時はあっという間に流れ、病院祭の日がやってきた。緊張を抱えながら訪れた叡山赤十字病院は朝から多くの人で賑わっており、何度も訪れているのにいつもの場所だとは思えないほど活気に満ち溢れていた。
焼きとうもろこしや焼き鳥といった食べ物を販売する出店が数多く並んでいるので、美味しそうな匂いに鼻孔をくすぐられてしまう。食欲が湧いてきてしまわないように、自動ドアがある入口を目指すことだけに集中する。
院内に入ると、各階でどういった催しが行われているのかを示したマップがホワイトボードに貼られているのが目に留まった。現在地と赤色で書かれた文字を指差しながら多目的ホールを探す。
「右に行けばすぐにあるみたいだね」
シューの言葉に頷き、多目的ホールがある廊下に向かうと、叡山中学校の制服を着ている大勢の女子生徒たちで埋め尽くされていた。なにをしているのかと訝しんでいると、コントラバスや鍵盤といった楽器を運んでいる最中だとわかった。
やっぱり運搬が大変だなと思いながら、ドラムセットが入ったケースをカートの上に乗せて運んでいるシューを横目でちらりと見ると、「ボクは一人で運べるからいいけど、吹奏楽部の楽器は何人かで協力しないと運べないから大変だね」なんて言って笑っていた。
「早めに来ておいて良かったな。叡中の準備が長そうだ」
左手首の腕時計を見ながらテツが小声で愚痴をこぼす。
「しかたないよ。気長に待ちましょう」
さすが優等生。こんな時でも宮川は普段と変わらず落ち着いている。
「それにしても宮川のギターケースは目立つよな」
「ああ、うん。オレンジだもんね。気になるよね」
「いつも宮川ってオレンジのものを身につけてる気がするけど、オレンジ色が好きなのか?」
「これもお姉ちゃんの影響かな。お姉ちゃんがよくオレンジの服を着たり、オレンジのギターを持ってたりしたから、真似したら私もお姉ちゃんみたいになれるかもって思って形から入ったの」
「筋金入りの恵推しだな」
「推しって言うと変な感じがするけど、目標というか指針にしてる節はあるから、あながち間違ってはいない……のかな? よくわかんないね」
ギターケースの紐をぎゅっと握りしめながら小さく笑う宮川からは、緊張している空気は伺えない。変に力んでいる様子もないので、安定したパフォーマンスが期待できそうだ。
シューは若干顔が強張っている部分はあるけど、頭が真っ白になってしまうほどではなさそうだし、テツは雨露ソラの所でバイトした経験が活きているのか、とても余裕そうだ。
観察してみてよくわかった。この中で一番緊張しているのは俺だ。相変わらずイベント事には弱いみたいだな。手に汗が滲んでいくのを感じていると、吹奏楽部の移動が終わったみたいで廊下がスッキリになった。
「よし、ボクたちも行こうか」
シューの言葉に頷いて多目的ホールに入ると、長く伸びる大きな声が聞こえてきた。二、三十人程のスーツやドレスを着た人たちが壇上で歌っていて、本番前の最終確認を行っているようだった。恐らくあれが合唱団の人たちだ。俺の親よりも年齢が高そうな大人しかおらず、全員が貫禄のようなものを纏っていた。
「この人たちに混じって私たちも演奏するんだね」
「そうだ。適度に緊張しておくといい。これまでの活動では自分の好きなタイミングで演奏していればよかったから特にお客さんを意識することはなかっただろうが、今日はお客さんだけじゃなく出演者たちの目もある。気張らないとあっという間に飲み込まれてしまうぞ」
「なんだかテツの発言が雨露ソラみたいだな」
「てっちゃんはあの人を崇拝しているみたいだし、言動が似てきちゃうのはしかたないよ。そっとしておこう」
「それもそうか。リスペクトは大事だもんな」
「真剣に話しているんだから、真面目に聞け!」
「やべぇ、テツが怒ったぞ」
こんな風にくだらない会話をしている間は、余計なことを考えずにすんだ。しかし、ドラムを組み立て始めたシューを見ているうちに、演奏に対する不安が頭を過るようになってしまった。
うまくやれるのか? ミスせずに弾けるのか? そんなネガティブな感情が止めどなく溢れてきてしまう。それを必死に表に出さないようにしながら、プロジェクターとパソコンをケーブルで繋ぐ作業を進めていく。
意外なほどにあっさりと準備は整い、病院祭の演目がスタートする時間になってしまった。十時から開会式が行われ、そこから順々に色々なグループが発表していく流れになっていて、俺たちは昼休憩前の十五分間を使って演奏させてもらうことになっている。午前のトリを飾るスケジュールなので、余計に緊張しているのだ。
吹奏楽部がグレンミラーの『茶色の小瓶』を弾いていたり、合唱団がコブクロの『蕾』を歌っていたが、ほとんど記憶に残っていなかった。常にソワソワとした気持ちが押し寄せていて、落ち着いて耳を傾けることができなかった。
俺たちの出番が近付いてきたので舞台裏へと移動し、ギターを肩に掛けて、いつでも演奏できる状態にする。それでも心は晴れなかった。
大丈夫。大丈夫。大丈夫。俺たちは、この日のために練習を重ねてきた。DENJIのオーディションだって、それなりにやれていたはずだ。今回だってきっと大丈夫。
「お次は高校生バンド『退屈クラッシャーズ』の皆さんの演奏です!」
マイクを持った進行役の女性の声が耳に入った途端、頭が真っ白になってしまった。
俺以外のメンバーが「はい!」と大きな声で返事をした事実が、余計に己を苦しめる。
病院祭に参加することを決めたのも、YouTubeに配信することを決めたのも俺だ。提案した俺が不安に包まれていてどうする。今日を陽菜がとても楽しみにしてくれているんだぞ。しっかりしろ、俺!
「今日はこのようなお祭に参加させて頂き、ありがとうございます」
進行役の女性からマイクを受け取ったテツが、すらすらと話し始めた。
「俺たちのバンド名は『退屈クラッシャーズ』っていいます。俺たちで、つまらない毎日をぶっ壊してやろうぜって話し合った結果、こんなバンド名になりました。皆さんは今、人生を楽しめていますか? 自分の人生は充実しているって自信持って言えますか? 残念ながら俺は言えません。友達がこの病院に長いこと入院してて、なかなか退院できそうにないから、本気で笑うことができないんです。だから俺たちは歌います。この鬱憤を、この苛立ちを、この悲しみを、全部吹き飛ばすために」
「あ……」
テツの言葉を聞いて、俺たちが集まった理由を思い出す。そうだ。そうだった。
最初は誰かを喜ばせようだなんて考えていなくて、ただ楽しむことだけが目的だった。
それがいつからか、バンドをする理由が自分から他者へと変わってしまった。他者のために行動することが悪いと言いたいわけじゃない。誰かのために活動するのはとてもいいことだ。
ただ、もっと、自分の欲望に向き合うべきだったんじゃないか。
楽しんでいる姿を見せていたか? 笑っている姿を見せていたか? 希望を与えたいと願う側が、希望に溢れた生活を送っていたか?
答えは、否だ。
「それではまず、俺たちが昔からよく歌っている曲、『嘆きの空、果ての声』を聴いてください」
そう言って、シューがドラムを叩き、テツが前奏を弾き始めた。吹奏楽部や合唱団とは違ったテイストの音色が、多目的ホールに流れ始めた。慣れ親しんだ音楽が胸に流れ込んできたことで、先程まで胸中を支配していた不安が和らいでいた。
ちらりと横に視線を動かすとにっこりと笑った宮川が、心底楽しそうに歌っていた。宮川だって恵を救いたい気持ちでいっぱいなはずなのに、悩みなんておくびにも出さずにいる。
自然と口尻が上がり、前向きな気持ちで臨めそうになったその瞬間だった――。
「どこかで聞いたことがあるバンド名だと思ったら、オーディションを辞退した奴らじゃね?」
杖を持った白髪のお爺さんから幼稚園児の男の子まで、お客さんの年齢層は幅広い。家族と訪れている人もいれば一人で訪れている人もいる。本当に多様だ。だからその言葉を誰が発したのか、ギターに集中していた俺にはわからなかった。
「あの怖そうな人、見たことある。まだバンドやってたんだ」
「引退宣言してたくせに、活動継続してんじゃん」
「やっぱり注目を集めたいだけだったんだ」
次に聞こえた言葉は、確実に俺の心を突き刺した。言葉が実態になって存在していたら、氷柱のように冷たくて鋭いんじゃないかと想像してしまうほどに痛かった。
腕が、指が、動かない。視界が歪んで立っているのが難しくなる。俺の視界が多目的ホールからYouTubeのコメント欄へと変わり、忌々しい記憶が呼び起こされてしまう。
やめろ、やめてくれ。俺たちを罵倒するのはやめてくれ。
もう痛いのはこりごりなんだ。ただ応援してほしい。優しい言葉をかけてほしい。
アンチコメントのない世界を願ってしまうのは、俺の弱さなのかな。
「太陽なんてもういらないよ。もうこの空に願いを託すのをやめたから」
サビが目前に迫り、曲が盛り上がりをみせていたにもかかわらず、宮川がサビ前のフレーズをもう一度歌い始めた。想定とは違う進み方をしたことに驚愕し、フラッシュバックに苛まれていたことも忘れて彼女を凝視してしまう。
満面の笑みを浮かべている宮川を見つめながら、さらなる驚きに包まれる。テツもシューも宮川の歌にバッチリと合わせて演奏していた。俺はてっきり宮川が緊張して歌う順番を間違えてしまったのかと思っていたのだが、どうやらこの流れは既定路線のようだった。
宮川の瞳が訴えている。前を向けと。過去に苛まれている暇なんてないぞと発破をかけてきている。
ああ、そうか。俺が演奏できなくなることも織り込み済みだったのか。
ありがとう。一人じゃどうしようもできない俺を助けてくれて。
がっしりとギターを抱きしめて、震える指を動かして弦を揺らす。
宮川の横にいるテツの顔も背後にいるシューの顔も見えないけれど、あいつらの優しさは痛いくらい伝わってきた。直接言葉なんて交わさなくても思いは通じている。
たった一人で舞台に立つことなんて、きっと俺にはできなかっただろう。簡単に多目的ホールの空気に呑まれてなにもできずに終わっていたはずだ。そうならずにすんだのは、支えてくれる仲間がいたからだ。
自分の顔を馬鹿にされたり、オーディションを辞退したことを罵られたり、世間の言葉は厳しいを通り越して不条理極まりないものばかりだった。
そんな不条理に晒されないようリリックビデオだけで挑む道もあっただろうし、雨露ソラみたいに別人格を演じて表舞台に立つ道もあっただろう。やりようはいくらでもあった。それでも俺は、自分の素顔を晒して戦う道を選んだ。
顔を隠して、自分を偽って、全てを噓で塗り固めている自分を想像した時、負けを認めたように感じてしまった。俺が陽菜と恵に見せるべきなのは、負けた姿じゃない。勝とうとしている姿だと。
例えば、学校でいじめを受けた子が保健室登校をしたり転校したりしなくちゃいけないのはおかしいことだって思わないか? 教室から出て行かなくちゃいけないのは、いじめっ子のほうだと思わないか?
SNSの世界だってそうだ。どうして酷いコメントを書いた側ではなく、書かれた側が逃げなくちゃいけない? どうして誰かを故意に傷つけようとしていたわけじゃないのに、暴言を吐かれなくちゃいけないんだ? おかしいのは俺たちじゃない。世間のほうだ。
きっとこの世界のどこかには、俺たちのように不条理に苦しんでいる人がいる。
誰にも相談できずに涙を流している人がいるかもしれない。
病室で夜に怯えていた陽菜を、誰にも見つけてもらえなかった恵を、頭に思い描く。
俺たちの歌が誰かの孤独に寄り添えたなら、数多の人に聴かれるよりも、数億の再生回数を記録するよりも、それはきっと価値のあることだ。
「凄い」
誰かが、ぼそりと言った。
小さな、今にも搔き消えてしまいそうな感嘆の声は、心を震わせた他者へと伝播する。
「あの子、歌い方がかっこよくね?」
「この曲、いいかも」
多目的ホール全体が徐々に熱を帯び始め、人々の意識が変わったのを感じた。
もうすぐで一曲目が終わる。このままいけば二曲目も引き込めるはずだ。
なぁ、届いているか? 恵。お前は今、どこにいる? 俺はここにいるぞ。ここで諦めずに頑張っているぞ。
最後の一節を弾き終えた時、わっと歓喜の声が多目的ホールに響いた。
焼きとうもろこしや焼き鳥といった食べ物を販売する出店が数多く並んでいるので、美味しそうな匂いに鼻孔をくすぐられてしまう。食欲が湧いてきてしまわないように、自動ドアがある入口を目指すことだけに集中する。
院内に入ると、各階でどういった催しが行われているのかを示したマップがホワイトボードに貼られているのが目に留まった。現在地と赤色で書かれた文字を指差しながら多目的ホールを探す。
「右に行けばすぐにあるみたいだね」
シューの言葉に頷き、多目的ホールがある廊下に向かうと、叡山中学校の制服を着ている大勢の女子生徒たちで埋め尽くされていた。なにをしているのかと訝しんでいると、コントラバスや鍵盤といった楽器を運んでいる最中だとわかった。
やっぱり運搬が大変だなと思いながら、ドラムセットが入ったケースをカートの上に乗せて運んでいるシューを横目でちらりと見ると、「ボクは一人で運べるからいいけど、吹奏楽部の楽器は何人かで協力しないと運べないから大変だね」なんて言って笑っていた。
「早めに来ておいて良かったな。叡中の準備が長そうだ」
左手首の腕時計を見ながらテツが小声で愚痴をこぼす。
「しかたないよ。気長に待ちましょう」
さすが優等生。こんな時でも宮川は普段と変わらず落ち着いている。
「それにしても宮川のギターケースは目立つよな」
「ああ、うん。オレンジだもんね。気になるよね」
「いつも宮川ってオレンジのものを身につけてる気がするけど、オレンジ色が好きなのか?」
「これもお姉ちゃんの影響かな。お姉ちゃんがよくオレンジの服を着たり、オレンジのギターを持ってたりしたから、真似したら私もお姉ちゃんみたいになれるかもって思って形から入ったの」
「筋金入りの恵推しだな」
「推しって言うと変な感じがするけど、目標というか指針にしてる節はあるから、あながち間違ってはいない……のかな? よくわかんないね」
ギターケースの紐をぎゅっと握りしめながら小さく笑う宮川からは、緊張している空気は伺えない。変に力んでいる様子もないので、安定したパフォーマンスが期待できそうだ。
シューは若干顔が強張っている部分はあるけど、頭が真っ白になってしまうほどではなさそうだし、テツは雨露ソラの所でバイトした経験が活きているのか、とても余裕そうだ。
観察してみてよくわかった。この中で一番緊張しているのは俺だ。相変わらずイベント事には弱いみたいだな。手に汗が滲んでいくのを感じていると、吹奏楽部の移動が終わったみたいで廊下がスッキリになった。
「よし、ボクたちも行こうか」
シューの言葉に頷いて多目的ホールに入ると、長く伸びる大きな声が聞こえてきた。二、三十人程のスーツやドレスを着た人たちが壇上で歌っていて、本番前の最終確認を行っているようだった。恐らくあれが合唱団の人たちだ。俺の親よりも年齢が高そうな大人しかおらず、全員が貫禄のようなものを纏っていた。
「この人たちに混じって私たちも演奏するんだね」
「そうだ。適度に緊張しておくといい。これまでの活動では自分の好きなタイミングで演奏していればよかったから特にお客さんを意識することはなかっただろうが、今日はお客さんだけじゃなく出演者たちの目もある。気張らないとあっという間に飲み込まれてしまうぞ」
「なんだかテツの発言が雨露ソラみたいだな」
「てっちゃんはあの人を崇拝しているみたいだし、言動が似てきちゃうのはしかたないよ。そっとしておこう」
「それもそうか。リスペクトは大事だもんな」
「真剣に話しているんだから、真面目に聞け!」
「やべぇ、テツが怒ったぞ」
こんな風にくだらない会話をしている間は、余計なことを考えずにすんだ。しかし、ドラムを組み立て始めたシューを見ているうちに、演奏に対する不安が頭を過るようになってしまった。
うまくやれるのか? ミスせずに弾けるのか? そんなネガティブな感情が止めどなく溢れてきてしまう。それを必死に表に出さないようにしながら、プロジェクターとパソコンをケーブルで繋ぐ作業を進めていく。
意外なほどにあっさりと準備は整い、病院祭の演目がスタートする時間になってしまった。十時から開会式が行われ、そこから順々に色々なグループが発表していく流れになっていて、俺たちは昼休憩前の十五分間を使って演奏させてもらうことになっている。午前のトリを飾るスケジュールなので、余計に緊張しているのだ。
吹奏楽部がグレンミラーの『茶色の小瓶』を弾いていたり、合唱団がコブクロの『蕾』を歌っていたが、ほとんど記憶に残っていなかった。常にソワソワとした気持ちが押し寄せていて、落ち着いて耳を傾けることができなかった。
俺たちの出番が近付いてきたので舞台裏へと移動し、ギターを肩に掛けて、いつでも演奏できる状態にする。それでも心は晴れなかった。
大丈夫。大丈夫。大丈夫。俺たちは、この日のために練習を重ねてきた。DENJIのオーディションだって、それなりにやれていたはずだ。今回だってきっと大丈夫。
「お次は高校生バンド『退屈クラッシャーズ』の皆さんの演奏です!」
マイクを持った進行役の女性の声が耳に入った途端、頭が真っ白になってしまった。
俺以外のメンバーが「はい!」と大きな声で返事をした事実が、余計に己を苦しめる。
病院祭に参加することを決めたのも、YouTubeに配信することを決めたのも俺だ。提案した俺が不安に包まれていてどうする。今日を陽菜がとても楽しみにしてくれているんだぞ。しっかりしろ、俺!
「今日はこのようなお祭に参加させて頂き、ありがとうございます」
進行役の女性からマイクを受け取ったテツが、すらすらと話し始めた。
「俺たちのバンド名は『退屈クラッシャーズ』っていいます。俺たちで、つまらない毎日をぶっ壊してやろうぜって話し合った結果、こんなバンド名になりました。皆さんは今、人生を楽しめていますか? 自分の人生は充実しているって自信持って言えますか? 残念ながら俺は言えません。友達がこの病院に長いこと入院してて、なかなか退院できそうにないから、本気で笑うことができないんです。だから俺たちは歌います。この鬱憤を、この苛立ちを、この悲しみを、全部吹き飛ばすために」
「あ……」
テツの言葉を聞いて、俺たちが集まった理由を思い出す。そうだ。そうだった。
最初は誰かを喜ばせようだなんて考えていなくて、ただ楽しむことだけが目的だった。
それがいつからか、バンドをする理由が自分から他者へと変わってしまった。他者のために行動することが悪いと言いたいわけじゃない。誰かのために活動するのはとてもいいことだ。
ただ、もっと、自分の欲望に向き合うべきだったんじゃないか。
楽しんでいる姿を見せていたか? 笑っている姿を見せていたか? 希望を与えたいと願う側が、希望に溢れた生活を送っていたか?
答えは、否だ。
「それではまず、俺たちが昔からよく歌っている曲、『嘆きの空、果ての声』を聴いてください」
そう言って、シューがドラムを叩き、テツが前奏を弾き始めた。吹奏楽部や合唱団とは違ったテイストの音色が、多目的ホールに流れ始めた。慣れ親しんだ音楽が胸に流れ込んできたことで、先程まで胸中を支配していた不安が和らいでいた。
ちらりと横に視線を動かすとにっこりと笑った宮川が、心底楽しそうに歌っていた。宮川だって恵を救いたい気持ちでいっぱいなはずなのに、悩みなんておくびにも出さずにいる。
自然と口尻が上がり、前向きな気持ちで臨めそうになったその瞬間だった――。
「どこかで聞いたことがあるバンド名だと思ったら、オーディションを辞退した奴らじゃね?」
杖を持った白髪のお爺さんから幼稚園児の男の子まで、お客さんの年齢層は幅広い。家族と訪れている人もいれば一人で訪れている人もいる。本当に多様だ。だからその言葉を誰が発したのか、ギターに集中していた俺にはわからなかった。
「あの怖そうな人、見たことある。まだバンドやってたんだ」
「引退宣言してたくせに、活動継続してんじゃん」
「やっぱり注目を集めたいだけだったんだ」
次に聞こえた言葉は、確実に俺の心を突き刺した。言葉が実態になって存在していたら、氷柱のように冷たくて鋭いんじゃないかと想像してしまうほどに痛かった。
腕が、指が、動かない。視界が歪んで立っているのが難しくなる。俺の視界が多目的ホールからYouTubeのコメント欄へと変わり、忌々しい記憶が呼び起こされてしまう。
やめろ、やめてくれ。俺たちを罵倒するのはやめてくれ。
もう痛いのはこりごりなんだ。ただ応援してほしい。優しい言葉をかけてほしい。
アンチコメントのない世界を願ってしまうのは、俺の弱さなのかな。
「太陽なんてもういらないよ。もうこの空に願いを託すのをやめたから」
サビが目前に迫り、曲が盛り上がりをみせていたにもかかわらず、宮川がサビ前のフレーズをもう一度歌い始めた。想定とは違う進み方をしたことに驚愕し、フラッシュバックに苛まれていたことも忘れて彼女を凝視してしまう。
満面の笑みを浮かべている宮川を見つめながら、さらなる驚きに包まれる。テツもシューも宮川の歌にバッチリと合わせて演奏していた。俺はてっきり宮川が緊張して歌う順番を間違えてしまったのかと思っていたのだが、どうやらこの流れは既定路線のようだった。
宮川の瞳が訴えている。前を向けと。過去に苛まれている暇なんてないぞと発破をかけてきている。
ああ、そうか。俺が演奏できなくなることも織り込み済みだったのか。
ありがとう。一人じゃどうしようもできない俺を助けてくれて。
がっしりとギターを抱きしめて、震える指を動かして弦を揺らす。
宮川の横にいるテツの顔も背後にいるシューの顔も見えないけれど、あいつらの優しさは痛いくらい伝わってきた。直接言葉なんて交わさなくても思いは通じている。
たった一人で舞台に立つことなんて、きっと俺にはできなかっただろう。簡単に多目的ホールの空気に呑まれてなにもできずに終わっていたはずだ。そうならずにすんだのは、支えてくれる仲間がいたからだ。
自分の顔を馬鹿にされたり、オーディションを辞退したことを罵られたり、世間の言葉は厳しいを通り越して不条理極まりないものばかりだった。
そんな不条理に晒されないようリリックビデオだけで挑む道もあっただろうし、雨露ソラみたいに別人格を演じて表舞台に立つ道もあっただろう。やりようはいくらでもあった。それでも俺は、自分の素顔を晒して戦う道を選んだ。
顔を隠して、自分を偽って、全てを噓で塗り固めている自分を想像した時、負けを認めたように感じてしまった。俺が陽菜と恵に見せるべきなのは、負けた姿じゃない。勝とうとしている姿だと。
例えば、学校でいじめを受けた子が保健室登校をしたり転校したりしなくちゃいけないのはおかしいことだって思わないか? 教室から出て行かなくちゃいけないのは、いじめっ子のほうだと思わないか?
SNSの世界だってそうだ。どうして酷いコメントを書いた側ではなく、書かれた側が逃げなくちゃいけない? どうして誰かを故意に傷つけようとしていたわけじゃないのに、暴言を吐かれなくちゃいけないんだ? おかしいのは俺たちじゃない。世間のほうだ。
きっとこの世界のどこかには、俺たちのように不条理に苦しんでいる人がいる。
誰にも相談できずに涙を流している人がいるかもしれない。
病室で夜に怯えていた陽菜を、誰にも見つけてもらえなかった恵を、頭に思い描く。
俺たちの歌が誰かの孤独に寄り添えたなら、数多の人に聴かれるよりも、数億の再生回数を記録するよりも、それはきっと価値のあることだ。
「凄い」
誰かが、ぼそりと言った。
小さな、今にも搔き消えてしまいそうな感嘆の声は、心を震わせた他者へと伝播する。
「あの子、歌い方がかっこよくね?」
「この曲、いいかも」
多目的ホール全体が徐々に熱を帯び始め、人々の意識が変わったのを感じた。
もうすぐで一曲目が終わる。このままいけば二曲目も引き込めるはずだ。
なぁ、届いているか? 恵。お前は今、どこにいる? 俺はここにいるぞ。ここで諦めずに頑張っているぞ。
最後の一節を弾き終えた時、わっと歓喜の声が多目的ホールに響いた。

