「私は最低な人間なんです! ボーカルさんが元気になったって話をしてくれた時、私は小宮さんに嫉妬しました。なんでこの人はバンドメンバーとバラバラになっていたのに助けたい人を助けることができるんだろうって、私と同じようにうまくいかなければいいのにって思っちゃったんですよ! 最低でしょう? 自分がうまくいかないからって、それを他人にも押し付けようとしていたんですよ。そんな自分の醜さを実感した時、なにもかもが嫌になりました。今だってどうにもならない話をして、溜飲を下げようとしているんです! 貴方の誘いを断り続けていたのだって、本当は……」
「もう自分を責めるのはやめよう?」
俺の口が勝手に動く。俺の体なのに、俺のものじゃないみたいに喋っている。
「もうそんな風に責めなくていいよ。凛ちゃんの頑張りはちゃんと届いてるから」
「え?」
急に下の名前で馴れ馴れしく呼び始めた俺に、戸惑いを見せる宮川さん。当然だ。急に様子が変わったら、誰だって怪訝に思うだろう。だけど今の彼女に、生じた違和感を追求する余裕は残っていない。
大切なお姉さんの危篤と、醜悪だと感じている自身の感情を吐露したことによって、宮川さんの心は今にも壊れてしまいそうな程脆くなっている。それは俺以上に深刻で、不安定で、危うい。そんな血の繋がらない妹を救おうと、恵が思いの丈をぶつけていく。
「いつも眠っているわたしに音楽を聴かせてくれたよね。病院の人に許可をもらって、個室で演奏してくれたり歌ってくれたりしたよね。ありがとうって言えなかったけど、ちゃんと全部届いてるから。あんなに小さかった凛ちゃんがこんなにも大きくなっているだなんて、時間の流れって凄いね。感激だよ。共働きでパパとママがいなくて寂しがり屋だった凛ちゃんを歌って聞かせて慰めてあげてたのに、私より上手になっちゃったんじゃない? もうお姉さんの出番は終わりかな」
俺が知らないはずの情報――二人だけの思い出を俺が語っている。その事実に脳の理解が及ばない宮川さんは、ただ目を閉じたり開いたりを繰り返している。理解が及ばないというよりかは、事実を受け止められないといったほうが正しいかもしれないけど、とにかく、唖然とした状態の彼女に畳み掛けるように、恵は妹への愛を語り続ける。
「堂々とスピーチができるくらい強くなったんだね。皆から憧れられるくらい頑張ったんだね。姉としてとっても誇らしいよ! わたしは勉強が嫌いだったから、一位をとれるくらい学ぼうとはしてこなかったけど、一つに熱中して取り組めるのは凛ちゃんの良いところだと思うな。でもね、やっぱりちょっと不安。一人でなんでもしようとしちゃうところは、あの頃と変わってないみたいだから、誰かに頼ることを覚えて欲しいなって思っちゃう。それは音楽のことだけじゃなくて、いろんなことに言えるんだから」
「お姉……ちゃん……」
徐々に理解が追いついてきたのであろう宮川さんが、姉を呼ぶ声を溢した。
「うん」
「ごめんなさい。私、お姉ちゃんを目覚めさせられるくらい凄い曲を作れなかった。私、わたしっ、作れなかったよ! 頑張ればお姉ちゃんみたいになれるって信じてやってきたのに、全然お姉ちゃんになれそうにないのっ!」
「馬鹿だなぁ、凛ちゃんは。そんなこと気にしてたの? わたしに憧れてくれたことは凄く嬉しいけど、わたしみたいになろうとする必要なんてなかったのに。凛ちゃんは凛ちゃんのいいところを伸ばして頑張ってくれたら、それで良かったのに。もしかして、わたしとした約束のことを気にしてたのかな。だったら尚更、気にしなくていいよ。これからは、わたしのことなんか忘れて自分のために歌ってほしいかな」
約束という言葉を聞いた途端、宮川さんの肩がぴくっと揺れた。どんな約束を二人が交わしたのかはわからないけど、宮川さんが音楽活動をする上で欠かせない原点が、そこにあるような気がした。
俺が陽菜のために演奏するのと同じように、宮川さんは恵のために演奏する。わたしのことなんか忘れてなんて言われても、忘れるなんてことできないだろう。宮川さんと俺は似たような理由でギターを抱いているから、泣き続ける彼女の気持ちが痛いほどわかってしまう。
自分のことを思って言ってくれているのがわかるからこそ、余計に苦しいんだ。だって、笑顔になってほしくて、救いたくて、希望になりたくて、演奏技術を磨いてきたのに、忘れてなんて言われてしまったら、努力が水の泡になったように感じてしまうだろう。
どんな気持ちなんだろうか? 目を覚ます気配のない相手に、自分の気持ちを乗せて歌い続けるのはどれほど苦しいものなんだろう。歌い終わる度に届かないという現実をこれでもかと突きつけられてきたはずだ。
その一方で、ここ数日間恵と一緒にいたからこそ、恵の気持ちにも痛いくらい共感してしまう自分がいた。大切にしてくれるのは嬉しいし、愛されている実感を味わうことで幸せに感じるのは事実だろうけど、常に想われるのはしんどいことでもあるんだろう。
入院した陽菜が絶望していたのは心臓病に罹ってしまったことよりも、信頼を裏切ってしまったことに対する苦しみのほうが比重としては大きかったのと同じように、人は愛を受け止めきれないと感じるとしんどくなってしまうんだ。
記憶を取り戻す手がかりを一緒に探してくれたお礼として、恵は俺のトラウマ克服のために協力してくれた。そんな風に持ちつ持たれつの関係だったら他者からの愛は重たいと感じないけど、持たれ続けるだけの関係になると途端に重たいと感じてしまうものなんだよ。だからきっと、恵は忘れて欲しいと願うんだ。
『これだから使命感に縛られた馬鹿は困るんだ』
テツがシューに伝えた溜息交じりの言葉が、不意に脳裏を過った。
ああ、そうか。少なくともテツは想い続けることのしんどさをわかっていたからこそ、あんな風に突き放した言い方をしたのかもしれない。
「忘れることなんてできないよ! お姉ちゃんが眠ったままになっちゃった時、ギターなんて諦めちゃおうかなって思ったことはあったけど、それでもお姉ちゃんのために弾きたいって気持ちは消えなかったんだからっ! 『退屈クラッシャーズ』の皆さんが必死になって届けようとしている姿を見た時、私と同い年くらいの人たちが頑張ってるのを見て、負けてられないって思ったんだもん。情熱は捨てきれないってわかっちゃったんだもん!」
『BlessingGirl』が書いてくれた「諦めていたギターへの気持ちを取り戻すことができた」というコメント。あの言葉の重さを、こんな形で知ることになるなんて。
「なんで皆いなくなっちゃうんですか? お姉ちゃんも『退屈クラッシャーズ』も! 私を置いていかないでくださいよ……」
「ごめん。いなくなっちゃって本当にごめんね」
恵も宮川さんも泣きながら、互いの気持ちをぶつけ合っていた。
これでもかというくらい相手を思いやっているのに、話はまとまらなかった。
ただそれでも、長年心に留め続けていた気持ちを吐き出した意味はあったのだろう。
宮川さんは涙を拭いて、恵が入った俺を、真っ直ぐに見つめていた。
「お姉ちゃんが私を見ててくれているのがわかってホッとしました。一方通行じゃなくて、ちゃんと私の気持ちが届いていたんだって実感が持てました。だから、お姉ちゃんには申し訳ないですけど、忘れてなんてあげません。私の愛が重たいって感じていても、お姉ちゃんが目覚めるまで歌い続けてやります!」
「ふふ、やっぱりもうお姉さんの出番はなさそうだ。成長した凛ちゃんが見れてわたしもホッとしたよ」
「お姉ちゃん?」
「そろそろこみはるの中にいられるのも限界かも。直接話せなくなっちゃう前に伝えておくね。色々と苦しい思いを沢山してきたと思うし、これからも嫌なことは沢山あると思う。けれど、これだけは覚えておいてね。なにがあってもわたしは凛ちゃんの味方だからね」
「お姉ちゃん! お姉ちゃん! いかないでっ!」
「こみはるとも仲良くするんだよ。見た目は悪いけど、中身はとってもいい奴だから! お姉さんが太鼓判を押すくらい頼りになる奴だから……なにか困った時は相談するんだよ」
「お姉ちゃんっ! お姉ちゃん!」
「凛ちゃん。大好きだよ」
その言葉を最後にして、恵は魂の主導権を俺に戻してきた。意識が鮮明になり、先程まで感じていた浮遊感がなくなるのと同時に、重力だけじゃない重さが全身に襲い掛かってきた。気を抜くとふらっと倒れてしまいそうになったので、足に力を込めて必死に耐える。
「大丈夫ですか?」
「あ、ああ。なんとか大丈夫だ。恵に体を預けたら、いつもはこんな感じにならないんだけどな。今日はなんだかどっと疲れたぜ。はぁ……はぁ……急に俺が下の名前で呼んだからびっくりしただろ」
「未だに夢を見ているみたいな気分ですけど、あれは間違いなくお姉ちゃんでした。教えてくださいっ! さっきのはなんですか? なんで小宮さんが私たちのことをあんなに詳しく知っているんですか!」
「なんで俺だけが恵を見ることができるのかはわからないけど、考えられる点があるとすれば交通事故に遭った五年前のあの日、車と一緒に衝突したからだろうな」
「小宮さんが事故に遭った……? ちょっと待ってくださいっ! お姉ちゃんが小学生を庇ったという話は聞いていましたけど、それって小宮さんだったんですか!?」
「ああ、そうだ」
「そんな……」
「ごめん。俺のせいなんだ。俺が風船を取ろうと横断歩道に飛び出したりなんかしなければ、恵は今も健康に過ごしていたはずなんだ」
「その頬の傷は事故の時にできたものですか?」
「うん」
どんな言葉が飛んできたとしても受け止めるつもりだった。責められる覚悟はできているつもりだったけど、いざ面と向かって対峙すると心臓をぎゅっと鷲掴みにされてしまったかのような恐怖と緊張感がある。
雨露ソラから事故の詳細を聞いた後も、事実を隠して宮川さんを仲間に誘う道もあっただろう。今まで記憶を失ってしまった原因を知らずに彼女と接していたのだから、これまでと同じように接したとしても問題ないはずだ。
むしろ、真実を伝えてしまったことで関係性がこじれてしまう危険性のほうが大きい。それでも噓をつかなかったのは、ひとえに誠実で在りたいと思った俺のエゴだ。いや、もしかしたら、彼女に責められることで楽になろうとしていたのかもしれない。
「どうして……」
宮川さんがついに口を開く。恐怖に目をつぶってしまった俺が次に聞いた言葉は、まるっきり予想とは異なるものだった。
「どうして小宮さんに見えてわたしにはお姉ちゃんが見えないんですか!?」
「え……?」
「私にお姉ちゃんが見えていたなら、あの約束を果たすことだってできたのに……」
「ちょっ、ちょっと待ってくれ! 俺のせいで恵は眠ったままになっちまったんだぞ? なにか俺に対して思うことはないのか?」
「なんですか? 私に責めてほしいんですか? それって、小宮さんと仲良くしろって言ってくれたお姉ちゃんの気持ちを無駄にするってことですよね? ふざけないでください!」
これまでにないくらい大きな声を出されて、左足が一歩後ろに下がってしまう。
「お姉ちゃんは貴方がそんな性格だってことも全部わかっていたから、そうならないように先に釘を刺してくれたんだと思うんですよ。だから私は、貴方を責めてなんかあげません。そんなことを気にするよりも他に貴方がやるべきことはあるんじゃないですか?」
後ろに下がってしまった俺を逃がさないと言わんばかりに、一歩踏み出した宮川さんに右手首を掴まれていた。
「いつもみたいに私を仲間に誘えって言ってるんですよ!」
「あ……」
「そんなに罪滅ぼしがしたいのでしたら、私が果たせなかったお姉ちゃんとの約束を一緒に果たしてください! 私がどんなに断っても毎日のように動画を見せにやってきたんですから、今更やめたりしませんよね!?」
涙の雫を宙に散らしながら叫ぶ宮川さんの顔に意識が吸い込まれていた。覚悟を決めた表情はとても力強くて、凛としていて、かっこよかった。
「ああ。陽菜や恵に希望を与えたいのに一人じゃどうにもできない俺を助けてくれ」
「はい。私からもお願いします。お姉ちゃんを助けたい私を助けてください!」
いつの間にか手首を掴んでいた宮川さんの手は掌へと移動していて握手する形になっていた。彼女の華奢な五指から伝わる温かさからは恨みや憎しみといった負の感情は感じられなくて、恵に体を預けた時と似たような優しさだけがあった。
「さて、仲間になったことですし一つ質問してもいいですか? 普段お姉ちゃんはどんな風に小宮さんと接しているんですか? 本当に漫画みたいにフワフワと浮かんでいるんですか?」
「そうだな……浮かんでいる時もあれば浮かんでない時もあっていろいろだよ。話すことはできるけど、触れることはできないところなんかは本当に漫画みたいだよ」
「今も小宮さんの目にはお姉ちゃんが見えているんですか?」
「あ、ああ。恵なら俺たちのすぐ横に……」
そう言って周囲をキョロキョロと見渡すが恵はおらず、夜の公園には俺と宮川さんしかいなかった。
「恵?」
さっきまでの会話は、いや、恵と出会ってからの全てが幻だったのかと錯覚してしまうほどに無音と暗闇が広がっていて、白いリボンを付けた少女は神隠しにでもあってしまったみたいに忽然と姿を消してしまっていた。
「もう自分を責めるのはやめよう?」
俺の口が勝手に動く。俺の体なのに、俺のものじゃないみたいに喋っている。
「もうそんな風に責めなくていいよ。凛ちゃんの頑張りはちゃんと届いてるから」
「え?」
急に下の名前で馴れ馴れしく呼び始めた俺に、戸惑いを見せる宮川さん。当然だ。急に様子が変わったら、誰だって怪訝に思うだろう。だけど今の彼女に、生じた違和感を追求する余裕は残っていない。
大切なお姉さんの危篤と、醜悪だと感じている自身の感情を吐露したことによって、宮川さんの心は今にも壊れてしまいそうな程脆くなっている。それは俺以上に深刻で、不安定で、危うい。そんな血の繋がらない妹を救おうと、恵が思いの丈をぶつけていく。
「いつも眠っているわたしに音楽を聴かせてくれたよね。病院の人に許可をもらって、個室で演奏してくれたり歌ってくれたりしたよね。ありがとうって言えなかったけど、ちゃんと全部届いてるから。あんなに小さかった凛ちゃんがこんなにも大きくなっているだなんて、時間の流れって凄いね。感激だよ。共働きでパパとママがいなくて寂しがり屋だった凛ちゃんを歌って聞かせて慰めてあげてたのに、私より上手になっちゃったんじゃない? もうお姉さんの出番は終わりかな」
俺が知らないはずの情報――二人だけの思い出を俺が語っている。その事実に脳の理解が及ばない宮川さんは、ただ目を閉じたり開いたりを繰り返している。理解が及ばないというよりかは、事実を受け止められないといったほうが正しいかもしれないけど、とにかく、唖然とした状態の彼女に畳み掛けるように、恵は妹への愛を語り続ける。
「堂々とスピーチができるくらい強くなったんだね。皆から憧れられるくらい頑張ったんだね。姉としてとっても誇らしいよ! わたしは勉強が嫌いだったから、一位をとれるくらい学ぼうとはしてこなかったけど、一つに熱中して取り組めるのは凛ちゃんの良いところだと思うな。でもね、やっぱりちょっと不安。一人でなんでもしようとしちゃうところは、あの頃と変わってないみたいだから、誰かに頼ることを覚えて欲しいなって思っちゃう。それは音楽のことだけじゃなくて、いろんなことに言えるんだから」
「お姉……ちゃん……」
徐々に理解が追いついてきたのであろう宮川さんが、姉を呼ぶ声を溢した。
「うん」
「ごめんなさい。私、お姉ちゃんを目覚めさせられるくらい凄い曲を作れなかった。私、わたしっ、作れなかったよ! 頑張ればお姉ちゃんみたいになれるって信じてやってきたのに、全然お姉ちゃんになれそうにないのっ!」
「馬鹿だなぁ、凛ちゃんは。そんなこと気にしてたの? わたしに憧れてくれたことは凄く嬉しいけど、わたしみたいになろうとする必要なんてなかったのに。凛ちゃんは凛ちゃんのいいところを伸ばして頑張ってくれたら、それで良かったのに。もしかして、わたしとした約束のことを気にしてたのかな。だったら尚更、気にしなくていいよ。これからは、わたしのことなんか忘れて自分のために歌ってほしいかな」
約束という言葉を聞いた途端、宮川さんの肩がぴくっと揺れた。どんな約束を二人が交わしたのかはわからないけど、宮川さんが音楽活動をする上で欠かせない原点が、そこにあるような気がした。
俺が陽菜のために演奏するのと同じように、宮川さんは恵のために演奏する。わたしのことなんか忘れてなんて言われても、忘れるなんてことできないだろう。宮川さんと俺は似たような理由でギターを抱いているから、泣き続ける彼女の気持ちが痛いほどわかってしまう。
自分のことを思って言ってくれているのがわかるからこそ、余計に苦しいんだ。だって、笑顔になってほしくて、救いたくて、希望になりたくて、演奏技術を磨いてきたのに、忘れてなんて言われてしまったら、努力が水の泡になったように感じてしまうだろう。
どんな気持ちなんだろうか? 目を覚ます気配のない相手に、自分の気持ちを乗せて歌い続けるのはどれほど苦しいものなんだろう。歌い終わる度に届かないという現実をこれでもかと突きつけられてきたはずだ。
その一方で、ここ数日間恵と一緒にいたからこそ、恵の気持ちにも痛いくらい共感してしまう自分がいた。大切にしてくれるのは嬉しいし、愛されている実感を味わうことで幸せに感じるのは事実だろうけど、常に想われるのはしんどいことでもあるんだろう。
入院した陽菜が絶望していたのは心臓病に罹ってしまったことよりも、信頼を裏切ってしまったことに対する苦しみのほうが比重としては大きかったのと同じように、人は愛を受け止めきれないと感じるとしんどくなってしまうんだ。
記憶を取り戻す手がかりを一緒に探してくれたお礼として、恵は俺のトラウマ克服のために協力してくれた。そんな風に持ちつ持たれつの関係だったら他者からの愛は重たいと感じないけど、持たれ続けるだけの関係になると途端に重たいと感じてしまうものなんだよ。だからきっと、恵は忘れて欲しいと願うんだ。
『これだから使命感に縛られた馬鹿は困るんだ』
テツがシューに伝えた溜息交じりの言葉が、不意に脳裏を過った。
ああ、そうか。少なくともテツは想い続けることのしんどさをわかっていたからこそ、あんな風に突き放した言い方をしたのかもしれない。
「忘れることなんてできないよ! お姉ちゃんが眠ったままになっちゃった時、ギターなんて諦めちゃおうかなって思ったことはあったけど、それでもお姉ちゃんのために弾きたいって気持ちは消えなかったんだからっ! 『退屈クラッシャーズ』の皆さんが必死になって届けようとしている姿を見た時、私と同い年くらいの人たちが頑張ってるのを見て、負けてられないって思ったんだもん。情熱は捨てきれないってわかっちゃったんだもん!」
『BlessingGirl』が書いてくれた「諦めていたギターへの気持ちを取り戻すことができた」というコメント。あの言葉の重さを、こんな形で知ることになるなんて。
「なんで皆いなくなっちゃうんですか? お姉ちゃんも『退屈クラッシャーズ』も! 私を置いていかないでくださいよ……」
「ごめん。いなくなっちゃって本当にごめんね」
恵も宮川さんも泣きながら、互いの気持ちをぶつけ合っていた。
これでもかというくらい相手を思いやっているのに、話はまとまらなかった。
ただそれでも、長年心に留め続けていた気持ちを吐き出した意味はあったのだろう。
宮川さんは涙を拭いて、恵が入った俺を、真っ直ぐに見つめていた。
「お姉ちゃんが私を見ててくれているのがわかってホッとしました。一方通行じゃなくて、ちゃんと私の気持ちが届いていたんだって実感が持てました。だから、お姉ちゃんには申し訳ないですけど、忘れてなんてあげません。私の愛が重たいって感じていても、お姉ちゃんが目覚めるまで歌い続けてやります!」
「ふふ、やっぱりもうお姉さんの出番はなさそうだ。成長した凛ちゃんが見れてわたしもホッとしたよ」
「お姉ちゃん?」
「そろそろこみはるの中にいられるのも限界かも。直接話せなくなっちゃう前に伝えておくね。色々と苦しい思いを沢山してきたと思うし、これからも嫌なことは沢山あると思う。けれど、これだけは覚えておいてね。なにがあってもわたしは凛ちゃんの味方だからね」
「お姉ちゃん! お姉ちゃん! いかないでっ!」
「こみはるとも仲良くするんだよ。見た目は悪いけど、中身はとってもいい奴だから! お姉さんが太鼓判を押すくらい頼りになる奴だから……なにか困った時は相談するんだよ」
「お姉ちゃんっ! お姉ちゃん!」
「凛ちゃん。大好きだよ」
その言葉を最後にして、恵は魂の主導権を俺に戻してきた。意識が鮮明になり、先程まで感じていた浮遊感がなくなるのと同時に、重力だけじゃない重さが全身に襲い掛かってきた。気を抜くとふらっと倒れてしまいそうになったので、足に力を込めて必死に耐える。
「大丈夫ですか?」
「あ、ああ。なんとか大丈夫だ。恵に体を預けたら、いつもはこんな感じにならないんだけどな。今日はなんだかどっと疲れたぜ。はぁ……はぁ……急に俺が下の名前で呼んだからびっくりしただろ」
「未だに夢を見ているみたいな気分ですけど、あれは間違いなくお姉ちゃんでした。教えてくださいっ! さっきのはなんですか? なんで小宮さんが私たちのことをあんなに詳しく知っているんですか!」
「なんで俺だけが恵を見ることができるのかはわからないけど、考えられる点があるとすれば交通事故に遭った五年前のあの日、車と一緒に衝突したからだろうな」
「小宮さんが事故に遭った……? ちょっと待ってくださいっ! お姉ちゃんが小学生を庇ったという話は聞いていましたけど、それって小宮さんだったんですか!?」
「ああ、そうだ」
「そんな……」
「ごめん。俺のせいなんだ。俺が風船を取ろうと横断歩道に飛び出したりなんかしなければ、恵は今も健康に過ごしていたはずなんだ」
「その頬の傷は事故の時にできたものですか?」
「うん」
どんな言葉が飛んできたとしても受け止めるつもりだった。責められる覚悟はできているつもりだったけど、いざ面と向かって対峙すると心臓をぎゅっと鷲掴みにされてしまったかのような恐怖と緊張感がある。
雨露ソラから事故の詳細を聞いた後も、事実を隠して宮川さんを仲間に誘う道もあっただろう。今まで記憶を失ってしまった原因を知らずに彼女と接していたのだから、これまでと同じように接したとしても問題ないはずだ。
むしろ、真実を伝えてしまったことで関係性がこじれてしまう危険性のほうが大きい。それでも噓をつかなかったのは、ひとえに誠実で在りたいと思った俺のエゴだ。いや、もしかしたら、彼女に責められることで楽になろうとしていたのかもしれない。
「どうして……」
宮川さんがついに口を開く。恐怖に目をつぶってしまった俺が次に聞いた言葉は、まるっきり予想とは異なるものだった。
「どうして小宮さんに見えてわたしにはお姉ちゃんが見えないんですか!?」
「え……?」
「私にお姉ちゃんが見えていたなら、あの約束を果たすことだってできたのに……」
「ちょっ、ちょっと待ってくれ! 俺のせいで恵は眠ったままになっちまったんだぞ? なにか俺に対して思うことはないのか?」
「なんですか? 私に責めてほしいんですか? それって、小宮さんと仲良くしろって言ってくれたお姉ちゃんの気持ちを無駄にするってことですよね? ふざけないでください!」
これまでにないくらい大きな声を出されて、左足が一歩後ろに下がってしまう。
「お姉ちゃんは貴方がそんな性格だってことも全部わかっていたから、そうならないように先に釘を刺してくれたんだと思うんですよ。だから私は、貴方を責めてなんかあげません。そんなことを気にするよりも他に貴方がやるべきことはあるんじゃないですか?」
後ろに下がってしまった俺を逃がさないと言わんばかりに、一歩踏み出した宮川さんに右手首を掴まれていた。
「いつもみたいに私を仲間に誘えって言ってるんですよ!」
「あ……」
「そんなに罪滅ぼしがしたいのでしたら、私が果たせなかったお姉ちゃんとの約束を一緒に果たしてください! 私がどんなに断っても毎日のように動画を見せにやってきたんですから、今更やめたりしませんよね!?」
涙の雫を宙に散らしながら叫ぶ宮川さんの顔に意識が吸い込まれていた。覚悟を決めた表情はとても力強くて、凛としていて、かっこよかった。
「ああ。陽菜や恵に希望を与えたいのに一人じゃどうにもできない俺を助けてくれ」
「はい。私からもお願いします。お姉ちゃんを助けたい私を助けてください!」
いつの間にか手首を掴んでいた宮川さんの手は掌へと移動していて握手する形になっていた。彼女の華奢な五指から伝わる温かさからは恨みや憎しみといった負の感情は感じられなくて、恵に体を預けた時と似たような優しさだけがあった。
「さて、仲間になったことですし一つ質問してもいいですか? 普段お姉ちゃんはどんな風に小宮さんと接しているんですか? 本当に漫画みたいにフワフワと浮かんでいるんですか?」
「そうだな……浮かんでいる時もあれば浮かんでない時もあっていろいろだよ。話すことはできるけど、触れることはできないところなんかは本当に漫画みたいだよ」
「今も小宮さんの目にはお姉ちゃんが見えているんですか?」
「あ、ああ。恵なら俺たちのすぐ横に……」
そう言って周囲をキョロキョロと見渡すが恵はおらず、夜の公園には俺と宮川さんしかいなかった。
「恵?」
さっきまでの会話は、いや、恵と出会ってからの全てが幻だったのかと錯覚してしまうほどに無音と暗闇が広がっていて、白いリボンを付けた少女は神隠しにでもあってしまったみたいに忽然と姿を消してしまっていた。

