『香蓮。あなたは世界一可愛い。あなたは絶対、世界に通用するモデルになるわ!』

 くるくると巻いた肩までの髪の小奇麗な身なりをした女性が嬉々としてそう言い放つ。
 次から次へと奇抜な服やフリルがふんだんに使われた服、大人びた物から可愛い物までありとあらゆる衣装を持ってくるその女性は、鏡の前にいる香蓮と呼ばれる少女を着せ替え人形のように扱っている。
 身動きをほとんど取らない彼女に何を着させても「可愛い」「似合っている」とオーバーなほど褒め称え、ひたすらにもてはやしていた。

 何十着と着脱を繰り返されている香蓮の顔は女性が言うように、確かに小顔でパーツが整い、ぱっちりとした瞳をしたまさに「美少女」と言う敬称がよく似合う少女だった。
 女性が褒めると最初こそ香蓮は照れくさそうに笑っていたが、次第にその笑みは消え始める。

 可愛い。似合う。

 もはやこの二つは何をしていても必ず女性の口から出てくるもので、香蓮には聞き飽きた当たり前の言葉。香蓮はいつしか、それ以上の誉め言葉が無いと喜べなくなっていた。そして何より、大きくなるに従って自分で時々は自由に衣服を選びたいのに選べない、細かいところまで管理され尽くした食事よりも、自分が好きな物を好きなだけ食べ友人たちと遊びたいと思ってもそれを許さないこの状況に、次第に不満を抱くようにもなっていた。
 それでも彼女にはそれを言い出す勇気はなく、ただ胸の内に抑え込んでいた。なぜなら、意志を言えば女性は驚くほどヒステリックになりなりふり構わず責められるからだ。

 ――ママがあなたのために自分の時間まで割いて()()()()()()いたのに
 ――あなたのために()()()()()()いるのよ
 ――あなたのために……
 ――あなたのため……

 その言葉がどれだけ子供を追い込んでいるか気付けていない発言を繰り出し、子供に罪悪感を持たせ反論させなくする典型的な毒親だった。
 黙り込んで反論してこなくなった子供の様子に、女性はまるで何かに憑りつかれたように、全て自分の意のままに出来ることに陶酔し話を勝手に進めて来る。

『香蓮。今日はあなたのモデルオーディションの日よ。大丈夫、何も心配いらないわ。だってあなたは最高に可愛いんだもの! スタイルだってこの中の誰にも負けてない。自信もっていいんだから、ね?』

 たいしてそんな事を考えているわけでもないのに、表情の硬い香蓮が不安がっていると思い込んでいた女性は一方的に香蓮を励まし、世話を焼き過ぎるほどにあれこれ手をかけて来る。
 
 香蓮がやりたいことを最大限にサポートしてあげられるのは親である私の務め。
 香蓮が一番に輝ける場所に立たせてあげるようにするのは親として当たり前。
 香蓮がケガをしないように、痛い思いをさせないようにするのは当然。
 香蓮が困らないようにしてあげなければ……。

 子供に対する親心。だが、彼女の行き過ぎたその親心は子供の性格を歪めてしまっていることに気付いてはいない。今までしてきた事は良かれと思っていた事だとしても、実際は完全な自己満足だと自覚する日は来るのかどうかさえも分からない。

『あたしは可愛いんだから、何をしても許されるの。オーディション? そんなもの私が総取りにするに決まってるでしょ? 平凡以下のあなた達が合格すると本気で思ってるの? バッカじゃない』

 親に対しての不満を抱えながら成長した香蓮は、当然のことながら痛みの分かる人間に育つ訳もなく、ただ我侭に周りの人間が嫌悪感を露わにするほど傍若無人になっていた。だが、実際にどのオーディションに行っても彼女が必ず合格したことで、その傲慢な性格に拍車をかけて行く。

 なぜ彼女のような他人を下に見るような人間が合格し、仕事を次々と決めてしまうのかと、誰もが裏で囁いていた。

 彼女は上手に自分を使い分けている。審査員や目上の人に対する大人たちには大人しく、控えめで謙虚な自分を演じ、その裏では傲慢で我儘放題、自分以外は必ず悪い所ばかりを見つけ出して愚弄し、上げ足を取って追い詰める。そんな事に喜びを見出す性悪さが露呈されていた。

『あたしが貰えない仕事なんかこの世に一つもないのよ。だってあたしは誰もが認めるトップクラスの美少女だもの!』

 見下すような笑みを浮かべて薄ら笑いさえ浮かべる香蓮の口癖だった。

 その香蓮が、ある日青山の大通りで車に跳ねられて亡くなった。齢13歳の夏の頃だ。
 南青山にあるモデル事務所から表参道に向かうまでの間にある246号線でその悲劇は起きた。渋谷方面から宮益坂を無謀な運転をして駆け上り、車の間を縫うように爆走してくる一台の白いワゴン車。
 横断しようとする人々のほとんどがいち早く気付き歩道へ戻る中、すでに横断歩道の半分ほどまで歩いていた香蓮と彼女の周りにいた何十人、そしてその他の信号を待っていた人や通行中の人など沢山の人を巻き込み、車は近くの店先に衝突し止まった。
 暴走者の持ち主は酒と一緒に薬物を使用した若者で、頭が錯乱した状態のまま渋谷から多くの人達を車で跳ねて来た犯人だと言うのは、後に分かった事だ。
 店先に車ごと頭から突っ込んだ事でこの若者は即死状態だった。

 この事故は、号外が出るほどの騒ぎになっていた。その反面、香蓮が亡くなった情報も新聞やニュースに大きく取り上げられはしたものの、すぐに何事もなかったかのように囁かれなくなってしまう。彼女の無念よりも、事故を起こした男性に人々の強い関心が寄せられたためだ。

 何も分からない内に跳ねられて死んでしまった無念。
 自分の中に抑え込まれた不満、忘れ去られていく事の恐怖と苛立ち。それらが全て香蓮の中で爆発したのは言うまでもなかった。

――どうしてよ……どうしてあたしのこと、そんな簡単に忘れちゃうのよ。だってあたしは世界一の美少女で、誰にも負けないモデルなのよ? みんなあたしの事認めてくれてたじゃない。凄いって言ってくれてたじゃない。なのに何でこんな早く記憶から消せるのよ!


                  
                 ******


 雨が降っていた。
 顔に絶え間なく当たり続ける雨に目を覚ましたひなは、虚ろな目で瞬きを繰り返す。視界の先には、小さい頃に遊んだ記憶のあるブランコとジャングルジム、そして運ていの遊具が見えた。
 ゆっくりと体を起こすと、体の半分は泥にまみれ全身雨でぐっしょりと濡れていた。泥と雨で汚れ切った髪がべたりと肌に触れ、何気なくそちらに目を向けた時、ひなは自分の体の異変に気が付いた。

「な……に……?」

 ゆっくりと持ち上げられた手はつい先ほどとは打って変わり、かつてのような子供らしく丸さを帯びたものではない。手足もすらりと長く、違和感しか感じられなかった。ひなは自分の顔にぺたりと触れてみるが、ここに鏡は無い。辺りを良く見回してみると、この公園は本当に小さい頃時々遊びに来た事がある場所だと気付いて立ち上がった。

 ひなは不安に包まれていた。ドクドクと早鐘のように鳴る胸が痛い。
 本当にここは、現世なのだろうか。そして、見覚えのあるここは本当に自分が住んでいた家のすぐ近くにあるあの公園なのか……。

 公園の出口から一歩出ると、ひなは目を見張った。
 この場所から車通りを渡った斜向かいにひなが暮らして来た家がある。しかもそのままの姿で。

「本当に、現世に……戻ってきちゃったの……?」

 ひなはただ愕然とするしかなかった。
 ヤタが買って来てくれた着物はすっかり汚れ雨水を吸ってずっしりと重たくなっているが、ひなはフラフラしながら家の前まで歩いて来た。

 家は誰も住んでいないようだった。当然と言えば当然である。この家の持ち主である祖父母はひなを置いて家を出て行ってしまったのだから。
 綺麗に刈り揃えられていた庭の草は乱雑に生えすっかり荒れている。家の玄関に入るまでの門は錆び付いて、朝顔の蔓が絡み付いていた。

「嘘……噓でしょ……」

 ひなはその場に膝をつく。
 あんなに戻りたくなかった現世に戻ってきてしまった。しかも、まだ数時間ほどしか経っていないと思っていた時間が、現世では年単位で過ぎ去っている。そのせいだろうか。鳥居をくぐった時点で現世の時間に引っ張られる形で自分の身体が急速に大きくなったのは。

「ど、どうしたの? 大丈夫?」

 ふいに背後から声を掛けられ、緩慢な動きでそちらを振り返ると若い夫婦が傘を差して立っていた。見たことのない夫婦だが、買い物を終えてひなが住んでいた家の二つ隣の家に戻ろうとしている所だった。

「とにかくうちに上がって?」

 女性が慌ててそう言うと、後ろに立っていた男性が女性の腕を引いてそれを制止する。そしてひなに聞こえないように小声で女性に話しかけているが、その言葉は全て筒抜けだ。

「お、おい、やめておけよ……」
「でも、このまま放っておけないじゃない」
「……こんな雨の中着物着て立ってるなんて……幽霊かもしれないだろ?」
「何バカな事言ってるの。そんなわけないでしょ!」

 通常ならありえない事態に青ざめている男性とは違い、女性は手に持っていた買い物袋を夫に押し付けるように手渡すと、ひなの傍に駆け寄り家に入るよう勧めてくる。

「さ、風邪ひくわ。早く入って」

 ひなは上手く働かない頭のまま、彼女に言われるままに家に上がらせてもらおうとすると、男性の近くを通り過ぎようとしてボソリと呟く声を聞いてしまった。

「気色悪い……」

 その一言にひなはハッと目を見開き、そしてすぐに眉根を寄せて目を伏せ唇を噛んだ。
 自分に向けられて発せられる攻撃的な言葉をもう聞くことはないだろうと思っていたのに、また聞く羽目になるなんて……。だから、現世には戻りたくなかった。
 固く拳を握り締めて溢れ出そうになる涙を懸命に堪えていると、女性はひなを浴室へと案内する。

「とりあえずその着物脱いで。あとこれ、タオル。着替えは私ので悪いけど後で持ってくるから使ってくれていいわ。あ、床が汚れたりしたのは気にしないでいいからね?」

 女性はよほど世話焼きなのだろう。ひなが何も言わずとも風呂場の蛇口を捻ってタオルを置いて行った。ひなは、脱衣所から出て行った女性の後ろを追うようにぼんやりと扉を見つめるしかなかった。