移動に時間をかけた影響で、辺りはすっかり真っ暗になってしまった。風に揺れる木々は影に覆われて不気味で、池で泳ぐ魚を見ることすらできない。ぽつんぽつんと点在する電灯の光は弱く、灯りとして頼るには少々物足りないけど、涙点を赤くした宮川さんにとってはちょうど良い暗さかもしれないなと思った。
 木材で作られた横長の椅子に座った宮川さんは、どう話を切り出そうか迷っているのか、なかなか口を開いてくれない。
 精神的に狼狽している彼女に催促するのも違う気がして、結局俺は喋り出してくれるのを待っていることしかできなかった。

「お姉ちゃんは、とても優しい人でした」

 そう、絞り出すように宮川さんが話し始めた。沈黙していた時間はどれくらいだったのか、腕時計もスマホも見ていなかった俺にはわからない。とても長い時間だったようにも思えるし、あっという間だったようにも思えた。

「いつも明るくて周囲にいる人を元気にしてくれる。そんな人でした。私はそんなお姉ちゃんが大好きで、憧れで、どんな言葉にしても表しきれないくらい素敵な人でした。私がギターを始めたのもお姉ちゃんがきっかけでした」

 俺が陽菜に抱く印象と随分と似ていると思った。俺も陽菜が歌手になりたいなんて言い出さなかったら、音楽の道へと足を踏み出したりなんてしなかっただろう。

「お姉ちゃんって言っても、本当のお姉ちゃんじゃあないんですけどね。隣の家に住んでいる人で、よく遊んでもらっていました。友達を作るのが苦手で、休日に遊ぶ相手なんていなかった私をライブに連れていってくれたり、ギターで演奏をしたりしてくれたので、寂しさを感じずにいられたんですけど、お姉ちゃんといられる日々はそう長くは続きませんでした」

 血は繋がっていなかったらしいことが判明して、宮川恵という名前がしっくりこないと言っていた恵の直感が当たっていたことがわかった。

「お姉ちゃんが……交通事故に遭って……眠ったままになって、もう五年が経ちます。知っていますか? 植物状態になった人が生存できる年数は、長くて五年なんです。私はお姉ちゃんに元気になってほしくて、ギターの練習を始めたんです。でもっ! どんなに頑張ってもお姉ちゃんは目覚めてくれないんですっ! 私、高校生になっちゃったんですよ。お姉ちゃんが生きていられる最後の年になるかもしれない一年が、始まっちゃったんですよ!」

 悲痛な叫びだった。静かで落ち着いた雰囲気を見せることが多かった宮川さんが、こんなにも大きな声を発している。それだけで、彼女の心がズタズタに切り裂かれているのだと察することができた。
 入学式の朝、キッチンでイライラとしていた時の俺と同じことを宮川さんは考えていたんだ。わかる。わかるよ。成果を挙げられなくて歯がゆい気持ちになる心境が痛いくらいに。

「私じゃダメなのかなって考えが、最近、津波のように押し寄せてくるんです。一人で活動することの限界を感じて、辛くて、それでも諦めたくないから、仲間を募ろうと思ってお姉ちゃんが話してくれた軽音楽部に入部しようと思ったのに、なんで廃部しているんですか! 頼みの綱だったのに……どうしてっ!」
「五年前……」

 宮川さんの言葉を聞いて教頭先生の声が脳裏を過る。確か、五年前までは軽音楽部があったと言っていた。さっきから五年という数字がキーワードになりすぎている気がする。嫌な予感が悪寒となって背筋を駆け抜けた。

「ええ、さすが小宮さんですね。気が付きましたか? どうやら、お姉ちゃんの代で軽音楽部が終わっていたみたいです。続いているものだと思っていたので、とっても驚きました。はは、笑っちゃいますよね。あんなに小宮さんに偉そうなこと言っておきながら、私はなに一つ成せていないんです。DENJIのオーディションに参加するわけでもなければ、小宮さんみたいに頑張って仲間を集めようとするわけでもない。私はただ一人で叫んでいるだけ。こんな人間になにができるって言うんでしょうね」

 また、涙が溢れていた。止まったかに思われた慟哭が、再び堰を切って溢れ出していく。

「最近、急激にお姉ちゃんの容態が悪くなっているんです。まるで生きるのをやめようとしているみたいに、今まではただ眠っているだけだったお姉ちゃんの心臓が急激に弱くなっているんです!」

 最近……急激に……? 俺の中にある嫌な予感がどんどん大きくなっていく。医学的な知識もオカルト的な知識も持ち合わせていないけど、容態が悪くなっている原因に思い当たってしまった。
 考えられる原因は二つ。一つ目は、失くした記憶を無理に思い出そうとしたこと。二つ目は、魂の主導権を奪って俺の肉体に入ったこと。幽霊の恵が無理をしたことで、生身の恵に悪い影響が出てしまったのではないだろうか? つまり、つまりだ……。
 恵の容態が悪くなったのは、俺のせい……?
 何度も重ねた決意。何度も貰った恩。幾重にも連ねてきた己の行動原理が、音を立てて崩れていく感覚を味わう。俺は陽菜や恵に楽しんで演奏している姿を見せたくて日々研鑽してきた。それなのに、その研鑽によって恵の寿命を縮めてしまっていたとしたら、本末転倒じゃないか。

「いいんだよ」

 不意に泣きたくなるくらい優しい声が聞こえて、声のした方向へ瞳を動かすと、恵が笑っていた。これまでにないくらい晴れやかな笑顔を浮かべていて、それが作り笑いではないことは、察しが悪い俺でもわかった。わかってしまった。

「いいの。なんとなーく、長くないことわかってたから」
「よくねぇよ」

 なにもかも飲み込んで、達観したかのような笑顔にムカついた。
 首を振って恵に近付こうすると、唇に人差し指を押し当てられてしまう。

「言ったでしょ? 君の罪を赦すって。もう話はついてるはずだよ?」

 達観するな。欲張れよ。もっと生きたいって言え。そんな言葉がどんどん湧いて出てくるのに、口にすることすらできなかった。本当に、本当に、満足した表情を浮かべていたから。

「ありがとう。そして、ごめん。また無茶するね」

 そう言って恵は、口に当てていた指を下へと落として、胸に触れてきた。彼女がなにをしようとしているのかを悟って、今度こそ大声を出そうとする。これ以上、幽霊に魂の主導権を奪わせるわけにはいかないと使命感にも似た感情が芽生え始めたのに、俺の精神は安定してはくれなかった。

「凛ちゃんから話を聞いて動揺中のこみはるになら、ギターを持っていなくたって入れるよ。君は自分の心の弱さを恥と思うかもしれないけど、わたしはそれでいいと思う。君がそうやって心を揺らすのはいつだって、誰かを想う優しさで溢れているから、これからも優しいこみはるでいてほしい」

 意識が遠のいていく。眼前で悲しみに暮れる宮川さんの姿が朧気になって、思考することすらできなくなってしまう。天国にいるみたいな心地良さに揺られて、恵の言いなりになってしまうんだ。

「ここからは、わたしが凛ちゃんと話すよ。こみはるの言葉でも凛ちゃんを支えられるかもしれないけど、わたしの言葉で支えたいの」

 ――だってわたしは、あの子のお姉ちゃんだから。