チャンスだ! とときめいた。
しまった! と後悔した。
水と油みたいなその二つの感情は、美和の中でまったく同時に、同量で膨れ上がり、同じ力で左右からぶら下がった。おかげで美和はその場から一歩も動けず、目の前を通り過ぎていく淡路先生を、つりあったヤジロベエみたいにゆらゆらしながら見送ることしかできなかった。
終電間際のターミナル駅のコンコースはごった返している。淡路先生の姿がホームに上がる階段へ消え、ようやく呪縛がとける。けれど心はどっちつかずのまま、どちらに傾くこともなく、美和はうろうろ迷っている。
うれしい、けど。チャンスなのかもしれない、けど。でも、今の私って、たぶん……。
夢遊病のごとく踏み出した足は、自分の利用するホームへ向かわずに、淡路先生の後を追って階段を上がっている。ちょっと姿を見るだけ、そう自分に言い聞かせながら。今日はもう会えないと思っていたから、これはちょっとしたサプライズじゃないかと。
ドキドキしながらホームに出ると、意外に人はまばらで、前の方にぽつんと淡路先生が立っている。彼が見つめる暗がりに、電車の赤い光がゆっくり遠ざかり、カーブを曲がって消えた。追いかけるようにレールの響きが小さくなっていく。
「あちゃー、最終いってもうた……」
呟きが聞こえ、振り返る様子に、思わず美和は階段を囲む壁の外側に身を屈めた。
ちょうど、線路を挟んで向かいのホームに電車が滑り込んでくる。美和が通勤に使っている路線の最終だ。ドアが開き、続々と客が乗り込みはじめる。あと5分くらいは停まっているはずだ。
こっそりと壁の端から窺うと、淡路先生はスマホと頭上の電光掲示板を見比べている。掲示板に次の電車の表示はなく、彼の乗る路線は終わってしまったようだ。
と、いうことは。
――そうだ、私も乗り過ごしちゃえば……!
その稲妻みたいな思い付きは、さっきコンコースで淡路先生を見かけたときに抱いた期待とまるで違う完成度で、一気に美和の内面を整えてしまう。――偶然を装って声をかけちゃえば。あとは流れでどうにかこうにか、じゃない?
意気揚々と身を乗り出そうとするのを、しかしすかさず、もう一人の美和が片手にしがみついて引き留める。――記憶力ミジンコか、私? さっき、声をかけられなかった理由を簡潔に述べなさい、述べられるでしょう。二十字以内で。
そうでした。だから後悔したんだった。
美和はまたヤジロベエに逆戻りである。ぶーらぶら。
「ま、しゃーないな」
淡路先生の声がすぐ近くで聞こえた。追いかぶさるように、美和の終電の出発が近いことを告げるアナウンスが流れ出す。乗るのなら一度地下に下りてまた階段を上らなくてはならないから、もう猶予はない。
Q:選択できずに迷ったらどうする?
A:目をつむってサイコロを振ります。
これまでの人生、たいていの悩みはそうやって切り抜けてきた美和である。かくして今回も、決断することなく腹をくくる。えい、もう、見つかってしまえ! ということだ。あとは流れで、どうにかこうにか!
「あ、あの、先生!」
思い切って立ち上がった美和の声に、「よっしゃ!」という淡路先生の掛け声がかぶった。そうして淡路先生は、階段脇に突っ立った美和にまるで気づくこともなく、階段に身を躍らせると、軽快な足取りで地下通路へ下りていってしまったのである。
「え? ちょっと、待って!」
あわてて美和も後を追う。階段を下りて見回すと、すでに淡路先生の姿はコンコースのはるか向こうに遠ざかっている。終電で殺気立った人たちをよけながら、美和は必死で追いかけた。数秒前の彼の足取りをぴったりトレースして、右に折れ左に曲がり、そして改札を抜けて――。
改札?
ぎょっとして美和は振り返る。通り抜けたばかりの自動改札の後ろに下がる電光掲示板の画面が、ちょうど切り替わるところだった。「本日の運転は終了しました」と表示されたのはまさに、美和の乗るはずだった路線である。
「あっ」
情けない声が喉奥から飛び出し、かすかに残っていた酔いは完全に吹っ飛んだ。
春の終わりの、とろんと角の取れた夜気の底を、淡路先生は大きなストライドでずんずん歩いていく。勝手知ったる様子で、選ぶ道に迷いがない。
美和はとにかくその姿を見失わないよう、ほとんど小走りでついていく。駅を離れてすぐは、まるで尾行だなと思ったけれど、そんな生易しいものじゃないことにすぐ気づいた。
――詰む! これ、先生を見失ったら!
淡路先生は歩いて帰宅しようとしているのだろうが、もちろん美和の家がある方向ではないし、そもそも数駅離れている。つまり淡路先生とはぐれてしまえば、美和はまったく土地勘のない場所に取り残されてしまうのだ。
軽く息も上がってきて、時刻を見れば日付をまたいでいる。いろいろと馬鹿らしくなり、もう呼び止めちゃおうかな、声かけちゃえばいいじゃん、そう何度か思いながら、現状ほぼストーカーと化している負い目がある。駅の近くならともかく、だいぶ離れてしまってから『いやあ、電車なくなっちゃって』と現れる同僚を、怪しまずにいられるだろうか? 美和なら怪しむ。
それに……。
美和は首筋に浮いた汗をぬぐった。インナーが厚手だったせいで、背中も汗で貼りついているのがわかる。
その晩は美和の勤務する高校の、新任の歓迎会だった。去年まで新人だった美和だが、特に率先して気を配る必要もないくらい、新人は遠慮せずベテランも機嫌よく、会は盛り上がって、一次会だけで遅い時間になった。
淡路先生が不参加なのははじめからわかっていた。彼が基本飲みの席に参加しないことと、駅で見かけた美和が声をかけるのをためらった理由は、同じである。
淡路先生は、嗅覚の過敏症なのだ。
特定の、あるいは生活全般での匂いを通常より強く感じる状態で、原因もさまざまなら、程度や苦手な匂いの種類も人それぞれらしいが、美和もネットで調べた程度の知識しか持っていない。
淡路先生の場合、日常生活に不便をきたす程ではないらしく、他の教師や生徒と一緒に昼食をとったりも普通にしている。
『おまえら、くさいねんて』
男子生徒とそんな感じで笑いあったりもしているが、必要ならマスクもつけるし、体質のことはまったくオープンにしている。
『僕みたいな人もおるんやって、生徒に知ってもらうのもいいと思ってます』
職員会議で、そういう発言もしていた。
周囲に配慮を求めたりせず、自分がそうだと表明するだけだが、知ってからは美和も、ひそかに気を付けるようにしている。香水や制汗スプレーのたぐいは極力使わない。匂いの強い食べ物は週末。
けれど今日は祭日の前であり、そして歓迎会に淡路先生は来ない。美和が帰るとき、彼がまだ学校に残っていたのは知っているが、今日はもう会わないんだと高をくくっていた。だから香水も少しつけたし、アルコールもたっぷり、油ものもたっぷり腹に収めてしまった。
今なら汗くささのおまけももれなくついてきます。きっと、今の美和が近くに寄れば、淡路先生には耐え難い匂いの爆弾のように感じられるのではなかろうか。
少し大きな通りに出た。信号で立ち止まった淡路先生の背中を、美和は少し離れてじっと見つめていた。
髪をかきあげる仕草。その下の、よく見慣れた皮肉っぽい笑みと、人懐っこい口元を、記憶から引っ張り出してみる。
――今、見たいな。
思いがけなく出会えて、うれしかったのに。少し湿っぽい思いを、ふうっと息にして美和は吐き出した。スマホのマップで現在地を確かめる。通りがかるかわからないけど、この通りでタクシーを拾って、もう帰ろう。不意に美和はそう決心した。
信号が青になり、渡っていく淡路先生につられて渡りかけ、美和は横断歩道の中ほどで我に返る。いや帰るんだった。帰ろう。
遠ざかる背中から未練を断ち切り、踵を返す。いきなり、車のクラクションが片頬を引っぱたいた。
猛烈な勢いで右折してきたワゴン車が、美和の鼻先をかすめ、いったんスピードを落としてから急加速して走り去る。腰砕けになった美和は、白線の上に尻もちをついた。
「危なっ! けしからん運転やなあ」
足音が駆け寄ってくる。
「大丈夫ですか? ――あれ、島田センセ?」
美和は身をよじって振り向いた。前かがみになった淡路先生の、珍しく焦ったような顔の上で、信号の明かりが点滅をはじめている。
先生マスクしてください、と開口一番美和は頼み込んだものである。
『今日私、お酒飲んできたんで』
知っとるよー歓迎会やったでしょ? おいしい店やった? 新人打ち解けてた? 教頭がしょーもない長話せえへんかった?
細い肩を楽しげに揺らす淡路先生の斜め後ろに離れて、美和はついていく。さきほどより、ずっとゆっくりした足取りで。
電車なくなって、駅からずっと後をつけてましたごめんなさい、と美和が正直に言うと、『はよ声かけてくれりゃよかったのに』と淡路先生はあきれ顔をした。
『私、今、相当くさいって思ったから』
そうっとう、と美和が力を込めると『んー?』と淡路先生は目を細める。そんなことあらへんで、を引き出せるかなあという、美和の高等でもないテクニックである。
『くさいかな? ふふ、どうやろなあ』
しかし淡路先生は赤い舌を覗かせただけで、おかげで美和は彼との物理的距離を決めきれずにいる。
「淡路先生、どうして今日は遅く?」
結局マスクをしていない淡路先生が軽く手を広げる。彼は美和より五つばかり年上だ。長身というほどではないが痩せてすらりとして、しなやかな背筋に茶色がかった後ろ髪を垂らして、全般狐みたいにシャープな印象の男性だが、目だけ兎みたいにくりっとして、愛嬌がある。
「授業の資料作ってたら、新しい部活作りたいーいうて申請書持ってきた生徒がおってな。長文のお気持ち表明みたいなんがついてたから読み込んでたんやけど、まーその字が汚うてなあ」
一人しかおらんから部としては認められんけど、おもろいヤツやで。――淡路先生はテストの採点でもするように、伸ばした指をくるっと回す。特定の部の顧問ではないけれど、それぞれの部活や委員会、そして生徒会と、淡路先生はやたら目を配り、暇さえあれば顔を出して話を聞いたりしている。
『生徒が自分らの裁量でなんとかしよーってしてるとこは、大事にしてやりたいやん』
一年目の新人のころに、美和はそんな話をされたことがあった。
「おー、夜の匂いや」
急に道が開けた。
浅く谷間になった地形に、みっちり階段状に家々が並び、下から弱い風が吹きあがってくる。
顎を上げて手をかざし、淡路先生は大きく息を吸い込む。美和には感じ取れないが、夜にだけ香る花とか、そういうのがあるのかもしれない。昼間は匂いが忙しないから、夜にはストレスが減るとか、そういう意味かもしれない。
「いい匂いがするってことですか?」
ところが美和がそう訊くと「せやなあ……」と淡路先生は苦笑してかぶりを振った。
「夕方なら煮炊きの匂い。これは、お腹がすくようなええ匂いもあるけど、そうでないこともあるな。それから、夜に妙に強く感じるのは、車のタイヤが地面にこすれる、ゴムっぽいやつ。それにエアコンの室外機から出てくる、なんともいえん人臭さ。あと猫のおしっこ、こいつも夜は気になるなあ」
「はあ」
「それに、お風呂の排水。あれに混じるシャンプーとかボディーソープな、あれちょっと苦手やねん」
ちょうど、近くのマンホールから勢いよく水の流れる音が聞こえてきた。
「大変ですね」
美和は不用意にそんなことを言ってしまう。淡路先生は街灯を見上げて首を傾げた。
「んー? でもな、なんか夜に感じる匂いは、生き生きしとんねん。いいのも悪いのんも、煙みたいにゆらっとしててな」
「そうなんですか」
「それに大変なのは、今晩の島田センセやろ」
淡路先生はニンマリ口角を上げた。
「僕んち、あともう少しやから、泊めてあげよっか?」
「はあ……え?」
ぼうっと受け答えしていた意識が、急に裏返る。小さな水路にかかる橋の上で、淡路先生は美和に向けた手の指を開いたり閉じたりしてみせた。
「あ、や、私、その、そんなつもりは」
「センセ、茹蛸やで。耳まで赤くなってへんか。夜なのが残念」
「赤ら顔は家系です!」
動揺しつつも懐かしくなる。新人だった去年、緊張しいだった美和は、指導役だった淡路先生によくからかわれ、こんな感じのやりとりを繰り広げたものだった。
くつくつと喉を鳴らし、淡路先生は歩き出す。
「まあ心配せんでも、そのうちタクシー拾えるやろ。僕アプリ入れてへんけどな。なんなら、僕の車で送ってあげようか。明日っていうかもう今日やけど、休みやし」
「え、それはさすがに悪いです」
「せやけど、まずはちょっと腹ごしらえさせて欲しいねん。僕夕方から何にもお腹に入れてへんのよ」
そう話した淡路先生の前に、魔法のようにその店は現れた。
いささか古めかしい瓦屋根の平屋を、色付きのガラス障子が囲い、あたたかな光が漏れている。店らしいものは、瓢箪の絵が入った立て看板だけだ。ガラス戸を引いて入った淡路先生が、カウンターの隣に招くので、席ひとつあけて美和は座った。
「あの……ほんとに私、くさくないですか?」
「どうやろなあ」
深夜一時を過ぎているが、店の中にはちらほら客の姿がある。
冷やし中華専門店やねん、と紹介した淡路先生に、カウンターの奥にいた寡黙そうな主人が微笑んで眼鏡を持ち上げる。
「そういうわけではないです」
「ちゃうらしいで」
馴染んだ雰囲気からして、行きつけらしい。
食べてきているなら、と美和の勧められた味噌田楽は、冷たいこんにゃくがデザートみたいで、みずみずしく喉をすべる。
淡路先生はステンドグラス風のお洒落な皿に盛られた冷やし中華をもりもり口に運んでいた。
「冷たい料理って、ちょっと鼻がウルサイときでも食べやすいねん」
けれどメニューを見るに、冷製料理の店というわけではないようで、酒を飲んでいる客もいる。ただ、店内BGMもなく、とても静かだった。
「担任持ってひと月過ぎたけど、どう?」
すりガラスのコップで麦茶を飲み干し、淡路先生が美和の手元を見やる。
「やっとそれ、聞いてくれましたね。新年度になって、何も言ってくださらないから」
少し甘えたような口調になってしまう。
「だって島田センセ、最初っからたいして僕が指導することなんてなかったからなあ」
「そんなことないですよ」
去年一年、美和は淡路先生のクラスの副担任として、それこそ鳥の雛みたいにくっついて回った。
覚えることばかりで、目の回るような日々でした。人に聞かれれば、美和はだいたいそう答える。
嘘ではない。けれどそこにはうしろめたさもある。
美和は、出会って早々に淡路先生のことを好きになっていた。だから怱忙の日々は、個人的な喜びにも満ちたものでもあったのだ。
ほとんど初対面のあたりで、好きになりそう、と予感していた。淡路先生の物腰に、雰囲気に、かつて誰かを好きになったときのパターンに重なるものを感じた。
淡路先生には哀愁があった。顔が好きでも優しくても、それだけでは美和はなかなか恋にはいたらない。
哀愁といっても、淡路先生はくたびれているわけでも、憂いに満ちた顔を見せるわけでもない。彼の体質のこともまだ知る前だ。
彼が立ち去る間際、言い終えた言葉が耳に残る間、こちらへ向けていた目をそらす瞬間。そういったときに、美和は釣り餌に誘われる水面下の魚影のように、のそりと動く心を自覚するのだ。体を内側からくすぐられるような、抗いがたい喜び。
「そろそろ行こか。もう二時や」
そう言って椅子を立った淡路先生の、薄手のジャケットの背中に、今も美和はむしゃぶりつきたいような衝動をおぼえている。言うなれば、彼の一挙一動に、美和を誘因する香りがたなびいているようなものだ。
Q:そんな状態で一年、一緒に仕事するのは大変でしたね?
A:よく我慢してたと思います。
自問自答をしていたら、思わず口に出ていた。
「ちょっと寂しいです。先生がいないと」
意外そうに振り向いた淡路先生に、いやあの、一人で担任ってやっぱ不安だったりして、としどろもどろに美和は付け加えた。
淡路先生は何も答えず店を出ると、美和に肩を並べて歩き出す。住宅街の道は曲がりながら下り、少し風が出始めていた。
真夜中だというのにけっこう人が出歩いている。間近にすれ違うたび、老若男女、人は一人ずつ違った匂いを曳いているものだと、今さらのように美和は知る。いやな匂いとは限らなくても、無臭であることはないのだ。
「そうそう。ここらへん、けっこうウチの生徒住んでんで」
センセのクラスの子ぉらも、たまに会うなあ。誰やったっけ……と、淡路先生は指を折る。
「え、じゃあこういうの見られたらマズいんじゃ」
「男女の教師がそろって午前さまや。休み明けに、職員会議やな」
夜空を仰いで淡路先生は笑う。
「他人のふりしなきゃ……」
などとおどけて、美和がぴょんと飛び跳ねて離れると、急に爆音高くバイクが来る。淡路先生は美和の袖をつかまえて引き寄せた。道の端に並んで立って、二人はしばし走り去るテールランプに、生焼けのガソリンの芳香を吸い込んでいた。
「僕あそこに住んでる」
結局車を拾えないままに、いきなり道の向こうのマンションを指さされて、しばしの沈黙。
「やっぱり、生徒に見られたりしたら、まずいですもんね!」
だんまりに耐えきれず、美和はそんな先回りをしてしまい、居たたまれなくなって、
「ちょっと酔い覚ましに」
と、とうにシラフなのに目の前の公園に逃げ込んだ。淡路先生も黙ってついてきて、ベンチに座った美和のすぐ近く、ブランコを囲む柵によりかかる。
寄ってく? なんて、さっき言われたけど……。
冗談ぽかったよなあ。でもここまで着いてきちゃったし。美和はぐるぐる思考をルーレットさせ、思いついたところで止めた。
「そういえば先生、私この前、クラスの男子生徒に告白されまして……」
「うっそマジ? 一年でしょ? 入ってひと月で担任教師に告白かいな、マセガキやん!」
身を乗り出した淡路先生はケタケタ笑い、大いに受けている。かなりふざけた感じの告白だったのだが、美和はそこは伏せておくことにした。
「そんでそれ、どうしたん?」
パイプでできた地球儀と言った趣の、グローブジャングルにもたれ、背中で軽く回す淡路先生は興味津々だ。
「『アホ! まずはちゃんと勉強しいや!』って。このまんま言いました」
「そらそうやな。島田ちゃんも真顔で関西弁が出るレベルや」
今になって疲労が全身に浮かび、美和はぐったり背もたれに身を預けていた。眠気が急激に押し寄せ、言おうとしていたことがするっと溶け落ちると、別の言葉が何食わぬ顔でそこに居座った。
「あの、淡路先生」
「なんや?」
「私、先生が好きです」
キイキイというジャングルの回転音が止まった。淡路先生は光る眼で美和の靴先あたりを見おろしていた。
「――アホ。まずはちゃんと担任せえや」
声はひどく優しかった。
手招きされ、今さら告白したことに動転しながら、美和は従順な囚人のようにベンチを立って近づいていく。
「先生、私匂いますって」
淡路先生に促されて球形のジャングルの内側に入る。狭い底面にしゃがんで球面に背をあずけると、大人二人ではキツキツだ。
すっ、と淡路先生のジャケットの袖が美和の鼻先に突きつけられた。
「僕ばっか、匂いがどうのとか不公平やろ。センセも僕の匂い嗅いでごらん」
言われるがまま、美和は指を差し伸べられた猫のようにして鼻を鳴らす。
「どんな匂いする?」
「なんにも……しないですよ」
「そんなわけないやろ。なんかするやろ」
「んー……なんだろ? 紙っぽい匂い? それにちょっと焦げたみたいな匂いもする、かな」
「動物的な感想やなあ」
手を引いた淡路先生の袖を追いかけて、美和は彼の肩口に寄りかかった。今度はもう少しはっきりと、彼の肌の匂いがした。
「宇宙は焦げた匂いがするんやって、そんな話聞いたことあったな」
「星にも匂いとかあるんですかね」
「どうやろなあ。でも、天の川銀河の中心はラズベリーの匂いがするらしいで。これはなんかの観測に基づく話らしいな」
淡路先生が身を揺らし、ジャングルが少し回る。パイプの間から見上げる夜は、バターを溶かしたような雲がかかり、全体がにぶく発光して星は見えない。
しばらくして、目を閉じた美和の袖口を淡路先生が軽く引いた。緊張にこわばったまま睡魔に沈降していた美和は、海底に打ち捨てられた石像みたいに、その感触を遠く感じた。
「寝たんか? 島田センセ」
美和は寝たふりを決め込んだわけではない。自分はまぎれもなく寝ていると思っていた。つまり起きているのだが、声の出し方も目の開け方も、思い出そうとすると面倒だった。そしてふと気づくと、淡路先生は独り言のように喋っているのだった。
「……僕の親なあ。今はそうやないけど、ずっと僕の体質を理解してくれなくてなあ。お前が神経質なだけなんやーって。一緒に住んどるうちは我慢してたけど、大学行ってから、ホンマ何度も、何度も、辛抱強く自分の状態を、キツイときの気持ちを説明してな。喧嘩したりもして、それずっと続けて、やっとわかってもらえるようになったんや。でもな、無理ない話と思う。自分の感覚にないものって、理解するのは難しいよ。僕だってそうや。鼻が少し利いたからって、他人の苦しみに敏感になるわけやないからな」
内緒話のようなトーンで、美和の額のあたりに刷毛で撫でるように息がかかる。
「だから結局、人には言葉しかない。無駄かもしれんけど、伝わらんかもしれんけど、言葉にするっていいことやと思う。だから……ありがとな、島田センセ」
美和の意識は、背中から伝わるパイプの冷たさと、淡路先生の声に反応する部分をのぞき、電源を落とすように静まっていく。
「僕は自分のことを周りにわかってもらうのに、ちょっと疲れた。うまくはいったけど、くたびれてもうた。ま、そのうち回復するけどな、ちょっとだけ一休みするつもりやったんやけどな……。誰かを好き、って、やっぱそれ、わかってもらうしかないことやん? どれだけ好きなのか、相手の好きと自分の好きが同じなのか、そんなんわからん。でも言葉を尽くして、わかってもらうしかない。いやわかってもらわんでもええ、信じてもらうしかないんです」
しばらくの沈黙の間、美和はまぶたの皮膚の裏で、自分を見つめる淡路先生と、確かに見つめ合っていると感じていた。
「だからね。もうちょい復活したら僕、また頑張らせてもらいますよ。君にね」
巨大なラズベリーで出来た星に着陸する夢をみていた。宇宙は甘酸っぱい香りで満ち、近づいてきた宇宙人が宇宙船の窓を叩く。乗りたいのかなと開けてやると、
「こら。いい加減起きなさい」
そう言って、大きな瞳から美和の頬へぽとりと涙をこぼした。
目が開く。視界すべてが褪せた白で満ちている。その白からまっすぐ、銀色の滴が今度は喉元に落ちた。
「あれ?」
美和はがばっと起き上がる。一本釣りされた魚みたいな急激な覚醒に、目の奥が痛む。
スマホを開くと五時少し前、夜が明けたばかりだろう。そのわずかな動作の間に、美和は夜の間の自分の振る舞いを、一気に思い出して血の気が引いている。
逃れるようにあたりを見回した。公園を囲む木立や遊具は、淡い影に包まれ石膏像のように静止している。淡路先生の姿はない。美和は一人でぽつんとペンキの剥げたベンチに身を起こしていた。
置いてかれちゃったかな。帰っちゃったか、家すぐそこだし。
勝手についてきて、面倒をかけたあげくに公園で高いびきである。女として不用心に過ぎるし、仕事の後輩としても、たるんでいると言われても仕方がない。そりゃ呆れるよね、と美和は長いため息をつく。
ひょっとすると、起こそうとしてくれたけど起きなくて、業を煮やしたのかもしれない。アルコールが入ると美和は異様に寝起きが悪くなる。飲んだ翌朝は、目覚ましを何重にも、時間をずらしてセットするくらいだ。
花の終わった桜の並ぶ通りの先に、淡路先生が自宅だと言ったマンションが、薄雲の下で憂鬱そうな横顔をこちらへ向けている。
――ここまで近づけたけど。
あともうちょっとで上がり、だったかもしれないけど、これでまた振り出しだ。でも悪いのはサイコロ運じゃない、私だ。
雨は強くもならないが止みもしない。ともかく移動してお詫びのメッセでも送ろうと、美和が立ち上がると、体にかけられていたものがずり落ちる。反射的に握りしめると、それは淡路先生のジャケットだった。寝ていた美和の頭の下にも、彼のものらしいタオルがしいてある。
ジャケットの胸ポケットから、折りたたんだメモがわかりやすくはみ出していた。
――雨降りそうだし、起きないから、ダッシュで車とってきます――
走り書きでそう書かれている。
美和は歩道まで出て道の向こうを見透かした。マンションの足元から小さな影が滑り出し、ウィンカーを点滅させこちらへ顔を向ける。
すっかり皺になったジャケットを抱きしめて、美和は今になって、強烈な気恥ずかしさに見舞われていた。ささいな刺激でも跳び上がり、泣いて、笑い出しそうだ。夜の記憶の最後に積み重なった淡路先生の言葉が、時間差でほろほろほどけて、耳の中によみがえり、胸がじーんと熱くなる。
近づいてくる白い小さな車のハンドルを握り、淡路先生は少し怒ったような、しかつめらしい顔をしていた。お仕事モードの顔。説教されるな、と美和は経験的に予感する。副担任だった一年間で小言を言われたのは二度くらいだが、淡路先生の説教は穏やかだが長い。
そりゃもう、私が悪いんです。ちゃんと叱ってください、先生。
それから。
ほころびそうになる頬を引き締め小さく手を上げる。車は減速し、ハザードをつけて道の端にすり寄ってきた。

