病院のベッドで目を覚ました時、一番に気にしたのは自分の身体のことじゃなく恵のことだった。自身の頬にガーゼが貼られていることにも気付かずに、心配そうに見つめている母親や陽菜たちに向かって「恵お姉ちゃんは!?」って叫んでいた。
陽菜の青ざめた顔やテツの悔しそうな顔、焦点の合わないシューの瞳を見た時、恵の容態が良くないのだと悟った。誰も口を噤んで詳細を教えようとしてくれなくて、重苦しい雰囲気が漂う病室で「教えてよ!」と叫び続けていた。
痺れを切らしたのは誰だっただろう。母親だったようにも思えるし、テツだったような気もする。重要なのはそこじゃなくて、恵の状態を聞いた俺の精神がもたなかったことだった。あまりにも厳しく直視できない現実に耐えられず、喉から声が枯れるまで泣き叫び続けていた。
終わりが見えない程に長く続いた金切声が消えた時、俺の意識は再び途絶えた。次に目覚めた時、俺の表面上の記憶からは完全に恵のことが消え去っていて、臭い物に蓋をするみたいに記憶の奥深くに追いやられてしまっていた。
恵の思い出を捨てて、頬に治らない傷を負って、同級生たちから距離を置かれるようになった小学五年生の秋季。これからやってくる冬の寒さを誤って前借りしてしまったみたいに俺の毎日は冷え切っていた。
俺が退院したばかりの頃は、恵のことを思い出させようと躍起になっていた陽菜やテツも、やがて諦めて俺の精神を守る方向にシフトした。羽嶋恵はいなかったことになって、彼女の話題を出さなくなっていった。
誰よりも口数が少なかったシューが発言の頻度を増やしていくようになったのもこの頃だ。友達の変化に戸惑い、恐れ、クラスメイトに不信を抱くようになった俺をフォローしようと積極的に前に出るようになった。
ああ、なんで忘れちまっていたんだ。陽菜が前向きな歌を歌ってくれるようになったのも、テツが蓄音機でレコードを聴かせてくれるようになったのも、シューが俺の似顔絵を描いてくれたのも、全部恵の記憶を忘れてから起きた出来事だったんじゃないか。
『ねぇ。体育館の壇上でバンドの演奏を披露したら、少しははる君のことを皆が好きになってくれるかな?』
『かっこいい姿を見せられたら、クラスの奴らの評価も変わるかもな』
『じゃ、じゃあボク、頑張るよ! 頑張ってドラムを叩けるようになる! それが少しでもこみやんの人気回復に繋がるならやるよ!』
『退屈クラッシャーズ』が本格的に始動するようになったのは中学生になってからだったけど、発足するまでに多くの葛藤と練習があったはずだ。陽菜の歌手になる夢を応援するために出来上がったバンドだと俺だけが思い込んでいて、今日まで恵の事件をきれいさっぱり忘れたままでいられたのは、皆の優しさがあったおかげだったんだ。
「こみやん。いつも悲しい思いをさせてごめん。こみやんの人望を取り戻したくて始めたバンドだったのに、オーディションに参加したせいで、もっと酷い目に合わせてしまった。本当にごめん。自分のせいだって責められるのが怖くて、事件のことを言わずにいたのがよくなかったんだよね。もっと早くに伝えてあげていれば、こんなことにはならずにすんだのかな」
「謝るなら俺もだ。オーディションに挑戦してみようって俺が提案しなければ、悠斗に傷を負わせることも、陽菜が生きる希望を見失うこともなかったはずなんだ。だから、すまない」
雨露ソラに鼓舞されて、シューとテツに頭を下げられて、俺は戸惑いを隠せずにいた。未だ頭の整理が追いつかないし、心の整理もままならない。皆への感謝と負い目と自己嫌悪の念に押し潰されそうになりながら、答えを求めるように恵を見た。
一番の被害者に縋るだなんてみっともない行為かもしれない。それなのに恵は、笑っていた。目の錯覚だと、自身の願望が作り出した幻覚だと、そう思わずにいられない程に、恵の表情は柔らかかった。
「君の苦労はもう痛いくらいわかったから。わたしが君の罪を赦します。もう、幸せになっていいから。過去じゃなくて、未来を見なさい」
「恵……」
俺は、いったいどれだけの優しさを受けてここに立っているんだろう。
なんで助けてもらえるんだろうな。いつも自分のことで精一杯で、他人のことを考える余裕なんてない俺を、どうして。
「生きて、生きて、生きて。どんなに辛くても生きてよ。わたしが君に生を望む気持ちは、君が陽菜ちゃんに抱く気持ちと同じだったはずだよ」
ハッとする。ああ、そうだ。あいつからなにかを貰いたくて助けようとしていたんじゃない。ただ、生きていてほしいから頑張ってきたんだろ。
――はる君。
陽菜が俺を呼ぶ声が聞こえた気がした。
俺はただ、あいつのヒーローになりたかった。
今も、昔も、目標は同じ。なにひとつ変わっちゃいない。
なら、俺は。
「ありがとう、皆。心配してくれて助かったよ。もう、大丈夫だから。もう忘れたり逃げたりしないから。続けていくよ、これからも音楽を!」
「ああ、そうだ。それでこそ悠斗だ」
「こみやんは凄いなぁ……すぐに腹を括っちゃうんだもん」
「その言葉が聞けりゃあ、充分だ。よく頑張ったな」
「ありがとう……ございました……」
目頭を熱くさせながら頭を下げる。皆と気持ちが一つになり、部屋の空気が温かくなったのを感じた。ここを訪れた当初は場違いな感覚を覚えていたのに、今はここにいてもいいんだと思えるようになっていた。
河川敷で小石を投げて鬱憤を解消しようとしていた中三の頃の自分が不意に脳裏を過った。あの時、涙で濡れた自分の顔を誰にも見られたくなくて、電車が早く通りすぎてほしいと願っていた。でも今は、その涙を隠すことができない場所にいる。
「ありがとな、恵」
恵にも小声で感謝を伝える。
「ううん。ありがとうを言うのはわたしのほうだよ。記憶を取り戻すだけじゃなくて憂いまで解消できたんだもん。本当にいいこと尽くめだよ。ありがとね」
「憂い……?」
「秘密」
口元に人差し指を立てて笑みを浮かべている彼女は、本当に憑き物が落ちたかのような晴れやかな表情を浮かべていた。
俺は頬に傷痕が残る程度ですんだけど、恵はずっと眠ったままだという。生きているのに死んでいるのと変わらないような植物状態だという話を聞いて、どうしてそんなにも落ち着いていられるんだろう。
記憶が甦って頭痛からも解放された今、苛ませるものはなにもないとでも言うのだろうか。恵のことを思うだけで、先程まで流していた涙とは違う涙が溢れてきてしまう。
「こみはる、また泣いてる~。今日は泣き虫さんだね」
「ばっ、泣いてなんかいねーよ!」
「わたしのことを心配してくれたんだよね。ありがとう。でもね、もういいんだ。五年だよ? そんなにも長い間眠ったままなんだよ? 自分でも助かる見込みがほぼないってことくらいわかってるから」
反論しようと口を開こうとするが、首を横に振られてしまう。
「ごめんね。心配してくれるのは嬉しいけど、わたしを思ってくれるなら、わたしの願いを叶えて欲しい。わたしは心残りなく死にたいの」
「心残りっていうのは、宮川さんのこと……だな?」
「うん。凛ちゃんのことがちょっと気掛かりなんだ。あの子はずっと一人で頑張ってきたから、誰かに頼ることを知らないみたいで、全部自分でどうにかしなくちゃって思っちゃってる節があるの。だからさ、凛ちゃんを一人にしないであげてほしいんだ。できればあの子の支えになってあげてほしいの」
もっと話をしたい。宮川さんのことだけじゃなく、恵自身の話を聞きたい。俺に「生きて」と願った彼女の本心を聞きたかった。
だってそうだろ。なんで自分のことは諦めたような言い草なんだよ。なんで俺に宮川さんを一人にさせないよう願うんだよ。俺はお前にも生きていてほしいのに。
「なら、俺のやるべきことはこれまでと変わらないな」
「え?」
「俺が宮川さんを仲間にしようとしていたのは恵が一番知ってるだろ?」
自分の将来よりも他人を優先してしまうなら、彼女から憂いを全部消してしまえばいい。全部解消して、自分自身に欲が向かうように仕向けてしまおう。
そうすれば、恵の本心が聞けるかもしれない。だから俺は気丈に振る舞う。もう誰にも心配なんてさせないように。
「もー! こみはるのくせにかっこつけすぎ! 『お姉ちゃん、お姉ちゃん』って言って懐いてた昔の可愛いこみはるはどこいっちゃったの!」
「ばっ、思い出すな!」
赤面する顔を隠しながら、恵とこれまでみたいなやりとりができていることに安堵する。
記憶を取り戻しても、俺たちの関係は変わらないのだと思えたから。
ふと、どうでもいいことに気が付いた。
恵が陽菜に似ているんじゃない。陽菜が恵に似たんだって。
陽菜の青ざめた顔やテツの悔しそうな顔、焦点の合わないシューの瞳を見た時、恵の容態が良くないのだと悟った。誰も口を噤んで詳細を教えようとしてくれなくて、重苦しい雰囲気が漂う病室で「教えてよ!」と叫び続けていた。
痺れを切らしたのは誰だっただろう。母親だったようにも思えるし、テツだったような気もする。重要なのはそこじゃなくて、恵の状態を聞いた俺の精神がもたなかったことだった。あまりにも厳しく直視できない現実に耐えられず、喉から声が枯れるまで泣き叫び続けていた。
終わりが見えない程に長く続いた金切声が消えた時、俺の意識は再び途絶えた。次に目覚めた時、俺の表面上の記憶からは完全に恵のことが消え去っていて、臭い物に蓋をするみたいに記憶の奥深くに追いやられてしまっていた。
恵の思い出を捨てて、頬に治らない傷を負って、同級生たちから距離を置かれるようになった小学五年生の秋季。これからやってくる冬の寒さを誤って前借りしてしまったみたいに俺の毎日は冷え切っていた。
俺が退院したばかりの頃は、恵のことを思い出させようと躍起になっていた陽菜やテツも、やがて諦めて俺の精神を守る方向にシフトした。羽嶋恵はいなかったことになって、彼女の話題を出さなくなっていった。
誰よりも口数が少なかったシューが発言の頻度を増やしていくようになったのもこの頃だ。友達の変化に戸惑い、恐れ、クラスメイトに不信を抱くようになった俺をフォローしようと積極的に前に出るようになった。
ああ、なんで忘れちまっていたんだ。陽菜が前向きな歌を歌ってくれるようになったのも、テツが蓄音機でレコードを聴かせてくれるようになったのも、シューが俺の似顔絵を描いてくれたのも、全部恵の記憶を忘れてから起きた出来事だったんじゃないか。
『ねぇ。体育館の壇上でバンドの演奏を披露したら、少しははる君のことを皆が好きになってくれるかな?』
『かっこいい姿を見せられたら、クラスの奴らの評価も変わるかもな』
『じゃ、じゃあボク、頑張るよ! 頑張ってドラムを叩けるようになる! それが少しでもこみやんの人気回復に繋がるならやるよ!』
『退屈クラッシャーズ』が本格的に始動するようになったのは中学生になってからだったけど、発足するまでに多くの葛藤と練習があったはずだ。陽菜の歌手になる夢を応援するために出来上がったバンドだと俺だけが思い込んでいて、今日まで恵の事件をきれいさっぱり忘れたままでいられたのは、皆の優しさがあったおかげだったんだ。
「こみやん。いつも悲しい思いをさせてごめん。こみやんの人望を取り戻したくて始めたバンドだったのに、オーディションに参加したせいで、もっと酷い目に合わせてしまった。本当にごめん。自分のせいだって責められるのが怖くて、事件のことを言わずにいたのがよくなかったんだよね。もっと早くに伝えてあげていれば、こんなことにはならずにすんだのかな」
「謝るなら俺もだ。オーディションに挑戦してみようって俺が提案しなければ、悠斗に傷を負わせることも、陽菜が生きる希望を見失うこともなかったはずなんだ。だから、すまない」
雨露ソラに鼓舞されて、シューとテツに頭を下げられて、俺は戸惑いを隠せずにいた。未だ頭の整理が追いつかないし、心の整理もままならない。皆への感謝と負い目と自己嫌悪の念に押し潰されそうになりながら、答えを求めるように恵を見た。
一番の被害者に縋るだなんてみっともない行為かもしれない。それなのに恵は、笑っていた。目の錯覚だと、自身の願望が作り出した幻覚だと、そう思わずにいられない程に、恵の表情は柔らかかった。
「君の苦労はもう痛いくらいわかったから。わたしが君の罪を赦します。もう、幸せになっていいから。過去じゃなくて、未来を見なさい」
「恵……」
俺は、いったいどれだけの優しさを受けてここに立っているんだろう。
なんで助けてもらえるんだろうな。いつも自分のことで精一杯で、他人のことを考える余裕なんてない俺を、どうして。
「生きて、生きて、生きて。どんなに辛くても生きてよ。わたしが君に生を望む気持ちは、君が陽菜ちゃんに抱く気持ちと同じだったはずだよ」
ハッとする。ああ、そうだ。あいつからなにかを貰いたくて助けようとしていたんじゃない。ただ、生きていてほしいから頑張ってきたんだろ。
――はる君。
陽菜が俺を呼ぶ声が聞こえた気がした。
俺はただ、あいつのヒーローになりたかった。
今も、昔も、目標は同じ。なにひとつ変わっちゃいない。
なら、俺は。
「ありがとう、皆。心配してくれて助かったよ。もう、大丈夫だから。もう忘れたり逃げたりしないから。続けていくよ、これからも音楽を!」
「ああ、そうだ。それでこそ悠斗だ」
「こみやんは凄いなぁ……すぐに腹を括っちゃうんだもん」
「その言葉が聞けりゃあ、充分だ。よく頑張ったな」
「ありがとう……ございました……」
目頭を熱くさせながら頭を下げる。皆と気持ちが一つになり、部屋の空気が温かくなったのを感じた。ここを訪れた当初は場違いな感覚を覚えていたのに、今はここにいてもいいんだと思えるようになっていた。
河川敷で小石を投げて鬱憤を解消しようとしていた中三の頃の自分が不意に脳裏を過った。あの時、涙で濡れた自分の顔を誰にも見られたくなくて、電車が早く通りすぎてほしいと願っていた。でも今は、その涙を隠すことができない場所にいる。
「ありがとな、恵」
恵にも小声で感謝を伝える。
「ううん。ありがとうを言うのはわたしのほうだよ。記憶を取り戻すだけじゃなくて憂いまで解消できたんだもん。本当にいいこと尽くめだよ。ありがとね」
「憂い……?」
「秘密」
口元に人差し指を立てて笑みを浮かべている彼女は、本当に憑き物が落ちたかのような晴れやかな表情を浮かべていた。
俺は頬に傷痕が残る程度ですんだけど、恵はずっと眠ったままだという。生きているのに死んでいるのと変わらないような植物状態だという話を聞いて、どうしてそんなにも落ち着いていられるんだろう。
記憶が甦って頭痛からも解放された今、苛ませるものはなにもないとでも言うのだろうか。恵のことを思うだけで、先程まで流していた涙とは違う涙が溢れてきてしまう。
「こみはる、また泣いてる~。今日は泣き虫さんだね」
「ばっ、泣いてなんかいねーよ!」
「わたしのことを心配してくれたんだよね。ありがとう。でもね、もういいんだ。五年だよ? そんなにも長い間眠ったままなんだよ? 自分でも助かる見込みがほぼないってことくらいわかってるから」
反論しようと口を開こうとするが、首を横に振られてしまう。
「ごめんね。心配してくれるのは嬉しいけど、わたしを思ってくれるなら、わたしの願いを叶えて欲しい。わたしは心残りなく死にたいの」
「心残りっていうのは、宮川さんのこと……だな?」
「うん。凛ちゃんのことがちょっと気掛かりなんだ。あの子はずっと一人で頑張ってきたから、誰かに頼ることを知らないみたいで、全部自分でどうにかしなくちゃって思っちゃってる節があるの。だからさ、凛ちゃんを一人にしないであげてほしいんだ。できればあの子の支えになってあげてほしいの」
もっと話をしたい。宮川さんのことだけじゃなく、恵自身の話を聞きたい。俺に「生きて」と願った彼女の本心を聞きたかった。
だってそうだろ。なんで自分のことは諦めたような言い草なんだよ。なんで俺に宮川さんを一人にさせないよう願うんだよ。俺はお前にも生きていてほしいのに。
「なら、俺のやるべきことはこれまでと変わらないな」
「え?」
「俺が宮川さんを仲間にしようとしていたのは恵が一番知ってるだろ?」
自分の将来よりも他人を優先してしまうなら、彼女から憂いを全部消してしまえばいい。全部解消して、自分自身に欲が向かうように仕向けてしまおう。
そうすれば、恵の本心が聞けるかもしれない。だから俺は気丈に振る舞う。もう誰にも心配なんてさせないように。
「もー! こみはるのくせにかっこつけすぎ! 『お姉ちゃん、お姉ちゃん』って言って懐いてた昔の可愛いこみはるはどこいっちゃったの!」
「ばっ、思い出すな!」
赤面する顔を隠しながら、恵とこれまでみたいなやりとりができていることに安堵する。
記憶を取り戻しても、俺たちの関係は変わらないのだと思えたから。
ふと、どうでもいいことに気が付いた。
恵が陽菜に似ているんじゃない。陽菜が恵に似たんだって。

