「そっか。てつ君と雨露ソラに会って、全部思い出したんだ」
「ああ。『退屈クラッシャーズ』ができた理由も、恵のことも全部思い出したよ。ずっと忘れていた俺を気遣ってくれてありがとな。助かったよ」
東京に行った次の日。俺とシューは、雨露ソラがコンタクトをとってきた理由や、テツが陽菜の手術代を稼ぐためにバイトをしていたことなど、全てを陽菜に話した。
「ううん。気にしないで。はる君が大丈夫だってわかってホッとしたもん」
今日の陽菜は雑誌を読んでいるわけでも雨露ソラの動画を視聴しているわけでもなかった。なにもせずに俺たちが現れるのを待っていたみたいで、どこかいつもと違う雰囲気を醸し出していた。
「これからはもう……羽嶋お姉ちゃんをいなかったことにしなくていいんだよね?」
「そうだね。こみやんの前でも普通に話していいと思うよ」
シューの返答を聞いて、俺の首肯を見た陽菜は、窓から見える空を見ながら静かな声で喋り始めた。
「私ね、羽嶋お姉ちゃんみたいな歌手になりたかったんだ。私たちを笑顔にしてくれたあの人みたいに歌を聞いてくれた人を笑顔にしたいって本気で思ってたの」
「忘れてた俺が言うのもおかしいかもしれないけど、歌だけじゃなく性格も真似しようとしてたもんな」
「うん。そうだね。小学生の私にとって羽嶋お姉ちゃんはとっても大きな存在だったから、真似して少しでも追いつきたかったんだよ。おかしいなぁ……あと二年もしたら、あの頃の羽嶋お姉ちゃんと同じ年齢になっちゃうのに追いついた気がちっともしないや」
俺の隣で陽菜の話を聞いている恵は、とても優しい瞳を向けていた。
「私もそろそろ過去に縛られているのは終わりにしないとね」
陽菜が発した発言に眉をひそめていると、床頭台の引き出しから紙を取り出して渡してきた。促されるがまま手に取ると、そこには手術に関する同意書と書かれていた。
紙の一番下にある氏名を書く欄に、長谷川陽菜と書かれた文字と捺印が押されているのを見て目を丸くする。
「陽菜……これ……」
「うん。私、もう一度頑張ってみるよ。皆が一つになってバンドをやっている姿を見たいからさ!」
「ほ、本当か! 嘘じゃないよな!」
「もちろんだよ。こんな大事な話で噓つくわけないでしょ~。今日朝ね、てつ君からLINEではる君たちと一緒にまた頑張ることにしたって連絡が来てたんだ。だから、私も頑張らなくちゃなって思って書いたんだ」
徐々に陽気さを取り戻しつつあるとは思っていたけど、ここまで前向きになっていたなんて嬉しい誤算だ。シューやテツと仲直りできたり、失くしていた記憶を取り戻せたりしただけでも万々歳なのに、陽菜が同意書にサインをしてくれる日が来るなんて。
「やったね! こみやん!」
「ああ!」
シューと喜びを分かち合う。ここ最近、不機嫌になっていることが多かった彼が、目尻に涙を浮かべながら破顔している。その表情を目の当たりにして、やっと心の底から幸福を嚙みしめることができた。
「良かったね」
満面の笑みを浮かべた恵も祝福の言葉を俺に述べてくれた。
「二つ懸念事項があるんだ」
歓喜の渦に包まれていた俺の心に冷水を浴びせたのは、低い声で発せられた陽菜の言葉だった。
「私が手術を受けるのを長い間渋っていたせいなんだけどね、とても心臓が弱ってしまっているらしいんだ。だから、完全に心臓移植をしないと駄目みたいで、ドナーが見つかるまでの間、人工心臓を埋め込むことになったんだけど、一つ目の懸念点が人工心臓を埋め込む手術をしている最中に死亡してしまう可能性があるんだ。二つ目の懸念点が、ドナーが見つかるまでに長い時間がかかってしまう可能性が高いことなんだ」
先程までの盛り上がりが嘘みたいに病室内に静寂が訪れる。
頭を搔きながら「あはは」と小さく笑った陽菜は、今にも泣き出しそうな顔をしていた。
「この間まで死んでもいいって思ってたのに、今は死ぬのが怖い。ちょっとでも希望が見えたらこれだもん。笑っちゃうよね」
「陽菜……」
「大丈夫。もう太陽なんていらないなんて言わないよ。言わないけど、怖いものは怖い。明日も太陽をちゃんと拝めるのかなって不安はずっと残ってる。眠っちゃったら目覚めないかもしれないって毎晩思っちゃうんだ」
「怖いのなんて当たり前だ。その気持ちは間違ってなんかない。そんな陽菜の恐怖を吹き飛ばすくらいの希望を俺が作ってやる。演奏していた当時の感覚は徐々に取り戻せるようになってきたから、あとは皆と息を合わせる練習をするだけなんだ。待たせてばっかでごめんだけど、もう少しだけ待っててくれ! 近いうちに絶対、陽菜が元気になる演奏を披露してみせるから!」
「うん。期待してる」
演奏していた当時の感覚はだいぶ取り戻しつつあると思っている。宮川さんからは合格をまだもらえていないが、東京から帰宅した際に演奏してみたら、恵に魂の主導権を握らせることなく最初から最後まで一曲弾き切ることができたんだ。
「こみやん。さっそく今日からビデオ通話をしながら、三人でどうしていくか話し合おう!」
「だな!」
俺とシューとテツの三人で、陽菜を元気にさせる曲やパフォーマンスを考えることになった。今日だけでなく明日以降も意見交換をしていく必要があるし、これからは音楽スタジオを借りて練習する機会も増えていくだろう。
「ふふ」
不意に陽菜が小さく笑った。
「なにがおかしいんだ?」
「ごめんごめん。あの頃のはる君たちが帰ってきたんだな~って思ってさ」
「そのままずっと笑っていてくれ。たとえ夜が怖くても一人じゃないんだって思えたら、少しは不安も紛れるだろうからさ」
パイプ椅子から立ち上がり、足元に置いていた鞄を肩に掛ける。
陽菜の朗らかな表情を見れたことを収穫にして帰るとしよう。
「そろそろ帰るとするわ。またな、陽菜」
「またね、ひななん!」
「うん。またね、はる君、しゅう君」
雨露ソラと会って過去を知った俺は、今まで以上にやる気に溢れていた。もう一度バンドを再開する姿を披露したいという気持ちが強くなり、ギターの練習に熱が入るようになった。
皆と息を合わせて演奏するのはまだ時間がかかりそうだけど、着実に解散前の熱気と技術を取り戻しつつあった。
「今のところどうだった? ちゃんと弾けてた?」
「ちょっとテンポが遅かったな。気持ち早めで指を動かしてやってみろ」
ビデオ通話をしながらテツに俺の演奏を見てもらう。ブランクがある俺と違って彼はないし、プロを間近で見ていたのもあって、前よりも見る目が厳しくなった。アドバイスが的確だからありがたいといえばありがたいんだけど、合格ラインに達するまでが一苦労だ。
「頑張れ~」
空中をふわふわと漂う幽霊が、同じ場所で同じミスを繰り返す俺を見ながら、文字通り高みの見物をしていた。他人事だからって楽しそうにしやがって。譜面を見ながら再び手を動かすが、すぐに「遅いぞ!」とスマホの画面越しに注意されてしまう。
「絶賛苦戦中みたいだね」
オレンジジュースが入ったコップを持ったシューが笑いながら俺の部屋に入ってくる。
「少し休憩したら? ずっと根詰めていてもいいことないよ?」
「わかってる。シューの言うことはご尤もなんだけど、もう少しでうまくいきそうなんだよ」
「頑張れ、こみはる」
先程まで聞こえていた恵の声が集中しているうちに聞こえなくなっていった。最初はそれが周囲の声や音に惑わされずに演奏できている状態だと思っていた。
しかし、顔を上げて譜面や弦から目を離しても恵の姿は見当たらなかった。シューとテツがスマホゲームについて話し合っている傍らで、小声で恵の名を呼んでみるが反応がない。
「恵?」
俺が練習している姿を見るのに飽きてどこかに行ってしまったのだろうか? 「トイレに行ってくる」と噓を言って部屋を出ようとすると、恵が背後に立っていた。驚いて思わず大声を出してしまいそうになる。
「いきなり現れるなよ。びっくりするだろ」
「なに言ってるの? わたしずっとここにいたよ? すぐ横にいたのに何回もわたしの名前を呼んでたよね?」
部屋を出て階段を下りながら恵の話に耳を傾けるが、どうしても眉をひそめてしまう。「すぐ横にいた……?」
「ちょっ、こみはる本気で言ってるの? わたしずっと応援してたのに」
恵が噓をついているようには見えない。だとすると、俺の目がおかしくなってしまったと考えるしかない。
「本当に冗談でもなんでもなくわたしが見えなくなっていたんだね?」
「ああ」
「わかった。またそういうことがあったら教えてね」
恵が見えなくなるというハプニングがあったが、それ以外に特筆するようなことは起こらなかった。テツから厳しい指導を受ける日々を繰り返しているうちにあっという間に五月が過ぎ、中間テストを乗り越えることができた。
一学期の中間テストだったからそんなに難しくなかったけど、期末テストはもう少し頑張らないといけないと思わせる結果だった。
シューのおかげで同じクラスの男子たちと話す機会は増えたが、女子からは距離を置かれたままだ。クラスの皆と仲良くするにはもう少し時間がかかりそうだった。
練習の成果を報告しようと一年A組に訪れると、誰とも話さず一人で過ごしている宮川さんの姿があった。新入生代表として壇上でスピーチをしていた人と同一人物とは思えないくらい元気がなく、スマホや教科書を見ずに着席したまま呆然としていた。
宮川さんに話しかけようか迷っていると、彼女と視線が交わった。手を挙げて声をかけようとすると、顔を横に向けて露骨に目を逸らされてしまった。
話したくないという明確な意思表示。対話すら不可能なことにショックを受けて啞然としていると、この間ひそひそ話をしていた女子生徒二人がこちらを怪訝そうな目で見ていた。これ以上ここにいるのはよくないと感じ、自分のクラスに戻ることにした。
廊下を歩きながら『BlessingGirl』のチャンネルを開いてみるが、相変わらず新しい動画はアップされていなかった。これまでは高校生活が始まった影響で動画を撮る暇がないのかと思っていたが、今日の宮川さんの様子を見る限り違いそうだ。連日のように『嘆きの空、果ての声』を歌っていた彼女はどこにいってしまったのだろうか?
恵が急に見えなくなったことや、宮川さんの元気がないことを気にしながらも陽菜のお見舞いは欠かさない。
前向きさを取り戻しつつある陽菜を見ていると、自然とこちらもやる気が出てくる。演奏のことになるとテツがとても厳しくなるのだと伝えると、とても嬉しそうに陽菜が笑っていた。
道路沿いに置かれた電灯に灯りが灯り始め、徐々に空が闇に覆われていく。病院入口の自動扉の前でシューと別れた俺は、空を眺めながら自転車置き場へと歩いていた。
自転車置き場が見える位置まで移動すると、何度か病院で目にした可愛らしい自転車の前に、一人の女の人が立っていた。なにかあったのか、肩を震わせて泣いている。
話しかけるのが憚れる場面ではあるが、彼女にどいてもらわないと自転車を取り出すことができそうにないので、重たい気分を抱えながら声をかけることにした。
「あ、あの~。自転車を取らせて頂きたいのですが~」
俺が話しかけると、長い髪を揺らしながら女の人がこちらに振り返った。その人物の顔を見た瞬間、驚きが全身を駆け巡った。
「み、宮川さん!?」
「あ……小宮さん」
素っ頓狂な声を上げる俺とは裏腹に、聞き取れるかも怪しいくらい細々とした声を発する宮川さんは、目を真っ赤に腫らしていた。相当泣いたのが伺える。
スマホといい自転車といいオレンジのイメージがある宮川さんだけど、私服は白色のロングティーシャツを着ていた。下は紺色のプリーツスカートを履いていて、落ち着いた雰囲気を漂わせていた。
「小宮さんも病院に来ていたんですね」
「あ、ああ。陽菜のお見舞いにな」
「ボーカルさん、ここに入院されていたんですね」
ハンカチで顔を拭いたり、声を震わせながらも平静を装うとしたり、必死に気丈に振る舞おうとする姿に、どう声をかけたら良いのかわからなくなってしまう。そんな宮川さんの姿に恵も心配そうな表情を浮かべている。
「小宮さんはボーカルさんに希望を与えられそうですか?」
「え?」
「初めて会った時に、私に言ったじゃないですか。なかなか手術を受けてくれないから、希望を与えるために歌ってほしいって」
「実はあれから色々あってさ、シューやテツと一緒にもう一度バンド活動を再開することになったんだ。そのおかげもあって、陽菜が少し元気になったんだ」
「それは良かったですね」
そう言って宮川さんが目を伏せてしまい、無言の時間がやってきてしまった。沈黙が辛い。
ずっと前から動画を見て知っている相手とはいえ、まだ知り合ったばかりの関係だ。こんな所で泣いている理由を聞いたとしても素直に答えてはくれないだろう。通常ならば時間をかけて親睦を深めていき、相手が抱えている事情を聞いていくのが筋なんだろう。
でも、このまま引き下がってしまったら宮川さんのことを知ることができないままだし、恵の心残りも解消されないままになってしまう。
「宮川さん。不躾な質問になってしまうかもしれないけど、今宮川さんを悩ませているのは、恵……羽嶋恵のことかな?」
俺の言葉を聞いた途端、宮川さんの目が大きく見開いたかと思うと、俺の両肩を強く掴んできた。
「お姉ちゃんのことを知っているんですか!?」
恵と宮川さんがどの程度親密だったのかを俺は知らない。誰にも気づかれない幽霊の体になっても宮川さんを想う恵がいることと、恵をお姉ちゃんと呼んで慕っている宮川さんがいること。知っていることなんてそれくらいしかなかった。
「わ、私、なにやってるんだろ。ごめんなさい」
「なにかあったの? 俺で良かったら話を聞くよ。仲の良い友達より、ほぼ他人の方が話しやすいことってあるでしょ? 自分で言ってて悲しくなってきたけど」
掴んでいた手を離した宮川さんが、一瞬逡巡したような様子を見せる。
瞳を白黒させていることから、相当堪えているみたいだ。
「宮川さんも知っての通り、見た目で怖がられてる俺は、学校でシューくらいしかまともに話せる相手がいないんだ。だから、宮川さんの秘密が漏れる心配はないから安心してくれ。これも自分で言ってて悲しくなってくるけど」
「ふふ、やっぱり小宮さんは面白い人ですね」
少しだけ笑顔を取り戻した宮川さんの様子に安堵しながら、恵をちらりと見つめると、真剣な表情を浮かべながら頷いてくれた。
「お言葉に甘えてもいいですか?」
「ああ。もちろんだ」
「でしたら、ついてきて欲しい場所があるんです。そこでお話をさせてください」
「わかった」
そしてやってきたのは、俺と恵になにかと縁のある公園だった。
「ああ。『退屈クラッシャーズ』ができた理由も、恵のことも全部思い出したよ。ずっと忘れていた俺を気遣ってくれてありがとな。助かったよ」
東京に行った次の日。俺とシューは、雨露ソラがコンタクトをとってきた理由や、テツが陽菜の手術代を稼ぐためにバイトをしていたことなど、全てを陽菜に話した。
「ううん。気にしないで。はる君が大丈夫だってわかってホッとしたもん」
今日の陽菜は雑誌を読んでいるわけでも雨露ソラの動画を視聴しているわけでもなかった。なにもせずに俺たちが現れるのを待っていたみたいで、どこかいつもと違う雰囲気を醸し出していた。
「これからはもう……羽嶋お姉ちゃんをいなかったことにしなくていいんだよね?」
「そうだね。こみやんの前でも普通に話していいと思うよ」
シューの返答を聞いて、俺の首肯を見た陽菜は、窓から見える空を見ながら静かな声で喋り始めた。
「私ね、羽嶋お姉ちゃんみたいな歌手になりたかったんだ。私たちを笑顔にしてくれたあの人みたいに歌を聞いてくれた人を笑顔にしたいって本気で思ってたの」
「忘れてた俺が言うのもおかしいかもしれないけど、歌だけじゃなく性格も真似しようとしてたもんな」
「うん。そうだね。小学生の私にとって羽嶋お姉ちゃんはとっても大きな存在だったから、真似して少しでも追いつきたかったんだよ。おかしいなぁ……あと二年もしたら、あの頃の羽嶋お姉ちゃんと同じ年齢になっちゃうのに追いついた気がちっともしないや」
俺の隣で陽菜の話を聞いている恵は、とても優しい瞳を向けていた。
「私もそろそろ過去に縛られているのは終わりにしないとね」
陽菜が発した発言に眉をひそめていると、床頭台の引き出しから紙を取り出して渡してきた。促されるがまま手に取ると、そこには手術に関する同意書と書かれていた。
紙の一番下にある氏名を書く欄に、長谷川陽菜と書かれた文字と捺印が押されているのを見て目を丸くする。
「陽菜……これ……」
「うん。私、もう一度頑張ってみるよ。皆が一つになってバンドをやっている姿を見たいからさ!」
「ほ、本当か! 嘘じゃないよな!」
「もちろんだよ。こんな大事な話で噓つくわけないでしょ~。今日朝ね、てつ君からLINEではる君たちと一緒にまた頑張ることにしたって連絡が来てたんだ。だから、私も頑張らなくちゃなって思って書いたんだ」
徐々に陽気さを取り戻しつつあるとは思っていたけど、ここまで前向きになっていたなんて嬉しい誤算だ。シューやテツと仲直りできたり、失くしていた記憶を取り戻せたりしただけでも万々歳なのに、陽菜が同意書にサインをしてくれる日が来るなんて。
「やったね! こみやん!」
「ああ!」
シューと喜びを分かち合う。ここ最近、不機嫌になっていることが多かった彼が、目尻に涙を浮かべながら破顔している。その表情を目の当たりにして、やっと心の底から幸福を嚙みしめることができた。
「良かったね」
満面の笑みを浮かべた恵も祝福の言葉を俺に述べてくれた。
「二つ懸念事項があるんだ」
歓喜の渦に包まれていた俺の心に冷水を浴びせたのは、低い声で発せられた陽菜の言葉だった。
「私が手術を受けるのを長い間渋っていたせいなんだけどね、とても心臓が弱ってしまっているらしいんだ。だから、完全に心臓移植をしないと駄目みたいで、ドナーが見つかるまでの間、人工心臓を埋め込むことになったんだけど、一つ目の懸念点が人工心臓を埋め込む手術をしている最中に死亡してしまう可能性があるんだ。二つ目の懸念点が、ドナーが見つかるまでに長い時間がかかってしまう可能性が高いことなんだ」
先程までの盛り上がりが嘘みたいに病室内に静寂が訪れる。
頭を搔きながら「あはは」と小さく笑った陽菜は、今にも泣き出しそうな顔をしていた。
「この間まで死んでもいいって思ってたのに、今は死ぬのが怖い。ちょっとでも希望が見えたらこれだもん。笑っちゃうよね」
「陽菜……」
「大丈夫。もう太陽なんていらないなんて言わないよ。言わないけど、怖いものは怖い。明日も太陽をちゃんと拝めるのかなって不安はずっと残ってる。眠っちゃったら目覚めないかもしれないって毎晩思っちゃうんだ」
「怖いのなんて当たり前だ。その気持ちは間違ってなんかない。そんな陽菜の恐怖を吹き飛ばすくらいの希望を俺が作ってやる。演奏していた当時の感覚は徐々に取り戻せるようになってきたから、あとは皆と息を合わせる練習をするだけなんだ。待たせてばっかでごめんだけど、もう少しだけ待っててくれ! 近いうちに絶対、陽菜が元気になる演奏を披露してみせるから!」
「うん。期待してる」
演奏していた当時の感覚はだいぶ取り戻しつつあると思っている。宮川さんからは合格をまだもらえていないが、東京から帰宅した際に演奏してみたら、恵に魂の主導権を握らせることなく最初から最後まで一曲弾き切ることができたんだ。
「こみやん。さっそく今日からビデオ通話をしながら、三人でどうしていくか話し合おう!」
「だな!」
俺とシューとテツの三人で、陽菜を元気にさせる曲やパフォーマンスを考えることになった。今日だけでなく明日以降も意見交換をしていく必要があるし、これからは音楽スタジオを借りて練習する機会も増えていくだろう。
「ふふ」
不意に陽菜が小さく笑った。
「なにがおかしいんだ?」
「ごめんごめん。あの頃のはる君たちが帰ってきたんだな~って思ってさ」
「そのままずっと笑っていてくれ。たとえ夜が怖くても一人じゃないんだって思えたら、少しは不安も紛れるだろうからさ」
パイプ椅子から立ち上がり、足元に置いていた鞄を肩に掛ける。
陽菜の朗らかな表情を見れたことを収穫にして帰るとしよう。
「そろそろ帰るとするわ。またな、陽菜」
「またね、ひななん!」
「うん。またね、はる君、しゅう君」
雨露ソラと会って過去を知った俺は、今まで以上にやる気に溢れていた。もう一度バンドを再開する姿を披露したいという気持ちが強くなり、ギターの練習に熱が入るようになった。
皆と息を合わせて演奏するのはまだ時間がかかりそうだけど、着実に解散前の熱気と技術を取り戻しつつあった。
「今のところどうだった? ちゃんと弾けてた?」
「ちょっとテンポが遅かったな。気持ち早めで指を動かしてやってみろ」
ビデオ通話をしながらテツに俺の演奏を見てもらう。ブランクがある俺と違って彼はないし、プロを間近で見ていたのもあって、前よりも見る目が厳しくなった。アドバイスが的確だからありがたいといえばありがたいんだけど、合格ラインに達するまでが一苦労だ。
「頑張れ~」
空中をふわふわと漂う幽霊が、同じ場所で同じミスを繰り返す俺を見ながら、文字通り高みの見物をしていた。他人事だからって楽しそうにしやがって。譜面を見ながら再び手を動かすが、すぐに「遅いぞ!」とスマホの画面越しに注意されてしまう。
「絶賛苦戦中みたいだね」
オレンジジュースが入ったコップを持ったシューが笑いながら俺の部屋に入ってくる。
「少し休憩したら? ずっと根詰めていてもいいことないよ?」
「わかってる。シューの言うことはご尤もなんだけど、もう少しでうまくいきそうなんだよ」
「頑張れ、こみはる」
先程まで聞こえていた恵の声が集中しているうちに聞こえなくなっていった。最初はそれが周囲の声や音に惑わされずに演奏できている状態だと思っていた。
しかし、顔を上げて譜面や弦から目を離しても恵の姿は見当たらなかった。シューとテツがスマホゲームについて話し合っている傍らで、小声で恵の名を呼んでみるが反応がない。
「恵?」
俺が練習している姿を見るのに飽きてどこかに行ってしまったのだろうか? 「トイレに行ってくる」と噓を言って部屋を出ようとすると、恵が背後に立っていた。驚いて思わず大声を出してしまいそうになる。
「いきなり現れるなよ。びっくりするだろ」
「なに言ってるの? わたしずっとここにいたよ? すぐ横にいたのに何回もわたしの名前を呼んでたよね?」
部屋を出て階段を下りながら恵の話に耳を傾けるが、どうしても眉をひそめてしまう。「すぐ横にいた……?」
「ちょっ、こみはる本気で言ってるの? わたしずっと応援してたのに」
恵が噓をついているようには見えない。だとすると、俺の目がおかしくなってしまったと考えるしかない。
「本当に冗談でもなんでもなくわたしが見えなくなっていたんだね?」
「ああ」
「わかった。またそういうことがあったら教えてね」
恵が見えなくなるというハプニングがあったが、それ以外に特筆するようなことは起こらなかった。テツから厳しい指導を受ける日々を繰り返しているうちにあっという間に五月が過ぎ、中間テストを乗り越えることができた。
一学期の中間テストだったからそんなに難しくなかったけど、期末テストはもう少し頑張らないといけないと思わせる結果だった。
シューのおかげで同じクラスの男子たちと話す機会は増えたが、女子からは距離を置かれたままだ。クラスの皆と仲良くするにはもう少し時間がかかりそうだった。
練習の成果を報告しようと一年A組に訪れると、誰とも話さず一人で過ごしている宮川さんの姿があった。新入生代表として壇上でスピーチをしていた人と同一人物とは思えないくらい元気がなく、スマホや教科書を見ずに着席したまま呆然としていた。
宮川さんに話しかけようか迷っていると、彼女と視線が交わった。手を挙げて声をかけようとすると、顔を横に向けて露骨に目を逸らされてしまった。
話したくないという明確な意思表示。対話すら不可能なことにショックを受けて啞然としていると、この間ひそひそ話をしていた女子生徒二人がこちらを怪訝そうな目で見ていた。これ以上ここにいるのはよくないと感じ、自分のクラスに戻ることにした。
廊下を歩きながら『BlessingGirl』のチャンネルを開いてみるが、相変わらず新しい動画はアップされていなかった。これまでは高校生活が始まった影響で動画を撮る暇がないのかと思っていたが、今日の宮川さんの様子を見る限り違いそうだ。連日のように『嘆きの空、果ての声』を歌っていた彼女はどこにいってしまったのだろうか?
恵が急に見えなくなったことや、宮川さんの元気がないことを気にしながらも陽菜のお見舞いは欠かさない。
前向きさを取り戻しつつある陽菜を見ていると、自然とこちらもやる気が出てくる。演奏のことになるとテツがとても厳しくなるのだと伝えると、とても嬉しそうに陽菜が笑っていた。
道路沿いに置かれた電灯に灯りが灯り始め、徐々に空が闇に覆われていく。病院入口の自動扉の前でシューと別れた俺は、空を眺めながら自転車置き場へと歩いていた。
自転車置き場が見える位置まで移動すると、何度か病院で目にした可愛らしい自転車の前に、一人の女の人が立っていた。なにかあったのか、肩を震わせて泣いている。
話しかけるのが憚れる場面ではあるが、彼女にどいてもらわないと自転車を取り出すことができそうにないので、重たい気分を抱えながら声をかけることにした。
「あ、あの~。自転車を取らせて頂きたいのですが~」
俺が話しかけると、長い髪を揺らしながら女の人がこちらに振り返った。その人物の顔を見た瞬間、驚きが全身を駆け巡った。
「み、宮川さん!?」
「あ……小宮さん」
素っ頓狂な声を上げる俺とは裏腹に、聞き取れるかも怪しいくらい細々とした声を発する宮川さんは、目を真っ赤に腫らしていた。相当泣いたのが伺える。
スマホといい自転車といいオレンジのイメージがある宮川さんだけど、私服は白色のロングティーシャツを着ていた。下は紺色のプリーツスカートを履いていて、落ち着いた雰囲気を漂わせていた。
「小宮さんも病院に来ていたんですね」
「あ、ああ。陽菜のお見舞いにな」
「ボーカルさん、ここに入院されていたんですね」
ハンカチで顔を拭いたり、声を震わせながらも平静を装うとしたり、必死に気丈に振る舞おうとする姿に、どう声をかけたら良いのかわからなくなってしまう。そんな宮川さんの姿に恵も心配そうな表情を浮かべている。
「小宮さんはボーカルさんに希望を与えられそうですか?」
「え?」
「初めて会った時に、私に言ったじゃないですか。なかなか手術を受けてくれないから、希望を与えるために歌ってほしいって」
「実はあれから色々あってさ、シューやテツと一緒にもう一度バンド活動を再開することになったんだ。そのおかげもあって、陽菜が少し元気になったんだ」
「それは良かったですね」
そう言って宮川さんが目を伏せてしまい、無言の時間がやってきてしまった。沈黙が辛い。
ずっと前から動画を見て知っている相手とはいえ、まだ知り合ったばかりの関係だ。こんな所で泣いている理由を聞いたとしても素直に答えてはくれないだろう。通常ならば時間をかけて親睦を深めていき、相手が抱えている事情を聞いていくのが筋なんだろう。
でも、このまま引き下がってしまったら宮川さんのことを知ることができないままだし、恵の心残りも解消されないままになってしまう。
「宮川さん。不躾な質問になってしまうかもしれないけど、今宮川さんを悩ませているのは、恵……羽嶋恵のことかな?」
俺の言葉を聞いた途端、宮川さんの目が大きく見開いたかと思うと、俺の両肩を強く掴んできた。
「お姉ちゃんのことを知っているんですか!?」
恵と宮川さんがどの程度親密だったのかを俺は知らない。誰にも気づかれない幽霊の体になっても宮川さんを想う恵がいることと、恵をお姉ちゃんと呼んで慕っている宮川さんがいること。知っていることなんてそれくらいしかなかった。
「わ、私、なにやってるんだろ。ごめんなさい」
「なにかあったの? 俺で良かったら話を聞くよ。仲の良い友達より、ほぼ他人の方が話しやすいことってあるでしょ? 自分で言ってて悲しくなってきたけど」
掴んでいた手を離した宮川さんが、一瞬逡巡したような様子を見せる。
瞳を白黒させていることから、相当堪えているみたいだ。
「宮川さんも知っての通り、見た目で怖がられてる俺は、学校でシューくらいしかまともに話せる相手がいないんだ。だから、宮川さんの秘密が漏れる心配はないから安心してくれ。これも自分で言ってて悲しくなってくるけど」
「ふふ、やっぱり小宮さんは面白い人ですね」
少しだけ笑顔を取り戻した宮川さんの様子に安堵しながら、恵をちらりと見つめると、真剣な表情を浮かべながら頷いてくれた。
「お言葉に甘えてもいいですか?」
「ああ。もちろんだ」
「でしたら、ついてきて欲しい場所があるんです。そこでお話をさせてください」
「わかった」
そしてやってきたのは、俺と恵になにかと縁のある公園だった。

