決意を固めながら演奏をしたからか、弾き終わった後も感情が昂ぶり続けていた。

「はぁ……はぁ……はぁ……」

 オーディションに挑戦していた時も、確かこんな風に興奮していた。初心どころか『退屈クラッシャーズ』としてうまくいっていた時の気持ちまで味わえるなんて。
 動画を見返すと白目を剥きながらチューニングしている俺が映っていて、恵に憑依されるとこんな風になるのだということがわかった。演奏の途中から瞳に生気が宿っているので、恐らくこのタイミングで魂の主導権を俺に返してくれたのだろう。

「恵。協力してくれたお陰で前向きになれたよ。ありがとな」

 俺にしては珍しく大きな声が出ていた。

「お疲れ様。かっこよかったよ」
「お、おう」
「もしかして褒められて照れてる? 照れるのはまだ早いよ。これからその動画を陽菜ちゃんに見せに行くんでしょ?」
「そ、そうだけどよ。恥ずかしいものは恥ずかしいんだよ。かっこ悪いところ沢山見せてただろ?」

 自分のことみたいに嬉しそうに笑う恵があまりにも綺麗に見えたものだから、ついぶっきらぼうな対応をとってしまった。魂と魂が繋がった影響か、はたまた演奏できた愉悦からか、心に決めた陽菜という相手がいるのにもかかわらず、恵に見惚れてしまいそうになった。

「わたしは幽霊なんだから、かっこ悪いところを見せるのにうってつけの相手でしょ。わたしの前ではどれだけ失敗してもいいんだよ。プリーズ雑魚シーン!」

 そんな俺の戸惑いなど知るはずもない彼女は、両方の手首を曲げてバックオーライのポーズをとっている。そのまま腕を頭上まで挙げれば、車を駐車場や車庫に案内する人になれそうだ。

「かっこ悪いってところを否定してほしかったよ!」
「ちっちっちっ、甘い。甘いよ、こみはる。昨日今日と恥ずかしい思いばかりしている君が、今更なにを隠す必要があるんだい? 本棚にこっそりと入れられた薄いエッチな本の存在のことまで知っているこのわたしに、隠し事なんて通用しないんだよ!」

 公園で話していた時が思い起こされそうなやりとりだ。人差し指だけ立てて左右に揺らす姿までそっくりだ。

「ありもしない事実を捏造すんな! 俺の本棚にエロ本はねぇよ! なに全てお見通しみたいな雰囲気出して語ってんだ!」
「そりゃあお見通しだよ。だって、大好きな陽菜ちゃんにはかっこいいところ見せたいもんね~?」
「くっ! 俺のことをおちょくりやがって。いつか完璧に一人で弾けるようになったら、絶対にかっこいいって言わせてやるからな。覚悟しておけよ」
「うん。待ってる」

 恵の優しい微笑みによって再びドキッとしてしまった俺は、自身の動揺を悟られないように叡山赤十字病院に向かう準備を始めることにした。カップラーメンを腹に入れて食事をすませると、制服から私服に着替えて外に出る準備を万全にする。白色のロングティーシャツの上に薄い黒色のジャケットを羽織り、ネイビー色のスラックスを履けば完璧だ。
 自宅を出る直前にTwitterを覗くとトレンドに雨露ソラの名前が載っていたが、彼女に興味があまりなかったのと、陽菜となにを話すかばかり考えていたせいで、トレンドに載った理由までは確認しなかった。
 再び自転車に跨った俺は、グリップをぎゅっと強く握りしめる。これから陽菜とシューに先程撮影した動画を見せるのだと思うと必要以上に緊張してしまう。心なしか重たく感じるペダルを漕ぎながら進むうちに、眼前に叡山赤十字病院が見えてきた。陽菜が入院するなんてことがなければ、ここら辺にはあまり来なかったであろうと思いながら見慣れてしまったコンビニ、薬局、ケヤキの木などを視界に収めていく。高校がある方面とは違って、病院方面は店や人が多い。車の往来も活発だ。

「ここに陽菜ちゃんがいるんだね」
「ああ。市内で一番大きい病院かな」

 横断歩道で信号待ちをしている間、音響式信号機から出るカッコーという音を聞いていた。

「そうなんだ。大きいのに陽菜ちゃんの病気を治せないんだ」
「あいつが手術の同意書にサインしてくれれば治すことはできるんだろうけどな」

 青信号へと変わったのを確認し、力強く地面を蹴って走り出す。
 陽菜は放っておいてくれと言っていたけど、一人になんてしたくなかった。恵に協力してもらって勇気を奮い立たせることができたからこそ、余計に一人にしたくないと思っている。
 地毛や頬の傷のせいで疎外感を味わってきたから、孤独の辛さは他人よりかは知っているつもりだ。孤独は心を蝕むから、病室に一人で過ごしているあいつの側に少しでも長くいてやりたい。
 病院の自転車置き場には、数台の自転車が置かれていた。そのほとんどがママチャリと呼ばれるようなものばかりだったけど、一つだけ目立つ色の自転車があった。
 サドルとグリップがオレンジ色で、フレームは茶色なのもあってか、なんだか可愛らしい印象を与える自転車だ。その横に銀一色で統一された俺の自転車を置くことにした。
 自転車を置いて歩き出すと、入口近くのベンチにシューが座っているのが見えた。恵も俺と同じタイミングで彼に気が付いたようで「十分前行動ができてるなんて感心感心」と頷いていた。

「よっ」

 チェック柄のシャツを着ているシューの背中に話しかけると、俺の声に反応してこちらに振り返ってくれた。彼に近付いていくと、右手に白色のデジタルペンを持ち、太ももの上にタブレットを乗せていることに気が付いた。どうやら俺が来るまでの間、絵を描いていたようだ。

「相変わらず絵を描くのが好きなんだな」
「うん。描いている間は現実の嫌なことを忘れられるからね」
「ふーん。シューにも嫌なことなんてあるんだな」
「ボクにだって嫌なことの一つや二つくらいあるさ」

 タブレットの画面を見ると、肘掛けや背もたれの部分が紺色の車椅子が描かれていた。まだ画面にはだいぶ余白があるようなので、建物を描く余地もありそうだ。このぶんだと風景画ばかり描いて人物画は疎かなままな気がするな。

「こみやん。病室に行ったら三人で話したいことがあるんだ」
「奇遇だな。俺もだ」

 タブレットの横の部分にペンを付けたシューが、画面を消して立ち上がる。

「そっか。じゃあひななんの元に行こうか」
「だな」

 自動ドアを抜けて受付へと移動し、事務員の女性に面会に来たことを告げた俺たちは、入院病棟へと移動する。エレベーターで陽菜のいる五階に昇ると、廊下がシーンと静まり返っていた。多くの訪問者がいて騒がしかった外来病棟とは違って、ここは患者の家族や知り合いくらいしか来ないからとても静かだ。
 この静けさが俺は嫌いだった。日常から切り離された場所に踏み入っているのだと実感させられるから。床と靴が擦れ、キュッと鳴る音さえ大きく聞こえる。
 ここがもっと気楽に、ふらっと立ち寄れるような場所だったなら良かったのに。そしたらきっと色々な音や声がして賑やかに過ごせたはずだ。

「病院に来ればわたし以外の幽霊に会えるかと思ったけど、意外とそうでもないんだね~」

 キョロキョロと周囲を見渡す恵がいつも通りの声量で話しかけてくるが、特に俺の返答は期待していないみたいで、廊下の壁に飾られたお花畑の絵や待合室に設置された自動販売機の飲み物をチェックしている。誰にも見えないからって自由気ままな奴だな。
 とはいえ、恵の言うことも一理ある。彼女と接点がありそうな宮川さんでさえ見えていないみたいだし、俺が他の幽霊を見ることもない。なぜ俺にだけ恵が見えるのか依然として理由は不明なままだ。答えの出ないことを考えているうちに、あっという間に陽菜のいる個室に着いていた。

「やぁ、ひななん。こみやんと一緒にお見舞いに来たよ」
「今日も来たぜ、陽菜」

 病室の扉を横に開くと、ベッドを起こして座っている陽菜がいた。
 閉じられたままのカーテンを見つめながら陽菜に近付いていくと、スポーツや旅行、ペットなどをテーマにしたいくつもの雑誌が、床頭台の上に無造作に置かれているのを発見した。
 雑誌を読んで時間を潰しているのだろうと思っていたのだが、真横まで移動して間違いに気付く。陽菜は耳に無線のイヤホンを付けてなにかを聴いていた。

「きゃぁぁぁぁ!」

 こちらに気付かないので、陽菜の肩を揺らしてやると、驚きの声を上げながら振り返った。右腕を小刻みに揺らして飛び上がる姿はとても面白かったけど、そんなにびっくりされるとは思わなかった。

「来てたなら言ってよ!」

 なぜか陽菜に左腕をバシバシと叩かれる。

「いきなりなにすんだよ!」
「これは私を驚かせたはる君への罰だよ!」
「ちゃんと声を掛けたんだぞ!」
「心臓が止まるかと思うくらいびっくりしたんだから、これくらいいいでしょ!」
「お前が言うとジョークに聞こえないからやめろ!」

 まったく痛くない攻撃を受けながら、陽菜とのやりとりに懐かしさを覚えていた。最近の陽菜はずっと落ち込んでいたから、どうやって話しかけたらいいのかわからなかったけど、これなら大事なことを話せそうだ。
 イヤホンを耳から外した陽菜は、膝上に置かれていたスマホを手に取ると、画面をタッチして横にあるボタンを押して消灯した。すぐに画面が真っ暗になってしまったので、なにを見ていたのかまではわからなかったが、YouTubeを開いていたことはわかった。

「ひななんも雨露ソラの動画を見てたんだね」

 シューの言葉を受けて、雨露ソラの名前がトレンドに入っていたことを思い出す。

「うん。今回も踊ってる姿が可愛かったね」
「ひななんは見てくれたみたいだから、話が早いね。そのことについて三人で話し合いたいんだ」
「なんでVTuberのことなんか話し合わなくちゃいけないんだ?」

 シューがスマホを操作して、今日アップされたばかりの動画を画面に映し出した。そこには、編み込まれた水色のツインテールを揺らしながら踊っている雨露ソラの姿があった。膝上までしかないフリルスカートを履いて、横にステップしたり回転したり激しく動いている。可愛らしさを前面に押し出すような音楽が流れていることから、相も変わらずアイドル路線を突っ走っているようだ。

「ここの概要欄を見て欲しいんだよね」

 シューが指差した箇所を見ると、ギターやドラムといった楽器を担当した人たちの名前が書かれており、ベースの名前を見た瞬間、思わず彼のスマホを奪っていた。

「て、テツの名前がどうしてここに!」