「さっきの新入生代表の子、こみはるのクラスにはいなかったね」
「だな。やっぱり俺が会って話してみたほうがいいんだよな?」
「うん。あの子にわたし、恵お姉ちゃんって呼ばれてた気がするんだよね」

 ホームルームが終了して自由に行動できる時間になったので、俺と幽霊さんは廊下を歩いて軽音楽部の部室を目指していた。白一色のタイルを踏みしめながら、ゆっくりと移動する。
 教室と廊下を区切るかのように設置されたガラス窓に背中を預けてスマホを見ている人、水道で手を洗っている人、壁に貼られたポスターを読んでいる人など、皆の様子が次々と目に飛び込んでくる。

「へぇ、妹がいたのか」
「うん。そうみたいなんだよね。代表の子を見た瞬間、あの子が小さかった頃の姿が甦ってきたの。とっても可愛かったな~」
「確か……宮川って苗字だったよな? ってことは、宮川恵って名前なのか?」
「あ~。わたしがあの子のお姉ちゃんなんだとしたら、そうなるよね。うーん。その割にはなんだかしっくりこないんだよね~」

 頭を悩ませる幽霊さんの姿を見ながら、B組の横を通り過ぎる。本格的に部活動見学が始まるのは明日以降だろうが、軽音楽部は今日から活動しているだろうか? どうせ足を運ぶんだから、練習している様子を見れるといいんだが。

「ひとまず、恵って呼んでいいからね」
「お、おお。やっと呼び方がわかって良かったぜ」
「一回、わたしのこと名前で呼んでみてよ」

 急に立ち止まった幽霊さんに驚いて振り向くと、嬉しそうな表情を浮かべてこちらを見ていた。

「ほらほら、早く」

 手招きのジェスチャーをして俺に催促してくる。

「わかったよ。言えばいいんだろ。め、恵」

 少しぶっきらぼうな口調になってしまったが、ちゃんと呼ぶことができてよかった。顔が熱くなっていくのを感じて、恵から目を逸らしてしまう。

「あれれ、顔が赤いよ~? 陽菜ちゃんのことは余裕で呼べるのに、わたしを名前で呼ぶのは緊張しちゃうんだ~?」
「う、うるせぇ。陽菜は昔からの知り合いだからいいんだよ」
「ふーん。確かにわたしとこみはるは出会ったばかりだけど、一夜を共にした仲なんだし、緊張しなくていいと思うけどな~」
「誤解を招くようなこと言うな!」
「ん? 誤解? さっきからブツブツとなにか独り言を言っているみたいだけど、どうしたの? おかしくなった?」
「うわっ!? シュー、お前いつの間に!」

 思わず大きな声を出してしまったのが良くなかった。公園であんな恥ずかしい思いをしたのに、あの時の反省を活かすことができなかった。恵にツッコミを入れたタイミングで、シューが俺の背後に現れたのだ。なんでよりにもよってこのタイミングなんだ。

「いつって今来たところだよ。さっきまでクラスの女子たちから連絡先を聞かれて困ってたんだ。皆とLINEとかインスタとかのアカウントを交換するのが大変だったよ」
「お前、俺と違って女子から好かれやすいもんな。一年D組用のグループLINEに率先して招待されてそうだわ」
「ボクがモテるのもグループに招待されたのも事実だけど、こみやんがかかわろうとしてないだけだよ。もっと話しかけてみればいいのに」
「今、サラッと自己肯定感高めの言葉が出たな。自然すぎて聞き逃しそうだったわ」

 恵と口にした時よりも間違いなく俺の顔は赤くなっている。恥ずかしさもそうだが、今は怒りのほうが強いかもしれない。どうにか冷静になってシューと会話をしようとしている俺の姿を見て、腹を抱えて笑っている恵にムカッと来たからだ。

「それでこみやんはどこ行こうとしてたの? 直帰?」
「いや、これから軽音楽部の部室に行こうと思ってる」
「こ、こみやんが軽音楽部? 本気かい?」

 弾けなくて涙に暮れている俺をつい最近まで見ていたんだ。シューが怪訝な表情を浮かべるのは無理もないだろう。またトラウマが再燃しないか心配してくれるのは有り難いけど、どうしてなのか質問されても説明できる気がしないので、ここは細かい事情を聞かれる前にいなくなるのが得策だろう。

「ああ、本気だよ。ってことで、俺は行くから。またな」
「待ってよ、こみやん。ボクも一緒に行くよ」

 歩き出そうとした俺の背に、シューの呼び止める声がかかる。

「別にわざわざついて来る必要ないんだぞ?」
「その話を聞いたのに、無視できるわけないっしょ」
「わかったよ。好きにしろ」

 シューは話しやすい空気を出して人々と接することが多いが、決めたことは一歩も譲らない頑固な部分も持ち合わせているので、こうなったらいくら言っても無駄だと判断し、移動を再開することにする。
 先程のカードゲームの話や、叡山高校には可愛い子が多いという話をシューから一方的に聞かされているうちに、校舎の端にある教室が見える位置までやってきた俺は、扉の前で深呼吸を繰り返している女子生徒を見つけた。俺たちの訪問に気が付いていないのか、何回も左手に「人」と書いては口に運んでいる。
 周囲は静かで薄暗く、先程までの騒がしさが嘘かのように閑散としている。あまり使われていない教室なのかもしれない。

「言うこと練習したんだから大丈夫。私ならできる」
「あの子、さっきのこみやんみたいに独り言を呟いてるね」
「俺みたいってわざわざ言うな。一言余計なんだよ」

 シューと小声で言い合っているうちに、目の前にいる子が五人目を食べ終えた。それによって決意が固まったのか、引手に手を伸ばした。恵が見たがった場所だということもあって、ただ部屋の中をチェックするだけの行為が、やたらと大事なことのように思えてしまう。ごくりと唾を飲む音が聞こえた気がした。

「あれっ、開かない!?」

 鍵が閉まっているようで、扉はまったく動かなかった。直前まで漂っていたピンと張りつめた空気が霧散したのを感じていると、肩を落としながら振り返った彼女と目が合った。
 視線が交じり合っていたのは、ほんの数秒だったと思う。だけど俺は、その短い時間の中で目の前の生徒が新入生代表の子だと理解し、そして彼女もまた俺の顔を見てなにかを感じ取ったのか、瞳を大きく開いて目を輝かせた。

「あ、貴方たちはもしかして、『退屈クラッシャーズ』の人ではありませんか!?」

 宮川さんの言葉を聞いて俺とシューに緊張が走る。これまで俺たちを罵倒するような人と現実で出会ったことはないが、顔を出して演奏していたのもあって、そういう人と鉢合わせしてしまう可能性はゼロではないと考えていたからだ。

「あ、ああ。そうだよ。よくわかったね」

 努めて平静を装いながら、宮川さんに反応を返す。彼女の出方を伺ってから、次にとる行動を決めようとしているのか、フレンドリーな対応することが多いシューが口を閉じている。俺はちらりと横目で恵の様子を伺うと、真っ直ぐな視線を宮川さんに注いでいた。しかし、表情から心境を察することはできそうにない。自分のことを「恵お姉ちゃん」と呼んで慕ってくれていた存在を前にして、どんな感情を抱いているのだろう。

「はい。私、『退屈クラッシャーズ』の大ファンですから!」

 一曲しか投稿していないのにファンなんてつくんだなと他人事のように考えていると、宮川さんが顔をぐいっと近付けて俺を見上げてきた。俺はいつもの逃げ癖が出てしまい、真っ直ぐな視線に耐えられなくて目を逸らしてしまった。

「ファンだと信じられませんか? YouTubeで『BlessingGirl』って打ってくれれば、私の言葉が嘘ではないとわかると思います!」

 ブレザーにある腰元のポケットから、宮川さんがスマホを取り出す。革製のストラップを手首に巻いて、目にも止まらぬ速さで両手の親指を動かし始めた。ストラップも手帳型のスマホケースもオレンジ色なので、明るい色が好きなのかもしれない。

「これ私です!」

 どうやら目を逸らしたことで、俺が宮川さんの主張を信じていないと思ったようだ。画面を人差し指でさしながら、『BlessingGirl』が『嘆きの空、果ての声』を演奏している動画を見せてくる。昨日、恵と一緒に見たやつだ。

「確か……諦めていたギターへの気持ちを思い出せただったかな?」
「私のコメント覚えてくれていたんですね!」

 俺の言葉を受けて、宮川さんの顔が明るくなる。興奮を隠しきれないといった様子だ。わかりやすく好意を示される機会が少ないから、好奇の視線が新鮮に感じる。自身の気持ちを表に出すことになんの躊躇いも抱いていなさそうな姿が、無性に羨ましく感じてしまう。俺も誹謗中傷を受けていなければ、余計なことを考えずに自分を出せていたのかな。

「同学年なんだし、敬語じゃなくてもいいんじゃない?」

 ずっと話したいと思っていた相手が、目の前で笑顔を浮かべているというのに、自分がなにを伝えたいのか明確化できずにいた。口を開こうとしては閉じてを繰り返して、結局、声にならなかった。そんな俺の迷いを知ってか知らずか、シューが会話を繋いでくれている。有り難い。

「いやいやいや、素晴らしいお二人を前にしてタメ口だなんて恐れ多いです!」
「そんな勢いよく首を振るほど!?」

 髪を激しく揺らす様を見ていると、全身に付着した水を払おうとする犬の姿が思い起こされて、新入生代表挨拶の時に感じていた優等生のイメージがどこか遠くへと飛んでいってしまった。

「私は貴方たちの動画から勇気を貰ったんです。自分の気持ちを思い切りさらけ出していいんだよって教えてもらえたような気がしたんです。特に、あのボーカルさんが一生懸命歌っている姿がかっこよくてしかたありませんでした。だから、敬語で話させてください」
「陽菜が……」

 自分が褒められたわけではないのに、とても嬉しかった。十の称賛を一の罵倒が覆い隠してしまうSNS全盛の時代だからこそ、現実世界で褒め言葉を聞けるのって、とても貴重なんじゃないかな。真っ直ぐに面と向かって伝えてくれる人は偉大だ。

「俺も宮川さんが日に日に上達していく姿を見てスゲーって思ってた。一つのことに熱意を注いで頑張るのってなかなかできることじゃないよ。強い意思を歌声の端々から感じる宮川さんだったからこそ、俺は惹かれたんだ」

 真っ直ぐに好意を向けてもらったことで、自分も本音をさらけ出せたのかもしれない。心が軽くなるのを感じたからか、先程までの逡巡が嘘みたいにすらすらと言葉が出てくる。

「なんだか褒められるのってむず痒いですね」

 何度も手首を動かしてパタパタと頬に風を送っている宮川さんの姿を見ながら、この出会いが退屈な日常を変える切っ掛けになるかもしれないと覚悟を決める。

「なぁ、宮川さん。出会ったばかりで申し訳ないんだけど、一つ頼みがあるんだ」
「頼み、ですか?」
「こみやん?」

 俺の言葉を受けて宮川さんは首を傾げ、シューは怪訝な表情を浮かべた。

「俺たちと一緒にバンドを組んでほしいんだ!」
「ええっ!? それは嬉しいお誘いですけど、『退屈クラッシャーズ』はもう解散しちゃったんですよね?」
「ああ。宮川さんの言う通りだ。解散しちまったから、俺も隣にいるシューも今は音楽から離れてる」
「じゃあ、どうして……?」

 俺は目を瞑り、『BlessingGirl』に感動した時の記憶を呼び起こそうとする。初めて視聴した時、最初に思ったのは「この人は下手だな」って感想だった。宮川さんには悪いけど、ブラウザバックしようと本気で思ったくらい下手だった。それなのに動画を最後まで食い入るように見てしまったのは、彼女の叫びが響いたからだ。本気で想いを声に乗せて歌っていたからこそ、心を動かされたんだ。

「この誘いは俺のただの我儘だ。だから断ってくれて構わないから、話だけでも聞いてほしい」
「はい」

 頷く宮川さんの瞳をじっと見つめる。ここだけは逃げちゃいけない。しっかり向き合え、俺!

「『退屈クラッシャーズ』のボーカルを担当していた陽菜が入院しちゃったのは知ってるよな? あいつ、手術を受けようとしてくれないんだ。生きる希望とか音楽を楽しむ気持ちが無くなっちまったからみたいなんだけど、どうにかして毎日を楽しめるようにしてやりたいんだ。もう一度歌いたいって思えれば手術を受けてくれるかもしれないんだけど、俺じゃあどうすることもできなくて困ってる。音痴だから歌えないし、今はギターだってまともに弾けない。本当なにもしてやれないんだ。でも、俺の心に響く歌が歌える宮川さんなら、陽菜の心を動かせるかもしれないって思ったんだ! この話を聞いている宮川さんは、なに言ってんだって思うだろうけど、それでも恥を忍んでお願いする。あいつに希望を与えるために歌ってほしいんだ!」

 深く頭を下げて自分のシューズを見つめる。荒唐無稽で意味不明な願いだ。出会ったばかりの相手になにを頼んでいるんだろう。

「それはつまり、私にボーカルをやってほしいってことですよね?」

 先程までとは打って変わって、やけに低い声だった。体の芯が冷えていくような感覚と喉が狭くなる感覚に襲われて「ああ」と短く応えることしかできなかった。

「……なんで私がこの教室に来たのかと言うと、軽音楽部に入部して『退屈クラッシャーズ』の皆さんみたいにバンドを組んでみたいって思ったからなんです。だからまさかご本人から誘ってもらえるなんて思わなくて、とてもびっくりしています。こんなの奇跡ですよね。感動しちゃいます」
「じゃ、じゃあ!」

 希望の光が見えたような気がして、思わず頭を上げてしまった俺が見たのは、笑顔の欠片なんて一つもない能面のような顔だった。