11月2日。

それは世界にとって何の変哲もない日であり、それでいて平和である日だ。
しかしそんな何の変哲もない日は、私にとってはとても大切で幸福な日である。

カレンダーに赤く丸をつけている日はまさに今日。
11月2日であった。
目を擦りながら起きた早朝、私はいつもより気合を入れて慣れないメイクを施し、友人に手伝って貰いながらも懸命に選んだ洋服に腕を通した。
普段ロングスカートなんて履かないもので、足元に裾が当たり違和感を覚えるが、そんなのどうでも良い程に私は高揚していた。

午前8時40分。
待ち合わせまであと1時間20分。
全身鏡の前に立っては、
“服良し、ヘアセット良し、メイク良し”
と何度も何度も確認を重ねる。

そこに変化なんて生まれるはずないのに、私はなんと可愛らしい恋する乙女なのだろう。

いつもより自己肯定感があがり、思考もどんどんポジティブになっていく。
異常なほどに心を躍らせながら待った時間、それすらも幸福と言えるほどだった。

待ち合わせまであと40分。
私は白色の小さめなカバンを持って、家を出た。

それと同時にスマホを取りだし、メッセージアプリを開く。

“おやすみ”

最後のメッセージは昨日の23時31分。
今日は今からの出来事が楽しみすぎて朝の連絡するのを忘れていた。

“おはよう!今から出るね〜!”

文字面からでもわかるウキウキようで自分でも少し笑ってしまった。スマホをカバンにしまい、眩しくて空を見上げた。
そこは雲ひとつない晴天の空が広がっていた。
今日のような日にこんな良い天候に恵まれるなんてついている、と外に出てからもずっとウキウキで集合場所に向かった。
集合場所はお互いの最寄り駅。

今日は珍しくあっちの方からデートのお誘いで、連絡をくれたのだ。そんなの嬉しい以外の言葉が見当たらないだろう。誘われた時は残業終わりだったが、疲れの全てが吹き飛んだのを思い出す。

待ち合わせまであと20分。
随分と早く着いてしまった。
こういう時はいつもスマホを触って時間が過ぎるのを待つのだが今日は違う。
コンパクトミラーを取り出して、前髪や唇、目を鏡に映して確認する。
駅まで来る時にそよ風で乱れてしまった髪を整え、リップで再度艶を出していく。

待ち合わせまであと10分。
今になって、服変じゃないかな、可愛いって言ってくれるかな、気合い入れすぎたかな、なんて沢山の不安が溢れ出るようになった。
ゔぅ、なんて1人で唸っている私は周囲から見れば不審者に違いないが、気にする余裕なんてなかった。

待ち合わせまであと1分。
彼の姿は未だ見えない。まぁいつも通りといったところか。彼が集合時間に間に合った試しなんて片手で数えれるほどしかないのだ。

ザワザワとした人混みは、むわっとしていて少し生ぬるい。

「お待たせ!」

ハッとして声の方向へ振り向く。
だけどそこには私の待っている彼じゃなくて、他の人がだった。その人は女の人に笑顔で手を振っている。
その人はうっすら汗ばんで、急いできた様子が見てわかるようだった。
目の前の男女は照れくさそうに手を繋ぎ、ぎこちなく歩いて行った。


私は期待してしまった。


もう待ち合わせ時間は30分も過ぎている。
その間の一切連絡はなく、なんなら既読もついていない。起きているかすら怪しい。

でも彼なら来てくれる。
そう信じて疑わなかった。

1時間、2時間......。
だんだんと時間が過ぎていき、もうお昼になった。
ぐるぐるとお腹が鳴って、ここを退いてお店に入りたかったけどその間に彼が来ては困るから。
何か持ってこればよかったと後悔したけど、私はただひたすら耐えて、ひたすら期待したのだ。



もう5時間が過ぎた。
私はずっと立ちっぱなしで壁にもたれ続けていた。しかし足にも限界がある。
私はひたすら耐えていた集合場所から少し離れたところにあるベンチに座った。
ふぅ、と安堵というか、一息ついた。
足が棒のようになり、しばらくは立てないだろう。立ちたくもない。
だけど彼が来てくれるのなら私は喜んで立ってそのまま胸に飛び込むと思う。
それくらい好きなのだ。

自分を犠牲にしてでも私は彼が好きなのだ。


私は少しの間だけ、と言い聞かせ目を閉じた。





“今日の髪型かわいいね”

そうなの、難しかったけど何回も練習したんだよ


“メイク変えたの?すっごく似合ってる”

ほんと?少し不安だったけど、気づいてくれて嬉しい


“俺のために新しい服買ってくれたの?嬉しいよ”

貴方が好きそうな服を選んだの



私は褒められたかったの。






「あのー、すみません」

低い、彼を彷彿とさせるような声。
閉じていた目をゆっくり開いていく。
もしかしたらやっと彼が来てくれたのかも、と期待を胸にふくらませ顔を見た。
だけどそこにはやっぱり彼はいなくて、代わりに警察の服を着た人が立っていた。

「えっ、警察?」

思わず驚いて声が出た。私、気付かぬうちになにかしてしまったのだろうか。

「通報がありましてね。ベンチで寝ていて全く起きない女性がいるって」

全く起きない......?
私は急いでスマホを確認する。
時刻は堂々と16時41分と表記されていた。つまり2時間近く寝ていたことになる。
ありえない、と思うと同時に、私なんでこんな時間まで起きれなかったんだろう、と心底不思議に思う。

「もうこんな所で寝ないように。あとお荷物確認された方がよろしいかと」

私は警察官に言われたとおり、カバンの中を確認した。だけど財布やらメイクポーチやら盗られているものは見当たらず、全てカバンの中にあった。

「それはよかったです。では、私はこれで失礼します」

警察官は小さく会釈をして私の元から去っていった。
気づけば人々の視線が痛くて、移動しようと立とうとした矢先、声が聞こえた。


「大丈夫ですか?」


彼に似た、あの人の声。
私に向けた言葉が頭の上から降ってきた。心臓がドクドクうるさくて、期待と不安と、あまりに似ている彼の声から恐怖を感じる。
私は恐る恐る顔を上げた。

「あ、やっぱり先輩だったんですね。宮美京花先輩」

ニコッと笑う目の前の青年は私の会社の後輩であった。

「伊瀬君......」

伊瀬碧。後輩でありながらも私より仕事ができる、スマートで頭の回転が早い優秀な人材だ。ちなみに私は伊瀬君の元指導係でもあった。
こんな優秀な後輩を持ち、私は鼻が高かった。
でも何故彼がここにいるのだろうか。今日は平日で、私は有給をとってここにいる。彼も用事があって有給をとっていたのだろうか。
いや、そんなことはどうでもいい。
周りを見渡しても、やはり彼はまだ来ていないらしい。私の期待はずっとずっと打ち砕かれているままだ。

「宮美先輩、こんな所で何してるんですか?」

“お隣失礼しますっ”
と言い、伊瀬君は私の隣に腰かけた。180cmを超えていそうな身長は、座っても高いことを実感させられる。

「ある人を待ってるの」
「え......」

伊瀬君は心底驚いたような、珍しいものを見たかのような目をこちらに向けた。その視線は何故かゆらゆらと泳いでいるかのように思えた。
もう少しで、集合時間から7時間が経過しようとしている。流石にこの時間まで来なかったことは、初めて。いや、2度目だった。



あぁ、あの日。あの日だ。
丁度1年前のあの日。
急に、私の頭の中にひとつの場面が思い浮かんだ。


あの日彼は集合場所に来なかった。
何時間待っても、来なかった。連絡をしても未読のままで。
今までそんなこと無かったから私は、彼が事故に遭ってないか、何か犯罪に巻き込まれてないかと不安で不安で心が押しつぶされそうだった。頭の中がぐるぐるして倒れそうになったのを覚えている。
私は何時間も待った後、結局自宅に帰った。未だ既読は付いておらず、帰っても私はずっとソワソワしていた。
彼を探しに行こうかと簡易な物を持って外に出ようとした時、スマホが震えた。
電話だった。
私は咄嗟に電話主を確認した。彼の名前が書いてあることを祈りながら。
だけど私の祈りは神様に届かなかったらしい。
電話の主は彼のお母さんであった。
なぜだが、電話の着信音以外の周囲の音が一切なくなり、自分の心臓の音だけが激しく鳴っている。
嫌な予感がした。この電話に出てしまったら、ダメな気がした。
けれど私は震えるその指先でボタンを押した。


「......はい、宮美です」
「あぁ、京花ちゃん、あの子が、あの子が......」


彼のお母さんとは交流が多かったことで、そこそこ仲の良い関係が築けていた。いつもハツラツとしていて、彼に似ずきっちりとしている。
だけどそんなお母さんが、今電話越しで泣いて声がずっと震えている。

“ごめんね、ごめんね”

と何度も謝られる度、重い鈍器で頭を殴られるような錯覚に陥っていた。
混乱状態だったけれど、私はかろうじて残っていた冷静さを保ち、事を察することが出来た。

理解した途端、私は膝から崩れ落ちた。気づけば私は大粒の涙を流して、大人に似つかない大きな声で泣きわめいた。

何度も何度も彼の名前を呼びながら。


分かってた。
彼がもうこの場に来てくれないこと。
分かってたつもりだった。
けれどまだ私は現実を受け止めきれなくて、ここでずっと彷徨っていたんだ。




「先輩?」


伊瀬君の声がして急に現実に引き戻された気がした。伊瀬君は不思議そうにこちらの顔を覗いている。

「せ、先輩?!なんで、なんで泣いてるんですか?俺失礼なことしちゃいました?!」

慌てふためく後輩をよそに、気がつけば私はあの頃のように大粒の涙を流していた。泣きたいわけじゃないのに、どうしても涙が止まらない。大の大人がみっともない。こんな公衆の場で醜態を晒すなんて。
でも、涙が止まらないの。
彼がいないという事実がこんなにも苦しいものなんて。

「会いたいよ......」

独り言のつもりだった。伊瀬君に聞こえるか聞こえないかの、蚊が鳴くようなか細い声。
伊瀬君は、スっと立ち上がって私の正面に向き直した。そしてハンカチを私に差し出して優しい笑顔で言ってくれた。

「先輩、どこかお店入りましょうか。」








連れられたまま入店したのはふわっといい香りに包まれているレトロなカフェ。いつも行っているカフェと雰囲気が異なっていて、たまにはこういうカフェもありだと思った。
アンティーク調の椅子に座り、メニューを開く。お昼から何も食べてない私のお腹は正直でメニューを見た途端ぐるぐると小さく鳴った。伊瀬君に聞こえていたようで、クスクスとこちらを見て笑っている。私は恥ずかしさのあまり、顔をメニュー表で隠した。
いつのまにか落ち着き、涙は引っ込んでいて、涙を吸ったハンカチがびしょびしょに濡れているのに気がついた。
自分でも少し引くほどの量が染み込んであった。

「ごめん、洗って返すね。あ、新しいの買った方がいいかな」
「大丈夫ですよ、自分が洗っとくんで」

と、伊瀬君の手がハンカチに伸びてきて、抵抗しつつ半ば強引にハンカチが取られそうになる。
流石にこのままお返しする訳にはいかないので、説得し、結果洗って返すこととなった。正直のところ、恥ずかしいので買い替えたいと思ってしまう。
改めてだいぶ濡れたことを実感したが、こんなに泣いたのならメイクも大いに崩れていることだろう。
今日は彼のためにメイクも張り切っていたから、顔がドロドロかもしれない。
メニューを注文してからお手洗いに行こう、と思い、もう一度メニューに向き直って、せっかくだから食べたいものを探していく。
目に入ったものは、ホイップとチョコソースが乗ったワッフルだった。
伊瀬君も決まったようで、店員さんを呼び注文が完了。

「ごめん、少しお手洗い行ってくるね」

すぐに席から立ち上がってメイク直しに向かった。

鏡を見るとまるで別人がそこに映っていた。
ファンデーションはよれてるし、目を擦りすぎてアイラインもなくなっている。まぁなんとも醜い姿だろうか。こんな姿を伊瀬君に、そして周りの人達に晒していたのかと途端に恥ずかしくなる。
とりあえず、メイク落としでごしごし落としていく。
後は簡単にメイクを施して完成だ。少し手抜きが目立つけれど、彼に見られないのならどうでもよかった。


急いで席に戻ると、注文していた商品がもう届いていた。テーブルの上には、私側にワッフル、伊瀬君側にパフェが置いてある。
真面目そうな顔して意外とパフェが好きなのか、と思わず笑みが溢れてしまう。
彼も甘いものが好きで、どこか食べに行く時には必ずデザートを注文していた。今となっては懐かしい思い出になってしまった。

彼との思い出を一つ一つ思い出していたらキリがないし、油断していたらまた涙が溢れてしまう。

だから目の前に人がいる時だけ、私は思い出に蓋をしようと思う。
そして今目の前にいる伊瀬君は、美味しい美味しいと言って食べつつもこちらの様子を伺っているのか、視線をチラチラこちらに向けてくる。
私の事情を言うのは、どうだろうか。伊瀬君に話してもいいのだろうか。それで困らせたら私はどう対応したらいいんだ。
なんて考えが頭をよぎったけれど、心の奥底では誰かに話しを聞いて欲しかったのかもしれない。
だから気づけば口が勝手に動いていた。

「伊瀬君、私の話少しだけ聞いてくれる?」

さっきまでウロウロしていた目線は私の言葉と共に、私の目に集中した。
そしてゆっくりと伊瀬君はうなずいた。

「私大切な人がいたの。同じ会社の人だった」

同じ会社で、同期だった彼は少し物言いがキツい人だったけれど私のことを人一倍気遣ってくれた。新人の頃の私はミスが多くて、ずっと頭を下げっぱなし。他の先輩や上司の人は優しかったけど、それすらも私は別のプレッシャーとして自分にのしかかっていた。だけど彼は、私の間違っているところを指摘して

「少しは自分の頭で考えてみろ、大丈夫。宮美ならできるよ」

なんて頭を撫でられてそう言われた。
随分とあっけないが、恋に落ちるまでそう長くはなかった。
自分の恋心を自覚してからはなんだかむず痒くて、避ける日もあった。小学生か、なんて思ったけど恋をしたのなんて数年ぶりでどう接していいかわからなかった。好き避け、なんて言葉もあったな、なんて。
避け始めてちょうど1週間くらいかな、彼から個人で連絡が来た。

“仕事終わってから少し話せないか。言いたいことがあって”

同じ部署にいるのにわざわざ連絡してくるところを見ると、私は徹底的に避けていたことを実感した。
ちょうどいい機会だし、私も言いたいことを言おう。振られたら泣いて笑おう、なんて自嘲しながら返信をした。

“私も話したいことがある”

連絡が来た時点で、脈アリか?なんて思ってたのは内緒。
その日1日は全然仕事に集中できなくて、いつもよりミスが増えてさすがに怒られた。
気がつけば定時まであと1時間を切っていた。時計の針が進む度心臓の音が大きくなっているようで、緊張が増していく。
だけど神様は意地悪だとはこのこと。
上司から急ぎの書類作成が業務に追加された。こんなの1時間では到底終わらなそうで、私は残業することが確定してしまった。
どうしよう......
そう思っている時間がもったいないのでとりあえず彼に、残業することになったと報告した。だけど既読はついたけど返事が返ってこない。もしかして呆れられた?、と自分勝手に意気消沈した。けれど悲しんでる暇はなく、時間は刻刻と迫っている。なるべく早く終わらせよう、と躍起になった。
しかしこんなに多い量を1人で、しかも1時間で終わるはずもなく、皆が定時で帰る中、私は1人パソコンに向き合っていた。彼のデスクを見ても、彼の姿はなかった。

“あぁ、もう帰っちゃったんだ”

心の中で涙を流しながら終わりが見えない作業に打ち込む。ひとりがこんなにも寂しいなんて思ってもなかった。
何分だっただろうか、オフィスの扉が開いて誰かが入ってきた。誰か忘れ物を取りに来たのだろうか、なんて目もくれる暇がなく私は考える。だけど足音はどんどんこちらに近づいてきて、
通り過ぎるかな、隣の席は先輩だけど
と思っていると私の後ろでぴたりと止まった。そして頬にピタッと冷たい缶が押し当てられた。

「ぅわっ......!!」

なんて可愛げのない声が出た。後ろからはクスクスと笑い声が聞こえてくる。この声はまさか、と思いながら後ろを振り返ると案の定彼が立っていた。両手にはジュース缶が握られてある。

「残業お疲れ様、ご褒美あげる」

デスクに置かれた缶は光が反射して煌びやかに光っている。お礼を述べると彼は笑って、“どういたしまして”と言う。
私は今にでも心臓が飛び出でるんじゃないかとヒヤヒヤしていた。わざわざ残業している私の元に戻ってきてくれて、尚且つジュースを買ってきてくれた。そんなの少なからず期待してしまう。だけど違っていた時、私は顔を真っ赤にして叫ぶと思う。だからこの心臓の音は、頬に当てられた缶に驚いたからだ、ということにしておこうと思う。

「なんでいるの?」
「なんでって、そんなの手伝うためだっての」

彼は当たり前かのようにサラッと言うのだ。私が期待している言葉を。

「別に手伝ってもらわなくても終わるけど?」

本当にあの時は言って後悔した。天邪鬼な私はそんな可愛げの無い言葉を発してしまって、もう彼はこの場から居なくなるのではないかと思った。だけど彼は寛容だった。私の性格を知っているからだろうか。その言葉は嫌味とかうざがっている訳じゃない言葉だと分かってくれた。
彼は、はいはい、と聞き流しながら書類の半分を自分のデスクに持っていく。拒否するまでもなかったので私たちは2人で作業に耽った。
残業時間3時間、私たちはやっとの思いで書類を完成させた。多分私が作った方はミスが多いだろうけど、それはもう先輩方に直してもらおう、なんて甘い考えが浮かんだが、

「宮美ならできるよ」

という彼の言葉を思い出し、ミスがないか目を通すことにした。それを見た彼は感心したかのように、“おぉ〜”という声を出し、またあの時のように頭を撫でてきた。今回は撫で回す感じで。髪がぐしゃぐしゃになっているけど彼にされるのなら本望だった。
そしてミスを訂正し、本当の意味で書類作成が終わった。2人して安堵したように一息ついた。
仕事をしている時の沈黙は何も気にならなかったけど、何もしていない時の沈黙は少しばかり気まづかった。そんな沈黙の壁を破ったのは彼で。

「あのさ、話したいこと、今ここで話してもいい?」

そういえば言いたいことがある、と言っていた彼を思い出して隣に来た彼に向き合う。
彼は酷く緊張しているのか手先が震えてるように見えた。
もしかして、私告白される?と期待に胸を膨らます。


「俺、宮美のこと」

あ、くる。

「好き、なんだよね」

“好き”という言葉が頭の中でぐるぐる回って何度も彼の声で再生される。
多分私は今火が出るほど顔真っ赤だと思う。だけど彼も負けぬくらい顔がとても赤かった。
私は期待してよかったと、やっと思えた。

「俺と付き合ってくれませんか」
「はい、私でよければ」

会社の、誰もいないオフィス。告白。
そんなのドキドキしない人なんていないでしょう?私は最高の夜だ、なんて思いながら彼に抱き寄せられた。
どうか心臓の音は彼に伝わりませんように。


時刻をみればもう終電間近だった。なんならここから駅まで少し時間がかかるため恐らくもう間に合わない。
だけどもしここで、“終電なくなっちゃった”なんて言ったらソレを狙ってるみたいになるかもしれない、でも無くなったのは事実だし......。

「もしかして終電もう無い?」

あたふたしている私の様子を汲み取ったのか彼は図星をついてきた。素直に頷くと彼はまた顔を赤くして恥ずかしそうに言った。

「宮美さえよければ、俺ん家、くる?」

神様、残業させてくれてありがとう。初めて神と残業に感謝をした良い日になった。
目の前の彼はいつもの賢くて少し厳しくて、だけどお調子者の彼じゃなくて。
余裕のない顔を真っ赤に染めている彼を私は心底可愛いと思った。
私は恥ずかしそうに頷いた。
彼はそれを確認した後、荷物をまとめて私の腕を引いて会社を出た。
夜風は少し肌寒かったけど、彼が繋いでくれている手が暖かくて心地よかったから平気だった。
この時間は人通りが少なくて物静か。歩いている時、お互い恥ずかしくて全く会話がなかったのも今となっては可愛いものだ。
彼のアパートに着いた。中はしっかり片付けられていて、心做しか良い香りもした。
家に着いて、まだ夢なんじゃないかと思うと同時に、状況を理解していく。
男女屋根の下、2人っきり。
一応付き合っているけれど急展開過ぎてあまり上手く呑み込めない。もしかしたら今日、あんなことやこんなことが......。と、1人で妄想を繰り広げ、葛藤していた。

「とりあえず、飯でも食べるか」

悶々としている私を他所に、彼はもういつも通りだった。そんな彼に私も緊張が解れる。
彼は料理を振舞ってくれた。疲れているはずなのに、彼と私のために作ってくれている事実にやっぱり嬉しくなる。
今日はもうこれだけで満足だ。





月日が流れた。日の経過は早いもので付き合ってからもう2年が経つ。
2年付き合って色んな彼の表情を見れた。案外怖がりなところとか甘いものが好きなところとか、ゲームをすることとか。沢山沢山知らないことを知っていって、知る度にこの人と付き合ってるんだと実感する。
1番驚いたのは少しだけ遅刻魔なところ。
1時間、2時間ほどでは無いが10分、20分と遅れることが普通と化していった。今ではもう気にしていない。
だけどさすがに1年記念日にまた遅れてくるとは思わなかったけど。
今日は2年記念日で、1年記念日と同じように駅を集合場所としていた。
待ち合わせまであと10分。
彼が来る気配は今のところない。連絡だって最後に送ってから30分ほど既読が付いていない。今日も遅刻しそうだな、と私は呆れ顔だったと思う。
彼は本当に時間通りに来なかった。
それも1時間、2時間経過しても来なかった。既読も、ついていない。
私は1度家に帰った。そしたら、1本の電話が鳴って。
私は泣き崩れたんだっけ。


「彼ね、死んだの。交通事故だった」

目の前の伊瀬君の喉がなったのがわかった。ずっと集中して聞いてくれている伊瀬君の額にはうっすら汗ばんでいる。

「集合場所に来る途中、酔っぱらいの車に轢かれて、それで......」

思い出すだけで吐き気がする。
だけどこんな事を人に話したのは初めてだった。これで肩の荷が降りたわけじゃない。けれど少しだけ楽になるような気がする。

「彼のポケットから指輪が出てきたんですって。もう、本当に遅いんだから......っ」

また結局私は涙を流してしまった。伊瀬君を困らせてしまう涙。
唇をぎゅっと噛んで、嗚咽を我慢する。

「今日、あそこにいたのは今日が3年記念日だったから。彼が、来てくれるんじゃないかと思って」

我ながら馬鹿だと思う。彼が来てくれるわけないのに。また期待をしてしまっていたんだ。彼は私の欲しい言葉をくれるから。
また“お待たせ”と笑顔で言ってくれるんじゃないかって。
何を願ってももう彼は戻ってこない。
私は過去と踏ん切りをつけるために伊瀬君に話したのだと思う。

「話を聞いてくれてありがとう、伊瀬君」

袖で涙をふき取って伊瀬君にお礼を言う。
伊瀬君は涙ぐんでいるのだろうか。少し目元が赤くなっていた。

「先輩のこと何も知らなかったです。そんな事があったなんて」
「じゃあその指輪はとても大事なものなんですね」

薬指に嵌っている指輪がキラリと光を放っている。


「えぇ、そうね。世界一大事な人から貰った、世界一大事な宝物だから」


いい土産話をたくさん持っていくから期待していてね。
大好きよ、______。