オートロックで施錠されたドアの前まで移動すると、テツが慣れた手つきで暗証番号を入力し始めた。「わお~」と感嘆の声を上げている恵を見ているうちに、ウィィンと静かにドアが開いたので、彼の入力が終わったのだと察する。
テツに追従する形でマンションの中に入ると、ホテルのラウンジを想起させるカーペットが床一面に広がっていた。
等間隔に灯るダウンライトを見つめながらエレベーターホールへと移動していく。先程まで聞いていた街の喧騒が噓かのように静閑としていて、まるで図書館や美術館にいるような気持ちにさせられた。
エレベーターに乗ると、ドアの左右に階数が記されたボタンが設置されていて、四十二階まであるのを確認する。テツが三十階のボタンを押したことによって扉が閉まり、上昇を開始した。本当に動いているのか疑いたくなるくらい揺れを感じず、あっという間に目的の階に着いていた。
「姐さん、ただいま戻りました。俺の仲間たちを連れてきましたよ!」
薄暗い廊下を歩いて雨露ソラのいる部屋へ移動すると、テツがドアを開けて中に向かって大声を発した。
「おお、そうかぁ。あと少しで編集がキリのいいところまでいきそうだから、リビングに通しておいてくれ! お菓子食べてていいぞ!」
威勢がいいと言うべきか、漢気に溢れていると言うべきか、そんな声が奥から聞こえてきて、確かに姐さんと呼ぶに相応しそうな人柄だと感じる。「お邪魔しまーす」と言いながら、客用に用意されているらしいスリッパを履いて真っ直ぐ進んでいく。
「今のでわかるだろうけど、なかなか豪快な人なんだ」
「お、おお」
なんと反応したらよいのかわからず、微妙な反応になってしまう。だってしかたがないだろう。俺たちはアイドル系VTuberをやっている中の人に会いにきたのであって、決して近所の不良を束ねるリーダーに会いにきたわけじゃない。ギャップで頭がおかしくなりそうだ。
「すげぇ」
さらに畳み掛けるように俺たちを驚かせたのは、リビングのガラス窓から一望できる東京の街並みだった。どこまでも続く数多の建物とビル群の合間に紛れる川、遠方には薄っすらと鋭い剣のような山が連なっていた。雲一つない晴れ模様で、高層マンションからの眺望は格別だった。
ああ、これが勝者の見る景色か。雨露ソラと俺たちとでは住んでいる世界が違うことを認識させられる。上位に君臨するYouTuberがどうして底辺の俺たちに協力を要請してきたのだろう。真相をこれから聞こうというのに、疑問が膨れ上がってしまう。
「わっ、お菓子がいっぱいあるよ!」
天上からの景色に目を奪われていた俺を現実に引き戻したのは、恵の喜ばし気な声だった。壁掛けテレビの真ん前にあるテーブルの上に置かれていたのは、高層マンションの一室には似合わなそうなお菓子の数々だった。ポッキーやポテトチップスといった誰もが好きそうな食べ物が皿の上に並べられていた。
「俺が言うのもおかしな話だが、緊張せずにリラックスしてくれていい」
「お菓子だけに! 鉄矢君もダジャレなんて言うんだね~」
愉快に反応する恵だが、恐らくテツはダジャレを狙って発したわけではないだろう。現に彼は、手を伸ばしてL字型のソファーに座るよう促している。
「これで緊張するなって言うのは無理があるんじゃないかな」
肩をすくめながら腰を下ろしたシューは、剣吞な空気を発していない。雨露ソラの凄さに驚いた影響で、毒気が抜けたのかもしれない。少しでも気を緩めたら眠ってしまいそうなほど柔らかいソファーの座り心地を味わいながら、家の主が現れるのを待つ。
「まぁ正直、気持ちはわかる。俺も最初はびっくりしたからな」
「これを見てびっくりしないほうがおかしいよ。ボクみたいな庶民では考えられない生活をしているみたいじゃないか。慣れているんだろうけど、よくてっちゃんは普通にしていられるね。ボクはソワソワしてしまって、一刻も早くここからおさらばしたい気分だよ」
「おいおい。つれねぇこと言うじゃねぇーか」
そう言って現れたのは、モコモコのパジャマを着た雨露ソラだった。姐さんなんて呼ばれているからどんな怖い人なのかと思ったら、とても可愛らしい服装をしているじゃないか。ウサギの耳みたいなのがついたフードを被った状態でこちらに近付いてくる。
時折フードの隙間から覗かせる髪には金色の線が引かれていて、メッシュが施されているのがわかった。身長はあまり高くなく、百五十センチ代の陽菜と同じくらいのように見えた。可愛いとかっこいいを反復横跳びするような人だ。
「別にとって食おうってわけじゃないんだ。好きにしてくれていいんだぜ」
雨露ソラと思われる人物は、床に勢いよく座って胡坐をかいた。俺たちの横にまだ空いているスベースはあるのに、どうしてソファーに座らないのだろうか?
「どこうとしなくていいぜ。遥々遠くからやってきたんだ。疲れているだろ?」
立とうとした俺を静止するかのように左の掌を見せた彼女が、にかっと笑って戻るように促してくる。なんとも変な状況だなと思いながら座り直すと、俺の右側にいたテツがおでこを抑えて項垂れていた。そんなテツの様子に疑問を感じていると、今度は勢いよく立ち上がって雨露ソラを見下ろした。
「姐さん! 今日はちゃんとした格好をしておいてくださいって言ったじゃないですか!」
「相変わらずうるせぇー奴だな~。いつもいつもあたしの格好に文句言ってきやがってよー」
「そりゃあ言いますよ! いくら人前に素顔を晒す機会が少ないからって、テキトーな格好で出迎えていい理由にはならないんですよ!」
「ホントのホントに大事な時にはフォーマルな格好をするから安心しろよ。真面目が過ぎるとハゲるぞ」
項垂れながら溜息をつくテツを見て、お労しいというかなんというか、仕事ってどんなものでも大変だよなってしみじみとした気持ちにさせられてしまった。
「噓……」
二人のやりとりに口を挟むタイミングが見当たらないので、どうしようか迷っていると、緊迫した恵の声が耳に入ってきた。恵へ視線を移すと、信じられないものでも見るみたいに驚いた表情で、何度か瞬きをして雨露ソラを見ていた。
「わりぃわりぃ、自己紹介をしてなかったな。鉄矢から聞いてると思うけど、あたしが歌って踊れるアイドル系VTuber雨露ソラだ。よろしくな。バーチャルの世界じゃあ、ちゃん付けで呼ばれてるけど、リアルのあたしはちゃん付けで呼ぶようなキャラでもねーだろ? だから気軽に、ソラって呼び捨てにしてくれていいぜ」
両頬の横で手を振って、「きゃはは」と言いながら笑う姿は、何度かYouTubeで見たことがある雨露ソラの仕草だ。体に染みついている挨拶だからか、演じている感が全くなかった。
そんな自然体の演技に魅了されていた俺たちは、ほんの一瞬、名乗らなければならないことを忘れてしまっていた。
「ぼ、ボクは『退屈クラッシャーズ』の……」
「知ってるよ。柊修平君と小宮悠斗君。だろ?」
ポッキーの棒を袋から取り出して、こちらに先端を向けてきた雨露ソラが、俺たちの名前をスラスラと述べる。
「俺たちのこと知っていたんですね」
「当然じゃん。いくらあたしが非常識人間でも、協力する相手の名前を覚えておくくらいの常識はあるさ。それに、君たちのことはオーディションが行われる前から知ってたからね」
「え?」
静かな部屋の中で、雨露ソラの咀嚼音だけが響く。テツは事前に話を聞かされているのか、表情に変化の兆しは見られないが、俺とシューは露骨に動揺してしまっていた。
「まず初めに誤解してほしくないから言うけどさ、この出会いは鉄矢の我儘があったから実現したんじゃないの。あたしが君たちに会いたいって思ったから実現したんだってことを覚えておいてほしい」
確かに病院でテツと電話した時、俺たちが雨露ソラと会うことを独断で決めたなとは思ったんだ。前々から二人の間でそういった話が出ていたのだとすれば納得がいく。俺が頷いたのを確認した雨露ソラは、そのまま続きを話し始めた。
「あたしが会いたいって思った理由は至極単純。鉄矢から聞いてるよ。小宮悠斗君はその頬の傷を負った時の記憶が抜けてしまっているとね。それにもかかわらず、よく音楽を続けていてくれたね。そのお礼がしたかったんだ」
「お、お礼ですか? 俺たちと面識でもありましたか?」
「いいや、ないよ。あたしが君たちと会うのは今日が初めてだ。安心してくれていい」
会話をしているのに、いっこうに疑問が解消される気配がない。それどころか疑問は増えていく一方だ。どういうことだと訝しむ気持ちばかりが先行して、体が前のめりになってしまう。そんな俺に助け舟を出すかのようにテツが口を開いた。
「姐さん、悠斗が混乱してます。一個一個順を追って話をしましょう」
「いやー、これでも整理して話してんだよ? それにいきなり核心をついた話をしちゃっていいの? 過去のトラウマを刺激しちゃうかもしれないんでしょ?」
「気遣ってくださってありがとうございます。でも俺は、当時のことを受け止める覚悟でここに来ましたので、気にせず話して頂いて構いません」
「おお~、言ったね。じゃあ、遠慮なく話していくよ。あたしが音楽を始めたきっかけから話すつもりだから、ちょいと長いけど覚悟して聞けよな」
そう前置きした雨露ソラは、天井を見上げながら語り始めた。雨露ソラが俺たちと同じ叡山高校に通い、そして、軽音楽部に所属していた時の話まで物語は遡る。
「当時のあたしはな、今と違って陰キャだったんだよ。一人でいることが多いくせにな、センコーや同級生たちがびっくりするようなことをやりたいって思ってるようなくっだらねー奴だったんだ。あー、痛すぎて思い出したくもねぇ」
余程当時のことを思い出したくないのか、心底嫌そうな顔をしていた。
「そんなあたしがどうして軽音楽部に入ったかっていうとな。悩みなんてないみたいな天真爛漫な女、羽嶋恵に誘われたからなんだ」
「はしま……めぐみ……?」
俺は横にいる恵を見ると、眉間にしわを寄せて額を抑えていた。いつもと同じように頭痛に苛まれているようだ。痛みに悶えても構わないのに、必死に耐えようとしている。
「そう。あたしが帰宅部だってことを誰から聞いたのか、『部活に入ってないならさ、わたしたちの軽音楽部に入ってくれない?』なんて言って誘ってきたんだ。笑えるよな。よくもまぁ、こんなひねくれ者を誘おうと思ったぜ。でもお陰で、陰キャが陽キャ共を驚かせるって試みは文化祭で達成できたから、恵には感謝してるけどな」
叡山高校の名前を聞いた恵が真っ先に思い出したのが軽音楽部のことだったし、恵から軽音楽部のことを聞いていた宮川さんが入部しようとしていたし、あいつにとって雨露ソラたちとの思い出は大切なものだったんだろうな。
「あたしが音楽を始めたきっかけはこの辺までにして、本題である小宮悠斗君の話をしようか。さっきも言った通り、あたしは君たちと接点はない。でも、恵は大いに君たちと接点があるし、その影響で間接的に君たちのことをあたしが知ることになった。では、その接点について触れていこうと思う。覚悟はいいね?」
ごくりと唾を飲む。ついに記憶の空白を知る時が来たんだ。
意を決して頷こうとした時、シューが勢いよくテーブルを叩いた。
「やめてくださいっ!」
突然の大声に全員の視線がシューへと集まる。頭を抑えている恵でさえ、彼に視線を送っていた。雨露ソラはシューが叫ぶことを予期していたのか驚いている様子がなく、顔をこちらに向けたまま視線だけシューに向けていた。
「貴方がボクたちとコラボしようと思ったのは、お礼を伝えたいからではないのはわかっています。大切な親友である羽嶋さんを不幸にしたことを直接罵りたいからでしょう? てっちゃんから聞きましたよ? ボクたちが誹謗中傷の嵐に呑まれている最中にコラボの要請をしてきたらしいじゃないですか。SNSで叩くのではなく、直接会って叩こうと思った。それが狙いなんでしょう? 恨む気持ちはわかりますが、記憶を失くしているこみやんを無理矢理思い出させてまで傷口を広げようとするのはやめてくださいっ!」
「修平!」
「てっちゃんは黙っててよ! ボクはなんとしてでもこみやんを守る義務がある!」
怒声と怒声がぶつかり合う。静かなマンションの一室に、一触即発の空気が流れ始める。
そんな中、俺は二人の変化に驚きながらたじろぐことしかできなかった。
「なるほど。柊修平君はそういう考えなのか。君があたしを疑うのも無理はない。あれだけ心無い言葉を浴びせられれば、誰だって疑心暗鬼にもなるさ」
「ボクに酷いことを言われたのに怒らないんですか?」
「怒ってほしいの間違いだろ?」
冷静さを失ったシューと余裕綽々といった様子の雨露ソラの視線がぶつかる。
「どういう意味、ですか?」
「そのまんまの意味だよ。君はあたしの興味の対象を、小宮悠斗君から自分に移そうと躍起になっている。だからわざと神経を逆撫でするような発言をした。違うかい?」
「――っ!?」
「無言になっちゃうところを見るに図星かな。高校生は可愛いね。なにをするにも真っ直ぐだ。誰かを守りたいなら、もう少し自分の気持ちがバレないような工夫をしたほうがいいよ。あたしは意地悪な大人だから、君の挑発には乗ってあげない。残念だったね」
そして雨露ソラは、俺に視線を戻してきた。彼女の瞳には怒りも侮蔑も含まれていない。あるのは凪だ。目は口程に物を言うとはよく言ったものだけど、彼女に限ってはそうではないらしい。いまいち感情が読み取れなかった。
「少し話が逸れるけど、素のあたしとVTuberのあたしを完全に別物にしているのもそういうところが理由だったりする。自分の魂を込めて演じる人もいるけど、あたしは魂を乗せて演じたいとは思わなかった。だって、魂という噓偽りのない本物を否定されてしまったら立ち直れないからね。嘘を演じている自覚があれば心無いコメントが来てもゼロに近いダメージに抑えることができる。自分を守ることができるんだよ」
未だ立ったままのシューは、悔しそうな顔を浮かべて雨露ソラの言葉を聞いている。自分の考えを見透かされてしまったのが原因なのだろうが、世に向けて発信するスタンスの違いを耳にしたことで、プロとの実力や経験の差を如実に感じ取ったからかもしれない。
「その点君たちは、裸に近い状態で臨んでしまったからね。傷つける言葉をぶつけられたら、活動を続けられなくなってしまうのは当然だよ。兜や鎧を装備していればモンスターの攻撃をくらっても致命傷を避けられるけれど、装備がなかったらあっという間に致命傷になってしまうのと同じ原理だ」
「わかりやすいですね」
「だろ? ゲーム実況もよくするからな。RPGで例えてあげたほうがわかりやすいかと思って。と、に、か、く! これ以上続けると本当に脱線してしまうからこの話は終わりにするけど、これからもYouTubeで活動を続けていくつもりなら、君たちも少しは嘘を使うことを覚えなさい」
彼女の言うことは正しかった。ぐうの音も出ない程に正論だった。
本当に雨露ソラはよく見ている。俺は、自分を噓偽りなくさらけ出して活動することが、視聴者に対する誠実な態度だと信じていた。情熱を武器にして立ち向かっていく姿を見せることで、応援してもらえると思っていたんだ。
世間の人たちは、俺たちのホントには興味ない。自身の欲求を満たしてくれるナニカを求めていて、それが噓で塗り固められたものであったとしても構わないのだ。本音をぶつけて好意が返ってくるのは、俺たちの間だけで成立するルールで、世間のルールはそうではないのだ。
「いや~。やっぱ君たち真っ直ぐだわ。真面目と言い換えてもいいかもね。こんな今日会ったばっかでよく知らないお姉さんの言葉を聞いて、そんな風に重く受け止めちゃうんだもん。素直さは美徳だけど、ほどほどにしないとハゲるぜ~」
「姐さんはもう少し素直になったほうがいいかと」
「うるせぇ! ピュアな心はもうどっかに置いてきたから無理だ! この子たちは可愛いけど、お前はまったく可愛くないな!」
テツは雨露ソラと仲良くやれているみたいだな。彼女の年齢が何歳なのかは知らないけど、年の差を感じさせずに冗談が言い合える関係っていうのは、いいもんだな。
「それで今度こそ話を戻すけど、小宮悠斗君。心の準備はできているよね?」
「はい。聞かせてください。シューもいいな?」
「……好きにすればいいよ」
そっぽを向いてしまったシューを見て、確かに嘘をつくのは下手だなと感じた。俺のために怒ってくれているのが丸わかりで、不貞腐れている姿さえも微笑ましい。彼への感謝を胸に、もう一度雨露ソラに向き合う決意を固める。
テツに追従する形でマンションの中に入ると、ホテルのラウンジを想起させるカーペットが床一面に広がっていた。
等間隔に灯るダウンライトを見つめながらエレベーターホールへと移動していく。先程まで聞いていた街の喧騒が噓かのように静閑としていて、まるで図書館や美術館にいるような気持ちにさせられた。
エレベーターに乗ると、ドアの左右に階数が記されたボタンが設置されていて、四十二階まであるのを確認する。テツが三十階のボタンを押したことによって扉が閉まり、上昇を開始した。本当に動いているのか疑いたくなるくらい揺れを感じず、あっという間に目的の階に着いていた。
「姐さん、ただいま戻りました。俺の仲間たちを連れてきましたよ!」
薄暗い廊下を歩いて雨露ソラのいる部屋へ移動すると、テツがドアを開けて中に向かって大声を発した。
「おお、そうかぁ。あと少しで編集がキリのいいところまでいきそうだから、リビングに通しておいてくれ! お菓子食べてていいぞ!」
威勢がいいと言うべきか、漢気に溢れていると言うべきか、そんな声が奥から聞こえてきて、確かに姐さんと呼ぶに相応しそうな人柄だと感じる。「お邪魔しまーす」と言いながら、客用に用意されているらしいスリッパを履いて真っ直ぐ進んでいく。
「今のでわかるだろうけど、なかなか豪快な人なんだ」
「お、おお」
なんと反応したらよいのかわからず、微妙な反応になってしまう。だってしかたがないだろう。俺たちはアイドル系VTuberをやっている中の人に会いにきたのであって、決して近所の不良を束ねるリーダーに会いにきたわけじゃない。ギャップで頭がおかしくなりそうだ。
「すげぇ」
さらに畳み掛けるように俺たちを驚かせたのは、リビングのガラス窓から一望できる東京の街並みだった。どこまでも続く数多の建物とビル群の合間に紛れる川、遠方には薄っすらと鋭い剣のような山が連なっていた。雲一つない晴れ模様で、高層マンションからの眺望は格別だった。
ああ、これが勝者の見る景色か。雨露ソラと俺たちとでは住んでいる世界が違うことを認識させられる。上位に君臨するYouTuberがどうして底辺の俺たちに協力を要請してきたのだろう。真相をこれから聞こうというのに、疑問が膨れ上がってしまう。
「わっ、お菓子がいっぱいあるよ!」
天上からの景色に目を奪われていた俺を現実に引き戻したのは、恵の喜ばし気な声だった。壁掛けテレビの真ん前にあるテーブルの上に置かれていたのは、高層マンションの一室には似合わなそうなお菓子の数々だった。ポッキーやポテトチップスといった誰もが好きそうな食べ物が皿の上に並べられていた。
「俺が言うのもおかしな話だが、緊張せずにリラックスしてくれていい」
「お菓子だけに! 鉄矢君もダジャレなんて言うんだね~」
愉快に反応する恵だが、恐らくテツはダジャレを狙って発したわけではないだろう。現に彼は、手を伸ばしてL字型のソファーに座るよう促している。
「これで緊張するなって言うのは無理があるんじゃないかな」
肩をすくめながら腰を下ろしたシューは、剣吞な空気を発していない。雨露ソラの凄さに驚いた影響で、毒気が抜けたのかもしれない。少しでも気を緩めたら眠ってしまいそうなほど柔らかいソファーの座り心地を味わいながら、家の主が現れるのを待つ。
「まぁ正直、気持ちはわかる。俺も最初はびっくりしたからな」
「これを見てびっくりしないほうがおかしいよ。ボクみたいな庶民では考えられない生活をしているみたいじゃないか。慣れているんだろうけど、よくてっちゃんは普通にしていられるね。ボクはソワソワしてしまって、一刻も早くここからおさらばしたい気分だよ」
「おいおい。つれねぇこと言うじゃねぇーか」
そう言って現れたのは、モコモコのパジャマを着た雨露ソラだった。姐さんなんて呼ばれているからどんな怖い人なのかと思ったら、とても可愛らしい服装をしているじゃないか。ウサギの耳みたいなのがついたフードを被った状態でこちらに近付いてくる。
時折フードの隙間から覗かせる髪には金色の線が引かれていて、メッシュが施されているのがわかった。身長はあまり高くなく、百五十センチ代の陽菜と同じくらいのように見えた。可愛いとかっこいいを反復横跳びするような人だ。
「別にとって食おうってわけじゃないんだ。好きにしてくれていいんだぜ」
雨露ソラと思われる人物は、床に勢いよく座って胡坐をかいた。俺たちの横にまだ空いているスベースはあるのに、どうしてソファーに座らないのだろうか?
「どこうとしなくていいぜ。遥々遠くからやってきたんだ。疲れているだろ?」
立とうとした俺を静止するかのように左の掌を見せた彼女が、にかっと笑って戻るように促してくる。なんとも変な状況だなと思いながら座り直すと、俺の右側にいたテツがおでこを抑えて項垂れていた。そんなテツの様子に疑問を感じていると、今度は勢いよく立ち上がって雨露ソラを見下ろした。
「姐さん! 今日はちゃんとした格好をしておいてくださいって言ったじゃないですか!」
「相変わらずうるせぇー奴だな~。いつもいつもあたしの格好に文句言ってきやがってよー」
「そりゃあ言いますよ! いくら人前に素顔を晒す機会が少ないからって、テキトーな格好で出迎えていい理由にはならないんですよ!」
「ホントのホントに大事な時にはフォーマルな格好をするから安心しろよ。真面目が過ぎるとハゲるぞ」
項垂れながら溜息をつくテツを見て、お労しいというかなんというか、仕事ってどんなものでも大変だよなってしみじみとした気持ちにさせられてしまった。
「噓……」
二人のやりとりに口を挟むタイミングが見当たらないので、どうしようか迷っていると、緊迫した恵の声が耳に入ってきた。恵へ視線を移すと、信じられないものでも見るみたいに驚いた表情で、何度か瞬きをして雨露ソラを見ていた。
「わりぃわりぃ、自己紹介をしてなかったな。鉄矢から聞いてると思うけど、あたしが歌って踊れるアイドル系VTuber雨露ソラだ。よろしくな。バーチャルの世界じゃあ、ちゃん付けで呼ばれてるけど、リアルのあたしはちゃん付けで呼ぶようなキャラでもねーだろ? だから気軽に、ソラって呼び捨てにしてくれていいぜ」
両頬の横で手を振って、「きゃはは」と言いながら笑う姿は、何度かYouTubeで見たことがある雨露ソラの仕草だ。体に染みついている挨拶だからか、演じている感が全くなかった。
そんな自然体の演技に魅了されていた俺たちは、ほんの一瞬、名乗らなければならないことを忘れてしまっていた。
「ぼ、ボクは『退屈クラッシャーズ』の……」
「知ってるよ。柊修平君と小宮悠斗君。だろ?」
ポッキーの棒を袋から取り出して、こちらに先端を向けてきた雨露ソラが、俺たちの名前をスラスラと述べる。
「俺たちのこと知っていたんですね」
「当然じゃん。いくらあたしが非常識人間でも、協力する相手の名前を覚えておくくらいの常識はあるさ。それに、君たちのことはオーディションが行われる前から知ってたからね」
「え?」
静かな部屋の中で、雨露ソラの咀嚼音だけが響く。テツは事前に話を聞かされているのか、表情に変化の兆しは見られないが、俺とシューは露骨に動揺してしまっていた。
「まず初めに誤解してほしくないから言うけどさ、この出会いは鉄矢の我儘があったから実現したんじゃないの。あたしが君たちに会いたいって思ったから実現したんだってことを覚えておいてほしい」
確かに病院でテツと電話した時、俺たちが雨露ソラと会うことを独断で決めたなとは思ったんだ。前々から二人の間でそういった話が出ていたのだとすれば納得がいく。俺が頷いたのを確認した雨露ソラは、そのまま続きを話し始めた。
「あたしが会いたいって思った理由は至極単純。鉄矢から聞いてるよ。小宮悠斗君はその頬の傷を負った時の記憶が抜けてしまっているとね。それにもかかわらず、よく音楽を続けていてくれたね。そのお礼がしたかったんだ」
「お、お礼ですか? 俺たちと面識でもありましたか?」
「いいや、ないよ。あたしが君たちと会うのは今日が初めてだ。安心してくれていい」
会話をしているのに、いっこうに疑問が解消される気配がない。それどころか疑問は増えていく一方だ。どういうことだと訝しむ気持ちばかりが先行して、体が前のめりになってしまう。そんな俺に助け舟を出すかのようにテツが口を開いた。
「姐さん、悠斗が混乱してます。一個一個順を追って話をしましょう」
「いやー、これでも整理して話してんだよ? それにいきなり核心をついた話をしちゃっていいの? 過去のトラウマを刺激しちゃうかもしれないんでしょ?」
「気遣ってくださってありがとうございます。でも俺は、当時のことを受け止める覚悟でここに来ましたので、気にせず話して頂いて構いません」
「おお~、言ったね。じゃあ、遠慮なく話していくよ。あたしが音楽を始めたきっかけから話すつもりだから、ちょいと長いけど覚悟して聞けよな」
そう前置きした雨露ソラは、天井を見上げながら語り始めた。雨露ソラが俺たちと同じ叡山高校に通い、そして、軽音楽部に所属していた時の話まで物語は遡る。
「当時のあたしはな、今と違って陰キャだったんだよ。一人でいることが多いくせにな、センコーや同級生たちがびっくりするようなことをやりたいって思ってるようなくっだらねー奴だったんだ。あー、痛すぎて思い出したくもねぇ」
余程当時のことを思い出したくないのか、心底嫌そうな顔をしていた。
「そんなあたしがどうして軽音楽部に入ったかっていうとな。悩みなんてないみたいな天真爛漫な女、羽嶋恵に誘われたからなんだ」
「はしま……めぐみ……?」
俺は横にいる恵を見ると、眉間にしわを寄せて額を抑えていた。いつもと同じように頭痛に苛まれているようだ。痛みに悶えても構わないのに、必死に耐えようとしている。
「そう。あたしが帰宅部だってことを誰から聞いたのか、『部活に入ってないならさ、わたしたちの軽音楽部に入ってくれない?』なんて言って誘ってきたんだ。笑えるよな。よくもまぁ、こんなひねくれ者を誘おうと思ったぜ。でもお陰で、陰キャが陽キャ共を驚かせるって試みは文化祭で達成できたから、恵には感謝してるけどな」
叡山高校の名前を聞いた恵が真っ先に思い出したのが軽音楽部のことだったし、恵から軽音楽部のことを聞いていた宮川さんが入部しようとしていたし、あいつにとって雨露ソラたちとの思い出は大切なものだったんだろうな。
「あたしが音楽を始めたきっかけはこの辺までにして、本題である小宮悠斗君の話をしようか。さっきも言った通り、あたしは君たちと接点はない。でも、恵は大いに君たちと接点があるし、その影響で間接的に君たちのことをあたしが知ることになった。では、その接点について触れていこうと思う。覚悟はいいね?」
ごくりと唾を飲む。ついに記憶の空白を知る時が来たんだ。
意を決して頷こうとした時、シューが勢いよくテーブルを叩いた。
「やめてくださいっ!」
突然の大声に全員の視線がシューへと集まる。頭を抑えている恵でさえ、彼に視線を送っていた。雨露ソラはシューが叫ぶことを予期していたのか驚いている様子がなく、顔をこちらに向けたまま視線だけシューに向けていた。
「貴方がボクたちとコラボしようと思ったのは、お礼を伝えたいからではないのはわかっています。大切な親友である羽嶋さんを不幸にしたことを直接罵りたいからでしょう? てっちゃんから聞きましたよ? ボクたちが誹謗中傷の嵐に呑まれている最中にコラボの要請をしてきたらしいじゃないですか。SNSで叩くのではなく、直接会って叩こうと思った。それが狙いなんでしょう? 恨む気持ちはわかりますが、記憶を失くしているこみやんを無理矢理思い出させてまで傷口を広げようとするのはやめてくださいっ!」
「修平!」
「てっちゃんは黙っててよ! ボクはなんとしてでもこみやんを守る義務がある!」
怒声と怒声がぶつかり合う。静かなマンションの一室に、一触即発の空気が流れ始める。
そんな中、俺は二人の変化に驚きながらたじろぐことしかできなかった。
「なるほど。柊修平君はそういう考えなのか。君があたしを疑うのも無理はない。あれだけ心無い言葉を浴びせられれば、誰だって疑心暗鬼にもなるさ」
「ボクに酷いことを言われたのに怒らないんですか?」
「怒ってほしいの間違いだろ?」
冷静さを失ったシューと余裕綽々といった様子の雨露ソラの視線がぶつかる。
「どういう意味、ですか?」
「そのまんまの意味だよ。君はあたしの興味の対象を、小宮悠斗君から自分に移そうと躍起になっている。だからわざと神経を逆撫でするような発言をした。違うかい?」
「――っ!?」
「無言になっちゃうところを見るに図星かな。高校生は可愛いね。なにをするにも真っ直ぐだ。誰かを守りたいなら、もう少し自分の気持ちがバレないような工夫をしたほうがいいよ。あたしは意地悪な大人だから、君の挑発には乗ってあげない。残念だったね」
そして雨露ソラは、俺に視線を戻してきた。彼女の瞳には怒りも侮蔑も含まれていない。あるのは凪だ。目は口程に物を言うとはよく言ったものだけど、彼女に限ってはそうではないらしい。いまいち感情が読み取れなかった。
「少し話が逸れるけど、素のあたしとVTuberのあたしを完全に別物にしているのもそういうところが理由だったりする。自分の魂を込めて演じる人もいるけど、あたしは魂を乗せて演じたいとは思わなかった。だって、魂という噓偽りのない本物を否定されてしまったら立ち直れないからね。嘘を演じている自覚があれば心無いコメントが来てもゼロに近いダメージに抑えることができる。自分を守ることができるんだよ」
未だ立ったままのシューは、悔しそうな顔を浮かべて雨露ソラの言葉を聞いている。自分の考えを見透かされてしまったのが原因なのだろうが、世に向けて発信するスタンスの違いを耳にしたことで、プロとの実力や経験の差を如実に感じ取ったからかもしれない。
「その点君たちは、裸に近い状態で臨んでしまったからね。傷つける言葉をぶつけられたら、活動を続けられなくなってしまうのは当然だよ。兜や鎧を装備していればモンスターの攻撃をくらっても致命傷を避けられるけれど、装備がなかったらあっという間に致命傷になってしまうのと同じ原理だ」
「わかりやすいですね」
「だろ? ゲーム実況もよくするからな。RPGで例えてあげたほうがわかりやすいかと思って。と、に、か、く! これ以上続けると本当に脱線してしまうからこの話は終わりにするけど、これからもYouTubeで活動を続けていくつもりなら、君たちも少しは嘘を使うことを覚えなさい」
彼女の言うことは正しかった。ぐうの音も出ない程に正論だった。
本当に雨露ソラはよく見ている。俺は、自分を噓偽りなくさらけ出して活動することが、視聴者に対する誠実な態度だと信じていた。情熱を武器にして立ち向かっていく姿を見せることで、応援してもらえると思っていたんだ。
世間の人たちは、俺たちのホントには興味ない。自身の欲求を満たしてくれるナニカを求めていて、それが噓で塗り固められたものであったとしても構わないのだ。本音をぶつけて好意が返ってくるのは、俺たちの間だけで成立するルールで、世間のルールはそうではないのだ。
「いや~。やっぱ君たち真っ直ぐだわ。真面目と言い換えてもいいかもね。こんな今日会ったばっかでよく知らないお姉さんの言葉を聞いて、そんな風に重く受け止めちゃうんだもん。素直さは美徳だけど、ほどほどにしないとハゲるぜ~」
「姐さんはもう少し素直になったほうがいいかと」
「うるせぇ! ピュアな心はもうどっかに置いてきたから無理だ! この子たちは可愛いけど、お前はまったく可愛くないな!」
テツは雨露ソラと仲良くやれているみたいだな。彼女の年齢が何歳なのかは知らないけど、年の差を感じさせずに冗談が言い合える関係っていうのは、いいもんだな。
「それで今度こそ話を戻すけど、小宮悠斗君。心の準備はできているよね?」
「はい。聞かせてください。シューもいいな?」
「……好きにすればいいよ」
そっぽを向いてしまったシューを見て、確かに嘘をつくのは下手だなと感じた。俺のために怒ってくれているのが丸わかりで、不貞腐れている姿さえも微笑ましい。彼への感謝を胸に、もう一度雨露ソラに向き合う決意を固める。

