週末までの四日間は、想像以上にあっという間に過ぎていった。
慣れない環境、慣れない時間配分。
友達を作る以前に、委員会やら部活やら、決めないといけないことが多い。それに加え、入学式翌日からしれっと始まった授業について行くのに必死だった。
ちょっと背伸びして、頭のいい駿くんと同じ高校に入りたいと願った自分を恨んでしまう。
受験は受かることがゴールではなく、そこからがスタートだと有名人なのか親戚なのか、誰かが言っていたけど、確かにその通りだった。
中学の頃よりも量が増えた課題を終えて、朝起きたら昼の十時を回っていた。
「ごめん、寝坊した!」
パジャマのまま階段を降りていくと、そう言いながら開けたリビングの扉の奥には両親がいた。
「おはよう。よく眠れた?」
いつ帰ってきたんだろう。わからないけど、眠気覚ましのコーヒーを飲みながら二人してパソコンとにらめっこしていた。
「あ、うん。おかえりなさい」
「ただいま。学校はどうだ?楽しいか?」
ズズ、とコーヒーを啜りながら、お父さんはわたしを瞳に映す。
「まだついて行くのに精一杯だけど、楽しいよ」
こういうとき、はじめの一言が余計だったかなとよく考える。でも今日は必要だったみたいで、お父さんは「そうだよな」と頷きながらコーヒーカップをコースターの上に置く。
「まあ、まだ一週間しか経ってないんだ。これから楽しくなるよ」
「うん。あ、わたしこれから出かけてくるね」
朝食も食べずに洗面所へ行くふりをして岩崎さんを探す。
名前を呼ぶわけにもいかなくて、あらゆる扉を開けてみたりするも見つからない。
まるで昨日までの世界が夢だったかのように、岩崎さんは姿を消した。といっても、帰っては来るだろうけど。多分。
そう思っていた矢先、二階の廊下の突き当たりの隅に座って何かを読んでいる岩崎さんに遭遇した。
「あ、いた」
「もしかして私のこと探していましたか?」
わたしの声に、顔を上げて立ち上がる。
どうやら私が気付かなかっただけでずっとここにいたみたいだ。手元の本のページが少し真ん中に近かった。
「リビングに行ったらお母さんたちがいたから。別の場所にいるかなって思って」
「はい。まさにその通りです。家族の一員としてリビングに座っているのも不自然でしょう?ご両親がいるときは、ここを使わせていただいてもよろしいですか?」
こんな場所でいいのかとも思ったけど、他に部屋なんてないし。寝る場所とかも、必要かどうかもわからない。
岩崎さんがそれでいいなら、とわたしは頷いた。
「急いで準備するから、ちょっと待ってね」
「えっ」
驚きに包まれた声に、思わず振り返る。
週末付き合ってほしいと言われたのは、出かけるという意味だと思っていた。
「出かけると思ってたけど……。違った?」
「あ、そのつもりだったのですが……。せっかくご家族が帰ってきたんですから、今日じゃなくてもいいかなと」
「いいの。お母さんもお父さんも、まだ仕事してるから。行こうよ」
仕事の邪魔はしたくないし。
岩崎さんのことも、知っておいた方がいいと思う。失礼なことを言わないためにも、なるべく早めにそばにいる人のことは知っておきたい。
「そうですか?小晴さんがいいのなら、行きましょう」
どこに行くかもわからないまま、水色のワンピースを着て岩崎さんと家を出る。外は柔らかい日差しが暖かく心地いい、まさにお出かけ日和というやつだ。
「どこに行くの?」
少し前を歩く岩崎さんに聞いてみると、振り返って微笑む。彼のことを知るためのお出かけだから、あまり今から詮索するのはよくないか。
「とりあえず、駅に向かいましょう。ここからだと、上りですかね」
何かを見るわけでもなく、記憶を辿るように道を歩いている。一度地図で見た道を、何も見ずに歩くような、なにかのテストのような。そんな雰囲気があった。
「うん、駅ね」
歩き慣れた駅までの道を歩き、高校とは反対側のホームに降りる。
こちら側には一度も来たことがないような気がして、少しだけわくわくしている自分がいる。
特に会話もしないまま、外を流れる景色を見つめながら電車に揺られる。
「次、降ります」
そう言われた駅に降り立ち、周りを見渡す。
駅員さんのいないタイプの環状線の改札口にICカードをかざし、初めて来る街に足を踏み入れる。
「ついてきてください」
寂しそうな顔をしてこの駅に降り立った岩崎さんを見て、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
わたしが考えなしに、なんで?って聞いたから、嫌なことを思い出させてしまったかもしれない。
「岩崎さん、嫌だったら無理に話さなくてもいいよ……?」
声をかけると、前を歩いていた彼は立ち止まり、こちらを振り向いた。
「いえ、私も話すべきだと思っていますから。それに小晴さんとでないと、私はここには来られないので」
「そうなの?」
「はい。小晴さんを中心に、直径一キロ以内しか一人で行けないんです」
行動範囲が制限されるなんて、死神ってなんだか大変そうだ。人を死へ追いやる職業なのに、自由が少ないなんて。
優しい心を持っているであろう岩崎さんは、苦痛じゃないのかな。
「行きましょう」
緩く口角を上げて微笑む岩崎さんが、なんだか途端に小さく見えた。
スラッとして背が高くて、華奢なのにしっかりした背中がいつもは大きく見えていたんだなと、無意識に思っていたことに申し訳なさを感じた。
岩崎さんは若くして亡くなっているのに、わたしの辛さを慰めてくれたり、きっと辛いと思うこともあるだろうに、優しく背中を押してくれる。
年齢はわたしと一つしか違わないのに。生きていたら五つ違うとはいえ、まだ大学生か、就職して数年の未熟な大人だろう。
勝手にイメージを作り上げていたのかもしれない。無意識のうちに、きっとこんな人だって。
「着きました。大丈夫ですか?」
ぼーっと前を歩くわたしの顔を、岩崎さんが覗き込んでいた。
「わぁっ!」
「すみません。でも、ぼーっとしながら歩くと危ないですよ?」
そう、岩崎さんが指さす目の前には、電柱が立っていた。
「うん、ごめん」
「いえ。ぶつかる前に気付けてよかったです」
「ありがとう……。そういえば、着いたって」
「はい。こちらです」
電柱を通り越し、岩崎さんが見上げる目線と同じ高さを見る。
住宅街の、一軒の家。白い壁に、ダークグレーの屋根。一台分の駐車場があり、家の周りには手入れされた草木が生い茂っている。
少し視線を落とすと、木造りのオシャレな表札には『IWASAKI』と書かれていて、ここが岩崎さんの家だとやっとわかった。
「ここって……」
「僕の家です。入る勇気は、何度来ても出ないんですけどね」
辛そうに笑う姿は、まだ死にたくなかったという気持ちが痛いほど伝わってくる。
帰るはずの家が、帰れない家になってしまったなんて、心ごと抉られてしまうほど辛いに違いない。
「……帰らなくていいの?」
せっかくここまで来たんだから、岩崎さんだけでも入れる距離なんだから。懐かしい空気を吸って帰れたらいいのに。
「はい。帰りたくなくなったら、困るでしょう?また、勇気が出たときにします」
「そっか。じゃあ、また来よう」
岩崎さんは頷いて、また歩きだした。
住宅街の生活道路を抜けて、車通りの多い道路の前に出る。そこを左に曲がって少ししたところに、日中なのに光の入らない暗い路地と、付近の塀に張り紙が貼ってある。
五年前の通り魔事件の犯人が、未だ逃走中で、目撃情報を集めているというものだった。
ここに連れてこられたということは、この事件の被害者は……。
「ここで私は死にました。格好をつけるわけではありませんが、妹と同い年くらいの女の子を庇って刺されたんです」
「そう、だったんだ……」
なんて声をかけたらいいのか、わからなかった。
岩崎さんは今、一体どんな気持ちなんだろう。
本当はまだ生きていたいと思うだろう。死にたいと願うわたしが恨めしく思う瞬間も、この一週間で何度もあったに違いない。
人の命を守って命を失った岩崎さんと、失恋ごときで自殺まがいなことをしてまで死を願うわたし。その差はまるで月とすっぽんだと思った。
「人なんて、いつ死ぬかわからないんです。今日かもしれない。明日かもしれない。それがわからないから、ふとした瞬間に死の恐怖を感じることもあると思います」
「……うん」
きっと誰か違う人が同じことを言っても、適当に話を聞いて流してしまうだろう。
でも、岩崎さんの口から聞くと、同じ言葉てみもずっしりと重くて。説得力があった。
「だから、彩りのある楽しい毎日を過ごした方が、後悔は少ないと思うんです。まぁ、小晴さんは死亡日が決まっているので、焦ることはないのですが」
「ううん、頑張る」
ずっと駿くんのことを思い出してうじうじしていたら、岩崎さんに申し訳ないから。
一日でも早く、前を向く時間が長くなるようにできたらいいな。
「妹さんがいるんだね」
帰りの電車は人がまばらで、話し声が聞こえてしまうかと思ったけど。意外とイヤホンをしている人が多くてそんな心配はいらなかった。
「はい。あの時が中一だったので、もう高校三年生ですね」
自分の手をみながら指折り数える姿は、優しさに包まれていた。妹思いの優しいお兄さんなのは、さっきの話を聞いてなんとなく想像がついたけど。
年齢を数えるだけでふんわり笑うから。
心の中のどれだけを妹さんが占めているのかがよくわかる。
「歳、追い越されてしまいました。普通じゃない感覚で、現実味がまだ、あまりないですけど」
「それでも、岩崎さんがいいお兄ちゃんなのはずっと変わらないよ」
こんな、取ってつけたようなことしか言えないけど、岩崎さんは嬉しそうに微笑んでくれた。
それがなんだか嬉しくて、わたしも微笑んだ。