人の心臓は一生で何回拍動するのだろう? そう思って、ネットで検索してみたことがある。三十億回。それが八十歳まで生きた場合の回数なんだってさ。
その数字を目にした時、思っちまったんだ。もし生涯で拍動できる心拍数が決まっているとしたら、あいつはあと何回拍動できるんだろうって。
「陽菜~今日も来たぞ~」
叡山赤十字病院の五階にある病室の扉を二回ほどノックしながら、中にいる陽菜に声をかける。しかし、中から返答はない。大病に冒されていなければ「いらっしゃい~」と言って明るい声で歓迎してくれただろうが、今の陽菜にそんな元気はない。重々しい空気を感じながら、取っ手を掴んで扉を横にスライドさせる。
中に入ろうと足を一歩踏み出した時、ふと扉の横に設置されたネームプレートが目に入る。何度見ても「長谷川陽菜」と書かれている現実を受け止められない。歯を噛みしめながら個室に入ると、花瓶の花が新しくなっていることに気が付いた。病室は白を基調としているからか、黄色のバラなんて置いてあったらすぐに目がいく。俺より先にお見舞いに来た人がいたようだ。誰だろうか?
「てつ君がね、持って来てくれたの。もう、当分来れないだろうからって」
俺がずっとバラを見ていたからか、珍しく陽菜のほうから話しかけてきた。バラから彼女へと視線を動かすと、ベッドを斜めにしてファッション雑誌を読んでいた。どんな服装でも陽菜なら似合うって思って過ごしてきたけど、病院で借りられるピンク色のパジャマを着ている姿を見るのは辛い。
入院する前は眉毛の上くらいまでしかなかったのに、今では目元が隠れてしまうくらい髪が伸びてしまっているし、常にリンゴみたいに赤かった頬も今では真っ白になっている。だいぶやつれてしまっているようだ。
「そっか。テツの奴、東京にある高校を選んだんだったな」
陽菜の横にパイプ椅子を置いて座る。
「うん」
電車で一時間三十分以上かけないと通えないような遠くの高校に進学したテツは、『退屈クラッシャーズ』の誰にも進路を話しておらず、春から一人暮らしをすることを告げてきたのは卒業式を終えてからだった。しかも顔を合わせてではなく、LINEで。
バンドが解散してしまってから話す機会そのものが減ってしまっていたせいもあるのだろうが、それにしたって酷い。文字ではなく言葉で伝えてほしかった。そう思ってしまうのは俺の我儘だろうか。
「『退屈クラッシャーズ』のアカウントの管理だってテツがやってたのに、あいつがいなくなっちまったら誰もログインできねぇじゃねぇーか」
YouTubeにアップした動画についたコメントへの返信も、『退屈クラッシャーズ』を宣伝するために作ったSNSの運用も、全部テツがやってくれていた。メールアドレスとパスワードを聞いておくべきだったと後悔する。
「うん」
陽菜は相槌を打つのみで、会話を広げる気はないようだ。俺は慌てて次の話題へと移ろうと試みるが、言葉が出てこない。廊下を歩いている人の話し声や足音は聞こえるのに、病室はしーんとしている。
陽菜と二人きりの時はどんな風にして話していたんだっけ。しばらく会話らしい会話をしていなかったからか、そんなことすらわからなくなっていた。静寂が辛い。なにかを言わなきゃいけないと思えば思うほど、水の中で溺れているみたいに息が苦しくなってくる。
「あっ、カーテンが閉まってるな。せっかく晴れているんだし、外の空気を取りこんだほうがいいぞ」
そう言って立ち上がろうとすると、陽菜に手首を掴まれてしまう。振り返ると、ふるふると左右に顔を振っている。そんな可愛らしい姿に心を撃ち抜かれながらも「空気が淀んじまうぞ」と気丈に言う。
「いいの」
掠れそうな声だったが、力強い意思が込められているのを感じ、俺はしかたなく椅子に腰を戻す。『嘆きの空、果ての声』の一節が思い浮かぶ。やっぱり太陽が嫌いなのだろうか。
「はる君。明日、高校の入学式なんだよね?」
「ああ」
偏差値が高くて進路を選び放題だったテツと違って、俺は地元の高校しか選ぶことができなかった。なにかの教育に熱を入れているとか、全国大会に毎年出場している部活があるとか、そんな凄い点は一つもない普通の高校に、俺は明日から三年間通うことになる。
もう少し俺の頭が良ければ資格が沢山取れる商業高校に進む未来もあったのだろうが、受験勉強に身が入っていなかった自分が「もしも」を考えたところで意味はない。
「そっか……なら、はる君は自分のために時間を使ったほうがいいよ。私なんかのために毎日来なくていいから」
「な、なに言ってんだよ。新しい学校生活が始まるからって関係ないだろ?」
寂しがり屋の陽菜がそんなことを言うなんて信じられず、声が上擦ってしまう。
「放っておいてって言ってるの! もう生きてたって意味ないんだからさぁ!」
布団をぎゅっと握りしめた陽菜が大声を出す。急に叫んだ彼女に驚いていると、じろりと睨まれてしまう。
「歌えないのに……生きていたって意味ないじゃん!」
最愛の人が大粒の涙を溢しながら叫んでいる。頬と顎を伝って落ちたいくつもの心の結晶が、シミとなって真っ白な布団に融けていく。夢への道が途絶え、絶望に打ちひしがれているのが痛いくらい伝わってくる。それなのに俺は、彼女を癒す言葉の一つもかけてやれない。どんな言葉も気休めにしかならないような気がして、声にすることができなかった。
「はる君たちを見ていると、皆の期待を裏切っちゃった自分が嫌になるの! だから来ないで! パパとママとか、友達とか、親戚とかだけじゃない。動画を見てくれた人たちに応援してもらってたのに、全部無駄にしちゃったんだよ!」
俺たちが参加したオーディションはDENJIが開催していたのもあって、世間から多大な注目を集めていた。その影響もあってか、『嘆きの空、果ての声』は思った以上の反響を呼んだ。いいねやコメントの通知が鳴り止まず、陽菜が嬉しい悲鳴を上げていたのを覚えている。当時はそれが糧となっていたけど、今は重荷となってしまっているみたいだった。
「だから、こんな私のことなんて構わないで好きに……ゲホッゲホッ」
「陽菜!」
咳をしながら胸を抑えて蹲り始めた陽菜。すぐに近付いて背中を擦ってあげるが、いっこうに咳が治まる気配がない。苦痛に顔が歪んでいく一方だ。このままではまずいと判断し、ナースコールのボタンを押すことにした。すぐに看護師さんが駆けつけてくれたが、病室から追い出されてしまった。
それから少しして、陽菜の無事と本日の面会が中止になったことを聞かされた俺は、病院の敷地を出ることにした。歩道に一定の間隔で植えられたケヤキの横をゆっくりと歩いていく。なにもしてやれない自分に対する怒りが沸々と湧いてきて、ズボンのポケットに入れた両手を自然と強く握りしめてしまう。
陽菜が心臓病に罹ってしまった原因は不明で、医者ですらわからないらしい。だから、薬を使った延命処置はできても根治的な治療は難しいとのことだ。死を回避するには心臓移植をするか人工心臓を植え込むか、どちらかしかない。それなのに陽菜は手術することを拒んでいる。
音を楽しむと書いて音楽。本当に言葉は良く考えて作られている。俺を含めた『退屈クラッシャーズ』の面々は、陽菜が歌えなくなった途端、音を奏でることを楽しめなくなった。きっと陽菜はもっとだ。楽しめないから、歌に心を乗せられない。歌心がないから、他者に響かない。悪循環に陥った結果、生きる意味さえも見失ってしまっているんだ。
あいつが音楽を楽しめるようになれば手術を前向きに検討してくれるんじゃないか? とは思うけど、具体的な案が思い浮かばないまま時間だけが過ぎている。
「ん……?」
病院から二キロ程離れた場所にある駅が見えてきた頃、どこからかギターの音が聞こえてきた。それも、テツがよく聴いていたDENJIの曲だ。
「どこだ? どこで弾いている?」
音の出所を探しているうちに、気が付けば駅近くの公園に辿り着いていた。公園の入口に設置されている石のような見た目をしている車止めの横を通り過ぎると、子犬を連れたおばさんや自販機でジュースを買っているサラリーマンの姿が目に入る。しかし、ギターの音に耳を傾けている人はいないように感じられた。聞き慣れているのだろうか?
トイレと東屋の横を通り過ぎ、公園の中央にある池が見えてきた頃、ギターの音と一緒に誰かの歌声が混じっていることに気が付いた。声から女性だと判断する。
「なんだか『BlessingGirl』の女の子と声が似ているな」
『退屈クラッシャーズ』として活動して良かったことの一つに、「諦めていたギターへの気持ちを取り戻すことができた」とコメントしてくれた人がいたことだ。過去になにがあったのかまでは書かれていなかったが、もう一度挑戦してみたいと思えたらしい。
その人は、顔は出さないでギターを演奏している手元だけを映した動画をYouTubeに出しており、連日のように『嘆きの空、果ての声』のカバー動画を投稿している。その甲斐あってか、最初は音程やテンポがズレたりしてうまいとは言えない演奏をしていた彼女が、今ではプロに近いレベルにまで上達していた。アカウントの名前は『BlessingGirl』。直訳すると祝福の女の子、だろうか。
そうだ。なにかを必死に伝えようとして叫んでいるあの声にそっくりなんだ。もしかしたらあの女の子がここで歌っているのかもしれない。そう思うと、ますます顔が見たくなって演奏者の居場所を探してしまう。
「あ……」
池を挟んだ向こう側に、黒色のセーターを着てギターを弾いている女性がいた。春の暖かい風に吹かれて、数多くの桜が花びらの雨を降らす中、その人は口と手をただ必死に動かしている。幻想的とはこのことを指すのだろう。絵画のようにあまりにも美しい情景に、俺は目を奪われて唖然としてしまった。だけど、そうしていられたのはほんの数秒だけだった。
彼女が演奏を止めてギターをソフトケースに入れ始めたのを見て、見とれている場合じゃないと慌てて池の外周を走り始めた。これから彼女に会ってなにを話すのだろう。伝えたいことなんて何一つ思いついていないくせに、会って話さなくちゃいけない、なぜかそんな使命感に駆られていた。
「待ってくれ!」
桜の合間を縫う途中、木の根に躓いて転びそうになりながら、彼女を呼び止めようと叫ぶ。しかし、俺の声が届いていないのか歩調が変わる様子はない。幸い歩くスピードはゆったりとしているので、このまま走り続ければ追いつくことができそうだ。
「おーい! 演奏していたお姉さーん」
公園にいる人とすれ違う度に、怪訝な視線を向けられてしまう。叫びながら走っている姿が奇怪に映っているのかもしれないなと思いながら、心なしかしょんぼりとしているように見える演奏者に近付いていく。
「話がしたいんだ!」
何度話しかけても気が付く様子がないので、肩を叩いて気が付いてもらおうと手を伸ばすと驚くことが起きた。ソフトケースを背負った女性の左肩を俺の手が通り抜けたのだ。予想外の事実に前のめりなっていた体勢を立て直すことができず、地面に倒れてしまう。
「きゃっ!」
ようやく俺の存在に気が付いたのか、女性が驚きの声を上げる。
「いててて……」
立ち上がって手や膝についた砂利を落としていると、「大丈夫~?」と心配しているようにはあまり感じられない間延びした声が聞こえてきた。反応するべく顔を上げると、腰まで伸びた黒髪を耳にかけている女性と目が合う。左の側頭部にちょうちょ結びされた白色のリボンを付けていることに気が付いたのは、吸い込まれそうな瞳から目を逸らした時だった。
「お、おお。全然大丈夫」
頭をかきながらぶっきらぼうに反応する。女性と目が合っただけで変に緊張してしまうのが思春期男子の辛いところだ。別にやましいことはしていないのに、妙にソワソワした気分になってしまうのはどうしてだろう。
「君、わたしのことが見えるんだね~誰にも気付いてもらえないかと思ってた」
「さっき触れることができなかったことといい……も、もしかして幽霊なのか?」
「うん。わたしもよくわかってないんだけど~そうみたいなんだ~」
あまりにも緊張感のない声で、彼女は俺の質問を肯定した。
その数字を目にした時、思っちまったんだ。もし生涯で拍動できる心拍数が決まっているとしたら、あいつはあと何回拍動できるんだろうって。
「陽菜~今日も来たぞ~」
叡山赤十字病院の五階にある病室の扉を二回ほどノックしながら、中にいる陽菜に声をかける。しかし、中から返答はない。大病に冒されていなければ「いらっしゃい~」と言って明るい声で歓迎してくれただろうが、今の陽菜にそんな元気はない。重々しい空気を感じながら、取っ手を掴んで扉を横にスライドさせる。
中に入ろうと足を一歩踏み出した時、ふと扉の横に設置されたネームプレートが目に入る。何度見ても「長谷川陽菜」と書かれている現実を受け止められない。歯を噛みしめながら個室に入ると、花瓶の花が新しくなっていることに気が付いた。病室は白を基調としているからか、黄色のバラなんて置いてあったらすぐに目がいく。俺より先にお見舞いに来た人がいたようだ。誰だろうか?
「てつ君がね、持って来てくれたの。もう、当分来れないだろうからって」
俺がずっとバラを見ていたからか、珍しく陽菜のほうから話しかけてきた。バラから彼女へと視線を動かすと、ベッドを斜めにしてファッション雑誌を読んでいた。どんな服装でも陽菜なら似合うって思って過ごしてきたけど、病院で借りられるピンク色のパジャマを着ている姿を見るのは辛い。
入院する前は眉毛の上くらいまでしかなかったのに、今では目元が隠れてしまうくらい髪が伸びてしまっているし、常にリンゴみたいに赤かった頬も今では真っ白になっている。だいぶやつれてしまっているようだ。
「そっか。テツの奴、東京にある高校を選んだんだったな」
陽菜の横にパイプ椅子を置いて座る。
「うん」
電車で一時間三十分以上かけないと通えないような遠くの高校に進学したテツは、『退屈クラッシャーズ』の誰にも進路を話しておらず、春から一人暮らしをすることを告げてきたのは卒業式を終えてからだった。しかも顔を合わせてではなく、LINEで。
バンドが解散してしまってから話す機会そのものが減ってしまっていたせいもあるのだろうが、それにしたって酷い。文字ではなく言葉で伝えてほしかった。そう思ってしまうのは俺の我儘だろうか。
「『退屈クラッシャーズ』のアカウントの管理だってテツがやってたのに、あいつがいなくなっちまったら誰もログインできねぇじゃねぇーか」
YouTubeにアップした動画についたコメントへの返信も、『退屈クラッシャーズ』を宣伝するために作ったSNSの運用も、全部テツがやってくれていた。メールアドレスとパスワードを聞いておくべきだったと後悔する。
「うん」
陽菜は相槌を打つのみで、会話を広げる気はないようだ。俺は慌てて次の話題へと移ろうと試みるが、言葉が出てこない。廊下を歩いている人の話し声や足音は聞こえるのに、病室はしーんとしている。
陽菜と二人きりの時はどんな風にして話していたんだっけ。しばらく会話らしい会話をしていなかったからか、そんなことすらわからなくなっていた。静寂が辛い。なにかを言わなきゃいけないと思えば思うほど、水の中で溺れているみたいに息が苦しくなってくる。
「あっ、カーテンが閉まってるな。せっかく晴れているんだし、外の空気を取りこんだほうがいいぞ」
そう言って立ち上がろうとすると、陽菜に手首を掴まれてしまう。振り返ると、ふるふると左右に顔を振っている。そんな可愛らしい姿に心を撃ち抜かれながらも「空気が淀んじまうぞ」と気丈に言う。
「いいの」
掠れそうな声だったが、力強い意思が込められているのを感じ、俺はしかたなく椅子に腰を戻す。『嘆きの空、果ての声』の一節が思い浮かぶ。やっぱり太陽が嫌いなのだろうか。
「はる君。明日、高校の入学式なんだよね?」
「ああ」
偏差値が高くて進路を選び放題だったテツと違って、俺は地元の高校しか選ぶことができなかった。なにかの教育に熱を入れているとか、全国大会に毎年出場している部活があるとか、そんな凄い点は一つもない普通の高校に、俺は明日から三年間通うことになる。
もう少し俺の頭が良ければ資格が沢山取れる商業高校に進む未来もあったのだろうが、受験勉強に身が入っていなかった自分が「もしも」を考えたところで意味はない。
「そっか……なら、はる君は自分のために時間を使ったほうがいいよ。私なんかのために毎日来なくていいから」
「な、なに言ってんだよ。新しい学校生活が始まるからって関係ないだろ?」
寂しがり屋の陽菜がそんなことを言うなんて信じられず、声が上擦ってしまう。
「放っておいてって言ってるの! もう生きてたって意味ないんだからさぁ!」
布団をぎゅっと握りしめた陽菜が大声を出す。急に叫んだ彼女に驚いていると、じろりと睨まれてしまう。
「歌えないのに……生きていたって意味ないじゃん!」
最愛の人が大粒の涙を溢しながら叫んでいる。頬と顎を伝って落ちたいくつもの心の結晶が、シミとなって真っ白な布団に融けていく。夢への道が途絶え、絶望に打ちひしがれているのが痛いくらい伝わってくる。それなのに俺は、彼女を癒す言葉の一つもかけてやれない。どんな言葉も気休めにしかならないような気がして、声にすることができなかった。
「はる君たちを見ていると、皆の期待を裏切っちゃった自分が嫌になるの! だから来ないで! パパとママとか、友達とか、親戚とかだけじゃない。動画を見てくれた人たちに応援してもらってたのに、全部無駄にしちゃったんだよ!」
俺たちが参加したオーディションはDENJIが開催していたのもあって、世間から多大な注目を集めていた。その影響もあってか、『嘆きの空、果ての声』は思った以上の反響を呼んだ。いいねやコメントの通知が鳴り止まず、陽菜が嬉しい悲鳴を上げていたのを覚えている。当時はそれが糧となっていたけど、今は重荷となってしまっているみたいだった。
「だから、こんな私のことなんて構わないで好きに……ゲホッゲホッ」
「陽菜!」
咳をしながら胸を抑えて蹲り始めた陽菜。すぐに近付いて背中を擦ってあげるが、いっこうに咳が治まる気配がない。苦痛に顔が歪んでいく一方だ。このままではまずいと判断し、ナースコールのボタンを押すことにした。すぐに看護師さんが駆けつけてくれたが、病室から追い出されてしまった。
それから少しして、陽菜の無事と本日の面会が中止になったことを聞かされた俺は、病院の敷地を出ることにした。歩道に一定の間隔で植えられたケヤキの横をゆっくりと歩いていく。なにもしてやれない自分に対する怒りが沸々と湧いてきて、ズボンのポケットに入れた両手を自然と強く握りしめてしまう。
陽菜が心臓病に罹ってしまった原因は不明で、医者ですらわからないらしい。だから、薬を使った延命処置はできても根治的な治療は難しいとのことだ。死を回避するには心臓移植をするか人工心臓を植え込むか、どちらかしかない。それなのに陽菜は手術することを拒んでいる。
音を楽しむと書いて音楽。本当に言葉は良く考えて作られている。俺を含めた『退屈クラッシャーズ』の面々は、陽菜が歌えなくなった途端、音を奏でることを楽しめなくなった。きっと陽菜はもっとだ。楽しめないから、歌に心を乗せられない。歌心がないから、他者に響かない。悪循環に陥った結果、生きる意味さえも見失ってしまっているんだ。
あいつが音楽を楽しめるようになれば手術を前向きに検討してくれるんじゃないか? とは思うけど、具体的な案が思い浮かばないまま時間だけが過ぎている。
「ん……?」
病院から二キロ程離れた場所にある駅が見えてきた頃、どこからかギターの音が聞こえてきた。それも、テツがよく聴いていたDENJIの曲だ。
「どこだ? どこで弾いている?」
音の出所を探しているうちに、気が付けば駅近くの公園に辿り着いていた。公園の入口に設置されている石のような見た目をしている車止めの横を通り過ぎると、子犬を連れたおばさんや自販機でジュースを買っているサラリーマンの姿が目に入る。しかし、ギターの音に耳を傾けている人はいないように感じられた。聞き慣れているのだろうか?
トイレと東屋の横を通り過ぎ、公園の中央にある池が見えてきた頃、ギターの音と一緒に誰かの歌声が混じっていることに気が付いた。声から女性だと判断する。
「なんだか『BlessingGirl』の女の子と声が似ているな」
『退屈クラッシャーズ』として活動して良かったことの一つに、「諦めていたギターへの気持ちを取り戻すことができた」とコメントしてくれた人がいたことだ。過去になにがあったのかまでは書かれていなかったが、もう一度挑戦してみたいと思えたらしい。
その人は、顔は出さないでギターを演奏している手元だけを映した動画をYouTubeに出しており、連日のように『嘆きの空、果ての声』のカバー動画を投稿している。その甲斐あってか、最初は音程やテンポがズレたりしてうまいとは言えない演奏をしていた彼女が、今ではプロに近いレベルにまで上達していた。アカウントの名前は『BlessingGirl』。直訳すると祝福の女の子、だろうか。
そうだ。なにかを必死に伝えようとして叫んでいるあの声にそっくりなんだ。もしかしたらあの女の子がここで歌っているのかもしれない。そう思うと、ますます顔が見たくなって演奏者の居場所を探してしまう。
「あ……」
池を挟んだ向こう側に、黒色のセーターを着てギターを弾いている女性がいた。春の暖かい風に吹かれて、数多くの桜が花びらの雨を降らす中、その人は口と手をただ必死に動かしている。幻想的とはこのことを指すのだろう。絵画のようにあまりにも美しい情景に、俺は目を奪われて唖然としてしまった。だけど、そうしていられたのはほんの数秒だけだった。
彼女が演奏を止めてギターをソフトケースに入れ始めたのを見て、見とれている場合じゃないと慌てて池の外周を走り始めた。これから彼女に会ってなにを話すのだろう。伝えたいことなんて何一つ思いついていないくせに、会って話さなくちゃいけない、なぜかそんな使命感に駆られていた。
「待ってくれ!」
桜の合間を縫う途中、木の根に躓いて転びそうになりながら、彼女を呼び止めようと叫ぶ。しかし、俺の声が届いていないのか歩調が変わる様子はない。幸い歩くスピードはゆったりとしているので、このまま走り続ければ追いつくことができそうだ。
「おーい! 演奏していたお姉さーん」
公園にいる人とすれ違う度に、怪訝な視線を向けられてしまう。叫びながら走っている姿が奇怪に映っているのかもしれないなと思いながら、心なしかしょんぼりとしているように見える演奏者に近付いていく。
「話がしたいんだ!」
何度話しかけても気が付く様子がないので、肩を叩いて気が付いてもらおうと手を伸ばすと驚くことが起きた。ソフトケースを背負った女性の左肩を俺の手が通り抜けたのだ。予想外の事実に前のめりなっていた体勢を立て直すことができず、地面に倒れてしまう。
「きゃっ!」
ようやく俺の存在に気が付いたのか、女性が驚きの声を上げる。
「いててて……」
立ち上がって手や膝についた砂利を落としていると、「大丈夫~?」と心配しているようにはあまり感じられない間延びした声が聞こえてきた。反応するべく顔を上げると、腰まで伸びた黒髪を耳にかけている女性と目が合う。左の側頭部にちょうちょ結びされた白色のリボンを付けていることに気が付いたのは、吸い込まれそうな瞳から目を逸らした時だった。
「お、おお。全然大丈夫」
頭をかきながらぶっきらぼうに反応する。女性と目が合っただけで変に緊張してしまうのが思春期男子の辛いところだ。別にやましいことはしていないのに、妙にソワソワした気分になってしまうのはどうしてだろう。
「君、わたしのことが見えるんだね~誰にも気付いてもらえないかと思ってた」
「さっき触れることができなかったことといい……も、もしかして幽霊なのか?」
「うん。わたしもよくわかってないんだけど~そうみたいなんだ~」
あまりにも緊張感のない声で、彼女は俺の質問を肯定した。

