昔読んだ漫画では幽霊は透けて見えるだなんて書かれていたけど、あれは嘘だったのだろう。セーターとかデニムのショートパンツとか服装まではっきりと捉えられる。透けている箇所なんてどこにもない。強いて幽霊っぽい要素を挙げるとすれば、肌がとても白いということくらいだろうか。日焼けなんて一度もしたことなさそうな、そんな白さ。

「なんだか視線がいやらしーね」

 胸の前で両腕を交差させてバッテンを作った彼女が、こちらを警戒するような視線を向けてくる。

「わ、わりぃ。幽霊だなんて信じられなくてつい……」
「ふふ。君、からかい甲斐がありそうな性格してるね~。可愛いじゃん。全然気にしてないから大丈夫だよ」

 鯉でも跳ねたのか、バシャバシャという音が池から聞こえてきたが、正体を確かめる余裕はなかった。自分の腕が彼女をすり抜けたことと、幽霊だと告げられた衝撃が大きすぎて、直前までなにを伝えようとしていたのか、全く思い出せなかったからだ。舞い落ちる桜の花びらと共に、白い歯を見せながら大きく笑う彼女を横目でチラチラと見ながら、必死に言葉を探す。

「それで、わたしになにか用があったんだよね?」

 俺がなかなか口を開かないからか、気を遣って彼女のほうから話しかけてくれた。水面に顔を向けてエサを待つメダカのように、口をパクパクとさせながら声を発する。

「えっと、あの、名前はなんて言うんだ?」

 質問してすぐに、ナンパみたいなことをしてしまった自分に愕然としていた。DENJIの曲を弾いていたこととか、『BlessingGirl』について聞きたかったはずなのに、俺はなにをやっているんだ。

「あっ、そうだよね~。名前聞かないとお話ししづらいもんね。でも、ごめんね。幽霊になっちゃったことと関係しているのかもしれないけど、自分のことなにもわからないんだ~」

 えへへと言いながら頭を掻いて誤魔化し笑いを浮かべている彼女に、どう反応を返したら良いのかわからなかった。かけるべき言葉が見当たらず、ただ黙っていることしかできない。絶句とはこういうことを言うのだと知った。

「ささ、次は君の番だぜ?」

 指でピストルの形を作った彼女が、手首を上に振って俺を撃つ仕草をした。

「お、おう。そうだな。俺の名前は小宮悠斗(こみやはると)。友達からはこみやんとかはる君とか呼ばれてる。あだ名でもなんでも好きに呼んでくれ」
「じゃあこみはるって呼ぶ~」
「人の名前をいきなり省略!?」
「え~。好きに呼んでって言ったのはそっちじゃーん。めんどくさいな~」
「どうしても呼びたいって言うなら、それでもいいけど」
「こみはるで決定~。どうせなら他の人と被らない呼び方したいしね~」

 幽霊になってしまったと言う割には、この人のテンションはずっと高い。なんだか入院する前の陽菜を彷彿とさせるような明るさがある。そのせいか、妙に心がざわついた。

「それで、どうして貴方はこんな所で歌ってたんだ?」
「んーとね。わかっている範囲で説明するね。わたし、気が付いたら車道の真ん中で突っ立ってたんだよね。なにも思い出せない割には、車に轢かれちゃう~って危機感だけはちゃんとあってね、慌てて歩道に移動しようとしてたの。それでね、歩いているつもりなのに空中を浮かびながら動いてることに気が付いてね、これはわたし、死んでますわってなったのが一番最初の記憶なの」

 空を見上げて昔の記憶を掘り起こそうとする姿は、どこからどう見ても生きている人間のようにしか見えなかった。会話のキャッチボールだって成立するし、見た目は実在するかのようにリアルだし、陽菜ほどじゃないけど可愛いし。

「いやノリが軽いな! もうちょっと悲壮感持とうぜ!?」
「ちっちっちっ、こみはるは甘いね。悩んでも答えが出ないことに脳のリソースを割くのは愚か者のすることなんだぜ」
「なんか尤もらしいこと言い始めたな……」

 彼女の明るさだけじゃない。初対面とは思えない距離感の近さや、軽快なテンポでやりとりする会話のしかたが、陽菜と似ていると感じた。

「それでね。自分が幽霊なのか確証を得ようと思って、色々な人に話しかけてみたんだけど、ことごとく無視されちゃって。さすがのメンタルお化けのわたしでもショック受けたよね。ま、精神どころか肉体までお化けになっちゃったんだけど~」
「た、大変だな。誰にも認識されないって辛いだろ」
「ちょっと~。人の渾身のギャグをスルーして落ち込まないの。ここ笑うところだからね? まぁ、こみはるっぽいからいいけどさ。話し戻すけど、とにかく誰でもいいから気が付いてくれ~って半ばやけっぱちみたいになって、人が集まるこの公園で歌ってたの。そしたら、君に会えた」

 さっきまでのあっけらかんとした雰囲気がなくなり、真剣な瞳を向けてくる。その瞳孔はしっかりと光を反射していて、生気に溢れた力強さを宿していた。

「久々に人と話せて嬉しかったよ。ありがとね。たまにでいいからさ、公園に遊びに来てよ。愚痴でも恋の悩みでもなんでも聞いてあげるからさ」

 ソフトケースの肩ひもをぎゅっと握りしめた彼女の手が震えていることに気が付いた。その震えは誰にも気付いてもらえない恐怖からくるものだろうか? それとも、なにも思い出せない恐怖からくるものだろうか? ずっと一緒に過ごしてきた陽菜のことすら理解してやれなかった俺が、この人の本音を汲み取るなんて不可能だ。

「確かに相談相手としてはうってつけかもな。誰かに秘密を洩らされる心配もないし。明日から叡山高校って所に通うんだけど、そこにムカつく奴がいたら吐き出しにくるわ」
「叡山高校? うっ、ああああああ!」

 唐突に叫んだかと思うと、彼女は両手で頭を抱えながらうずくまってしまった。

「あ、頭がズキズキする!」

 そう言いながら側頭部に五指の爪をたてている姿を見て、病院で咳き込んでいた陽菜の様子がフラッシュバックする。ここにナースコールはないし、助けを呼んでも彼女が見える人はいない。俺しか彼女に寄り添ってあげられる人間はいないのだと思うと、顔から血の気が引いていく感覚がした。

「大丈夫か!?」

 彼女に手を伸ばそうとして途中で止まる。陽菜の時は背中を擦ってやれたけど、幽霊が相手では触れることすらできないんだ。どれだけ心配しても俺にできることはなにもない。陽菜が入院した頃から感じ続けている無力感が、再び全身に重くのしかかってくる。

「き、聞いたことがある気がするの。その高校の名前!」

 生前の記憶が呼び起こされようとしているのだろうか? 知っている言葉を聞いたことで脳が反応した? 彼女は叡山高校出身? いくつもの疑問が炭酸のように弾けて消えていく。両膝に額を乗せて頭を抱える彼女を見守りながら、思考は止まることなく連鎖していき、やがて一つの結論を出すに至った。そしてそれは、彼女も同様のようだった。

「やっぱさっきの話ナシ! わたし、こみはると一緒に行動する!」

 顔を上げた彼女が、笑顔を浮かべながら決意を表明した。観察力がない俺でも、それが作り笑いだとわかった。今も痛みは続いているはずなのに、必要以上に心配をかけまいとしている。
 こんな風に陽菜も自身の感情を表に出さずに俺たちと接していたのだろうか。いつからあいつは自分の心臓がおかしいと気付いていたのだろう。どうして悩みを打ち明けてくれなかったのだろう。ああ、ダメだ。こんな時ですら、陽菜のことを考えて自責の念に囚われてしまっている。悪い癖だ。

「ああ、ちょうど俺もそれを提案しようと思ったところだった。今みたいに頭痛が来たら大変だけど、叡山高校に行けばなにかを思い出せるかもしれないぜ」
「そう……だね……」

 幽霊でも冷や汗はかくらしい。ただでさえ白かった肌が余計に白くなってしまっている。彼女ほどではないにせよ、俺もこんな感じに顔面を蒼白とさせているんだろうなと思った。

「大丈夫か?」
「うん。痛みが引いてきたから、たぶん大丈夫だよ。頭が痛くなるなんて初めての経験で、ちょっとびっくりしちゃっただけだから」
「やめろよ、そういうの」
「え?」
「虚勢を張るのやめろって言ってんの。無理しててもいいことないぞ」

 なぜか俺の話を聞き終えた彼女が、珍しいものでも見るかのように瞬きを繰り返している。予想外の反応に戸惑いながら、「なんだよ」と問いかける。

「いやぁ~、可愛い性格してるこみはるにしては、かっこいいところもあるんだなって感心してさ。ギャップ萌えってやつ? ちょっとだけときめいちゃった」
「俺にだってかっこいいところくらいあるわ!」

 大きな声を上げてしまったのが良くなかった。俺の横を通り過ぎようとしたおじいさんが、ギョッと目を見開いてこちらを見てきた。まずい。このままでは俺が独り言を喋っているヤバい奴になってしまう。静かにしないと。

「あははは、今更口抑えたって遅いよ~。ずっとわたしと喋ってたんだからさ~」
「くっ!」

 よくよく考えたら、誰もいない空間に向かって声を掛けたと思ったら、いきなり走り出して転んだヤバい奴じゃないか。彼女の歌声に誰も反応していなかったということは、公園にいる人全員、俺を奇怪な目で見ていたことになる。恥ずかしい。

「こみはるは面白いね~。久々にこんなに笑ったよ」
「俺の恥ずかしがってる姿を見て笑ってられるなら、もう大丈夫そうだな」
「うん。心配してくれてありがとね。じゃあ、お言葉に甘えて今日からこみはると過ごさせてもらおうかな」
「え?」
「ん?」

 なんだか俺たちの認識にズレがある気がするぞ? 「なんでこみはるは、困惑した表情を浮かべているの?」みたいな顔をしているから、間違いなく食い違っている。

「俺が言ったのはあくまで高校で一緒に過ごそうぜって意味なんだが、まさか四六時中一緒にいようとしてる?」
「そりゃそうだよ~。誰とも話せなくて退屈でしかたがなかったわたしの気持ち、想像できる? もう寂しくて寂しくて兎だったら死んじゃうレベルだったんだから~。わたしの話し相手になってもらわないと困るんだからね!」

 腕を真っ直ぐ伸ばしてこちらに人差し指を向けてくる姿を見て、彼女が本気なのだと理解する。動揺が全身に広がっていく。

「おまっ、マジで言ってんの!? 俺の生活覗き見するつもりか!?」
「はいまた大声出してる~。恥ずかしいんじゃなかったの~?」

 心底楽しそうに笑っている姿を見ながら、彼女の手が震えていたことを思い出す。どのくらいの期間幽霊として過ごしているのかはわからないが、ずっと寂しい思いをしてきたのだろう。あの震えは孤独からくるものだったのかもしれない。小学校低学年の頃、泣いてばかりいた陽菜の顔が脳裏を過った。

「あー、もう! わかったよ。好きにすればいい。その代わり、なんか名前を考えてくれ」
「やった~、ありがとう~。名前考えておくね~」

 両手を挙げてバンザイしている姿を見ていると、本当に陽菜と似ていると感じてしまう。実際、この人は何歳くらいなんだろうか? 百六十センチある俺より身長が高いから、見た目は年上のように感じるけど、性格は子供っぽい。なんだかアンバランスだ。

「じゃあこれから家に向かうからついてきて」
「うん」

 幽霊が俺の後ろを歩いているなんて信じられないような快晴の下、俺たちは公園の敷地を出て坂道を歩き出す。すぐ真横を複数の車が通り過ぎていくのを見つめながら、彼女の歩調に合わせてゆっくりと進んでいく。

「それにしても、幽霊なのにギターなんて持ってるんだな」
「ね、それはわたしも不思議に思ってた。生前はギタリストだったのかな?」

 ソフトケースのチャックを開けると、中からオレンジ色と黄色が合わさったようなボディのギターが出てきた。この間まで中学生だった俺には高くて買えなかったギブソンのレスポールだ。エレキギターなのにアンプに繋いでいなくても大音量が出ていた点も不思議だけど、幽霊が演奏している時点で気にするだけ無駄かもしれないな。

「全然記憶ないのに歌えるし弾けるから、体に染みつくくらい練習している子だったのかも」
「ああ、そういえば、さっきのはDENJIが『リバイブ』にいた頃の曲だったな」
「へぇ~。有名な曲なんだ?」
「知らない人のほうが少ないってくらい有名だ」
「う~ん。その割には、デンジ? って人の話を聞いても、頭が痛くなったりしないから、あんまり重要な情報じゃないのかもしれないね~」
「そんな頻繁に頭痛が襲ってきてたまるか」
「それもそうだね~」

 坂道を左に曲がったタイミングで、俺は足を止めていた。彼女に話しかけようと思った一番の理由をまだ果たせていないことに気付いたからだ。

「なぁ、『BlessingGirl』って聞いたことあるか?」
「それも有名なバンドの名前? 残念だけど、特に思い出せそうにないかな」
「そうか。ならいいんだ。気にしないでくれ」

 彼女の歌声は『BlessingGirl』を想起させるほど似ていたが、この反応を見る限り本人ではなさそうだ。幽霊じゃあ動画を連日アップすることはできないから当たり前だよな。目の前の女性が『BlessingGirl』ではないとわかって、落胆と安堵の感情が同時に沸き起こるのを感じて、自分が想像以上に『BlessingGirl』に会いたいと願っていることに驚いていた。

「こみはるはその人のことが気になるんだよね? 今は思い出せないけど、顔を見れば思い出せるかもしれないよ」
「顔は俺も見たことがないんだ。だけど、貴方と似た声を持っていて、ギターを弾きながら歌っているんだ」
「ふ~ん。だからこみはるはわたしに話しかけてきたんだ」
「わ、悪いかよ」
「ううん。悪くないよ。こみはるにとっては残念な出会いだったかもしれないけど、わたしにとっては素晴らしい出会いだったから、嬉しい誤算だよ。ほら、早くこみはるの家まで連れてって。その子を見れば、なにか思い出せるかもだし!」
「あ、ああ。わかったよ」

 再び歩き始めたが、俺の心は曇っていた。答えの出ない疑問が胸中を支配していたからだ。
 もう『退屈クラッシャーズ』は解散したというのに、なにを話すというのだろう。俺は『BlessingGirl』に会ってどうしたいんだろう?