも三重にもぼやけて見えるようになったということだ。まだ飲酒はしたことないが、酒に酔うとこんな感じになるのではないかと、どこか他人事のような感想を抱いていると、体が勝手に動き出した。
 ストラップを肩に下げてギターを構えると、ヘッドにチューナーを挟んで正しい音程へと合わせ始めた。懐かしい感覚だ。かつて何度も行ったはずの作業が新鮮に感じてしまう。ああ、そうだよ。俺はこうやって頑張ってきたじゃないか。
 そして脳が加速していく。不幸ばかりを想起してしまう自分を鼓舞するかのように、楽しんでいた頃の記憶が呼び起こされ始める。初めて楽器屋さんに行った時の興奮が、雷のように全身を貫いた。辺り一面どこを見渡してもギターばかりでここは天国かと本気で思ったもんだ。違いなんてわからないくせに一つ一つをじっくり眺めながら歩いていたから、とても時間が掛かってしまった。結局答えを出せなくて、試奏させてもらって判断することにした。そのお陰もあって、なんとか八万円という限られた予算の中で買い物することができた。
 店員さんによると、安価で初心者にオススメらしいスクワイヤーのソニックシリーズを購入。四万と二千円をはたいて手に入れた真っ黒なボディは俺の心を震わすのに充分だった。その他にもスタンド、チューナー、ピック、ストラップなども揃えたらあっという間に予算に到達してしまった。高い買い物だと今でも思う。
 可愛いぬいぐるみを見ると飛びつきたくなってしまうのと同じように、帰宅後は自室でずっと自分のギターに抱きついていた。ギターは持つのではなく抱く。そう若かりし頃のDENJIがなにかのインタビューで言っていた意味が、少しだけわかったような気がした。
 最初のうちは教則本を見ながら、チューニングの方法やコードを学んだ。何回やっても求めた通りに指を配置できなくてイライラすることもあったけど、うまく動かせた時の達成感は言葉では言い尽くせないものがあった。
 楽しい。最高。早く陽菜の歌声に合わせて弾きたい。そんな前向きな感情が頑張る原動力となっていたから、宮川さんほどの上達スピードではなかったにせよ、練習に飽きがこない程度には腕を上げることができていた。
 幼稚園の頃から陽菜と一緒にいたから、あいつが歌を歌うのが好きだということは知っていたけど、まさか音楽の先生が褒めるほど上手だとは思っていなくて、一つも特技を持っていなかった俺は置いていかれたような感覚に陥った。
 陽菜と二人きりの帰り道。劣等感を感じる俺に追い打ちをかけるように、歌手になりたい夢を打ち明けられてしまい、自分が夢や目標といったものを持っていないことにも気付かされてしまった。このままじゃあ嫌だ。陽菜の横に自信を持って立てる男になるんだ。そんな気持ちがギターへと己を駆り立てた。
 そうだ。そうだよ。陽菜を歌手にしてやりたいなんて高尚な理由を並べて活動していたけど、最初は追いつきたいっていうただそれだけの理由で始めていたんじゃないか。誰のためでもない。自分に自信を持ちたくて音楽の世界に飛び込んだんだろ。うまくなりたくて必死こいて頑張ってきたから、陽菜とだけじゃなくて、シューやテツとも繋がることができたんだろ。
 立ち止まることなんてなくて、うまくなることだけが俺の青春だった。恋心も劣等感も全部ギターでかき鳴らして、俺は叫んでいたんだ。言葉にできないいろんなことをメロディーにして日常を楽しんできたんだろ。
 なんで忘れちまったんだ。情熱を捨てちまったら、俺にはなにも残らないなんてことくらいわかっていたのに。バカみたいだ。顔を見たこともない有象無象の言葉で俺が諦めてやる道理がどこにある?

「ああああああああああああああああ!!」

 ふざけんな。俺は陽菜を馬鹿にした奴を許してやらない。
 ふざけんな。なにが実らない努力だ。
 ふざけんな。人を見た目で判断してんじゃねーよ。
 ふざけんな。ふざけんな。ふざけんな。
 俺は、俺たちは、お前たちの尺度で測れるほど弱くない。弱いままでいてやらない。
 間違ってないんだって証明してやる。お前たちが馬鹿にした数だけ楽しんでやる。
 だから、陽菜。俺はお前を今度こそ幸せにするよ。闇の中じゃなくて、光へと連れていってやる。お前がカーテンを閉めようとも、生きる意味を見失っていようとも関係ない。絶対に明日を照らしてやるから。

「俺がお前の太陽になる!」