翌朝、制服に着替えてリビングへ降りていくと、岩崎さんはリビングに座ってわたしを迎え入れた。
「おはようございます。昨夜は寝られなかったようで……。体調はいかがですか?」
なんでわかるんだろう。
心の中でも読む力があるのか、それとも壁をすり抜けられるから部屋まで見に来たのか。
どちらにせよ、得体の知れない岩崎さんと過ごすことに少し不安を感じる。
なんで昨日は、やけにあっさり受け入れられたんだろう。きっと振られたばかりで気が動転していたのもあるかもしれない。
「……わたしの心が読めたりするんですか?」
どちらにせよ、離れられないだろうから、そういうことは早めに知っておく必要があると思った。
余計なことを考えて、声に出さずとも気持ちが良くも悪くも伝わってしまう前に。
「そんな力ありませんよ。ただ、目の下に酷いクマがあるので、夜更かしされたのかなと」
「なんだ、よかった。部屋にも入ってきてないんだよね?」
「もちろんです。呼ばれたときと緊急事態のとき以外は、プライベートもありますからね。入りません。あ、初日は別ですよ?自己紹介しないといけなかったので、仕方なく」
思い出したように、慌てて弁明を始める。
さっきまでの穏やかな話し方とは打って変わって、早口で、よくそんなに早く話して噛まないなと感心するほどだ。
「そっか。それなら、いいの」
岩崎さんを置いて洗面所に顔を洗いに行く。
鏡に映った自分を見て、驚いて自分の目の下に触れたつもりが鏡に映る自分に触れていた。
目の下にある青黒いクマの主張があまりにも強くて、岩崎さんを疑ってしまったことに申し訳なさを感じてしまう。
岩崎さんの言う通り、昨日の夜は全然眠りに付けなくて。ほとんど徹夜状態で朝を迎えた。
昨日、気絶していたのかもしれないけど、睡眠を取れていたのがまるで嘘のように、まぶたを閉じるたびに駿くんとの思い出がビデオのように再生されて。忘れられる気がしなくて。
泣いては眠ろうと目を閉じて。思い出してはまた泣いて。
その繰り返しだった。
「岩崎さんっていくつなの?」
スラッとしていて、まるで社会人のように見える佇まいでだいたい想像はつく。きっと二十五歳くらいだろう。
「十七歳です。ただ、死んでから五年経っているので、生きていたら二十二歳ですかね」
遠くを見る目は、寂しそうだ。
十七歳。わたしの一つ上で人生を終えたんだ。
それなのにやけに大人っぽく見えるのは、高校生らしからぬブラックスーツ姿のせいだろう。
「……なんで、とか、聞いてもいい?」
死神になるということは、誰かに相当恨みがあるのか。それとも他になにか理由があるのかな。
食欲はないものの、何かを食べないといけないような気がして、冷蔵庫に入っている無糖のプレーンヨーグルトを器に移して蜂蜜をかけながら、軽い気持ちで問いかける。
「……そう、ですね。お話したい気持ちはあるのですが……。朝食を食べながら聞く話ではないですから」
そう、岩崎さんは肘を組んで考える。
壁に掛かっているカレンダーを見て、そのあとすぐにわたしを見た。
「今週末、もし予定がなければ少し私に付き合ってくれませんか?」
正直気は乗らない。なんなら家に引きこもっていたかったけど。それこそ岩崎さんの望みには程遠く、わたしの質問に答えてくれようとしているのに失礼になるだろうから。
「うん、いいよ」
わたしは岩崎さんの提案に乗ることにした。
今まで駿くんのことでいっぱいだったから、誰かと出かけるなんてことがなかったからなんだか少し新鮮で。少し緊張してしまう。
「早く準備しないと、遅刻しますよ」
「あ、やばっ」
時計を見ると、午前七時五分。あと二十分後に出る電車に乗らないと、間に合わない時間になっていた。
大口でヨーグルトを胃に流し込み、歯磨きをする。必死に大人に近づきたくて覚えたメイクなんてしている暇なんてなくて、とりあえずトーンアップ効果のある日焼け止めを塗った。そのせいでベタつきが気になるからと、時間と戦いながらベビーパウダーを顔にはたいた。
「行ってきますっ!」
玄関先に置いたスクールバッグをひったくるように手に取って家の鍵をかけた。
七時十五分。電車が出るまであと十分。
歩くと十五分かかるからと、小学生以来乗っていない自転車にまたがった。
春風の爽やかさも暖かくなってきた気候も感じている暇はない。運良く赤信号には引っかからず、発車まで残り三分ほどのギリギリの時間に息を切らして駅のホームにたどり着いた。
「意外と体力あるんですね」
岩崎さんが目を丸くしてわたしの顔を覗き込む。通勤通学ラッシュで騒がしい中に、わたしの小さい声は聞こえないよね。
「体型維持のために、毎日運動してたから」
ここ二日、そんな習慣すら忘れていた。
スラッとした細い脚に十一字に割れた腹筋。鎖骨がキレイに見えるデコルテ。
それらを作るために、毎日運動をして、お風呂上がりにはストレッチとマッサージを欠かさずにやっていた。
全部全部、毎日数十分くらいの小さい積み重ねだけど、小学生の頃から続けてきたことだ。
それがまさかこんなところで役立つというのは想定外だった。
「小晴さんがモデルさんみたいに綺麗なのは、努力の賜物ですね」
にこりと微笑んで、わたしの人生を評価してくれるのが岩崎さんじゃなくて駿くんだったら。
どれほど幸せなんだろう。
岩崎さんに向けた努力じゃないのに。ずっと一途に、駿くんのことを思ってやってきたことなのに。
「……そんなことないよ。わたしの努力なんて、全然足りなかった」
自分でも後ろ向きだと思う。何年も続けてきた習慣を忘れてしまうほど、それでも努力が足りればまだ希望があるんじゃないかと変なところで自分を保っている。
「前を見てください。せっかく頑張って自転車漕いだのに、乗り遅れますよ」
「あ、うん」
前の人に続いて乗り込んだ満員電車は、当たり前だけど座れるところなんてなくて。扉の横の鉄の棒を握りしめながら壁にもたれる。
「小晴さん、ちゃんと前を見ないと、大事なものが見えなかったり、乗り過ごしたりしてしまいます。だから一日一回だけでいいから、気持ちも前向きにできたらいいですね」
発車してリズム良く揺れる車内で、岩崎さんはわたしと隙間の間に立って真剣な顔で言った。
「そう、だね」
一日一回くらいなら。辛いことから目を背けて顔を上げる瞬間が意図せずあるだろう。
人間こうして少しづつ、前を向いて立ち直っていくのかもしれない。
「私が失恋の痛みを忘れられるような、綺麗な景色を見せられるように頑張りますね」
「ありがとう」
別に期待はしていないけど。気持ちだけで十分ありがたかった。
誰にも話したことのないこの恋心を、恋の痛みを。わかってくれようとしてくれているだけで救われた気がする。
「どの駅で降りるんですか?」
「次だよ。春之柄」
最寄り駅から五駅離れた春之柄駅は、お母さんの母校でもある上に、駿くんの母校であるから、何度か降りたことがある。
特にこれといって学校までの道のりを歩いたりしてみなかったのは、歩いた経験があるから。
「桜が綺麗ですね」
駅の改札を出ると、余裕のある時間が流れていた。春色の穏やかな景色が流れていて、足取りもつられてゆったりするような気がする。
「この桜ね、駿くんと見たんだ」
少し歩くと、石畳に囲まれた1本の桜の木が見えてくる。小学生の頃、早く駿くんに会いたくて迎えに来たときに一緒に落ちている花弁を拾った思い出がある。
「だから、今は好きじゃない」
わたしはずっと桜に憧れていた。淡くて儚げで、でも何よりも綺麗で美しい。見る人の心を洗うようなその花のようになりたい。なれば、駿くんもわたしのことをもっと好きになる。
そう信じて疑わなかった。
「きっとまた、好きになれます。私にはわかります。あなたは桜と同じくらい美しいと、私は思います」
「……なにそれ」
笑って少し照れた自分を誤魔化した。
誰もそんなこと、言ってくれなかった。
小晴はかわいいね。駿くんはいつもそう言うけど。そのかわいいは、小さい子に向けるような、妹みたいに、という意味なのはよくわかる。
「ありがと」
わたしが言うと、岩崎さんは微笑んで頷いた。
電車に乗っていた人たちの波も過ぎ去ったこの時間は静かで、昨日よりも気が楽に感じた。
「おはようございます。昨夜は寝られなかったようで……。体調はいかがですか?」
なんでわかるんだろう。
心の中でも読む力があるのか、それとも壁をすり抜けられるから部屋まで見に来たのか。
どちらにせよ、得体の知れない岩崎さんと過ごすことに少し不安を感じる。
なんで昨日は、やけにあっさり受け入れられたんだろう。きっと振られたばかりで気が動転していたのもあるかもしれない。
「……わたしの心が読めたりするんですか?」
どちらにせよ、離れられないだろうから、そういうことは早めに知っておく必要があると思った。
余計なことを考えて、声に出さずとも気持ちが良くも悪くも伝わってしまう前に。
「そんな力ありませんよ。ただ、目の下に酷いクマがあるので、夜更かしされたのかなと」
「なんだ、よかった。部屋にも入ってきてないんだよね?」
「もちろんです。呼ばれたときと緊急事態のとき以外は、プライベートもありますからね。入りません。あ、初日は別ですよ?自己紹介しないといけなかったので、仕方なく」
思い出したように、慌てて弁明を始める。
さっきまでの穏やかな話し方とは打って変わって、早口で、よくそんなに早く話して噛まないなと感心するほどだ。
「そっか。それなら、いいの」
岩崎さんを置いて洗面所に顔を洗いに行く。
鏡に映った自分を見て、驚いて自分の目の下に触れたつもりが鏡に映る自分に触れていた。
目の下にある青黒いクマの主張があまりにも強くて、岩崎さんを疑ってしまったことに申し訳なさを感じてしまう。
岩崎さんの言う通り、昨日の夜は全然眠りに付けなくて。ほとんど徹夜状態で朝を迎えた。
昨日、気絶していたのかもしれないけど、睡眠を取れていたのがまるで嘘のように、まぶたを閉じるたびに駿くんとの思い出がビデオのように再生されて。忘れられる気がしなくて。
泣いては眠ろうと目を閉じて。思い出してはまた泣いて。
その繰り返しだった。
「岩崎さんっていくつなの?」
スラッとしていて、まるで社会人のように見える佇まいでだいたい想像はつく。きっと二十五歳くらいだろう。
「十七歳です。ただ、死んでから五年経っているので、生きていたら二十二歳ですかね」
遠くを見る目は、寂しそうだ。
十七歳。わたしの一つ上で人生を終えたんだ。
それなのにやけに大人っぽく見えるのは、高校生らしからぬブラックスーツ姿のせいだろう。
「……なんで、とか、聞いてもいい?」
死神になるということは、誰かに相当恨みがあるのか。それとも他になにか理由があるのかな。
食欲はないものの、何かを食べないといけないような気がして、冷蔵庫に入っている無糖のプレーンヨーグルトを器に移して蜂蜜をかけながら、軽い気持ちで問いかける。
「……そう、ですね。お話したい気持ちはあるのですが……。朝食を食べながら聞く話ではないですから」
そう、岩崎さんは肘を組んで考える。
壁に掛かっているカレンダーを見て、そのあとすぐにわたしを見た。
「今週末、もし予定がなければ少し私に付き合ってくれませんか?」
正直気は乗らない。なんなら家に引きこもっていたかったけど。それこそ岩崎さんの望みには程遠く、わたしの質問に答えてくれようとしているのに失礼になるだろうから。
「うん、いいよ」
わたしは岩崎さんの提案に乗ることにした。
今まで駿くんのことでいっぱいだったから、誰かと出かけるなんてことがなかったからなんだか少し新鮮で。少し緊張してしまう。
「早く準備しないと、遅刻しますよ」
「あ、やばっ」
時計を見ると、午前七時五分。あと二十分後に出る電車に乗らないと、間に合わない時間になっていた。
大口でヨーグルトを胃に流し込み、歯磨きをする。必死に大人に近づきたくて覚えたメイクなんてしている暇なんてなくて、とりあえずトーンアップ効果のある日焼け止めを塗った。そのせいでベタつきが気になるからと、時間と戦いながらベビーパウダーを顔にはたいた。
「行ってきますっ!」
玄関先に置いたスクールバッグをひったくるように手に取って家の鍵をかけた。
七時十五分。電車が出るまであと十分。
歩くと十五分かかるからと、小学生以来乗っていない自転車にまたがった。
春風の爽やかさも暖かくなってきた気候も感じている暇はない。運良く赤信号には引っかからず、発車まで残り三分ほどのギリギリの時間に息を切らして駅のホームにたどり着いた。
「意外と体力あるんですね」
岩崎さんが目を丸くしてわたしの顔を覗き込む。通勤通学ラッシュで騒がしい中に、わたしの小さい声は聞こえないよね。
「体型維持のために、毎日運動してたから」
ここ二日、そんな習慣すら忘れていた。
スラッとした細い脚に十一字に割れた腹筋。鎖骨がキレイに見えるデコルテ。
それらを作るために、毎日運動をして、お風呂上がりにはストレッチとマッサージを欠かさずにやっていた。
全部全部、毎日数十分くらいの小さい積み重ねだけど、小学生の頃から続けてきたことだ。
それがまさかこんなところで役立つというのは想定外だった。
「小晴さんがモデルさんみたいに綺麗なのは、努力の賜物ですね」
にこりと微笑んで、わたしの人生を評価してくれるのが岩崎さんじゃなくて駿くんだったら。
どれほど幸せなんだろう。
岩崎さんに向けた努力じゃないのに。ずっと一途に、駿くんのことを思ってやってきたことなのに。
「……そんなことないよ。わたしの努力なんて、全然足りなかった」
自分でも後ろ向きだと思う。何年も続けてきた習慣を忘れてしまうほど、それでも努力が足りればまだ希望があるんじゃないかと変なところで自分を保っている。
「前を見てください。せっかく頑張って自転車漕いだのに、乗り遅れますよ」
「あ、うん」
前の人に続いて乗り込んだ満員電車は、当たり前だけど座れるところなんてなくて。扉の横の鉄の棒を握りしめながら壁にもたれる。
「小晴さん、ちゃんと前を見ないと、大事なものが見えなかったり、乗り過ごしたりしてしまいます。だから一日一回だけでいいから、気持ちも前向きにできたらいいですね」
発車してリズム良く揺れる車内で、岩崎さんはわたしと隙間の間に立って真剣な顔で言った。
「そう、だね」
一日一回くらいなら。辛いことから目を背けて顔を上げる瞬間が意図せずあるだろう。
人間こうして少しづつ、前を向いて立ち直っていくのかもしれない。
「私が失恋の痛みを忘れられるような、綺麗な景色を見せられるように頑張りますね」
「ありがとう」
別に期待はしていないけど。気持ちだけで十分ありがたかった。
誰にも話したことのないこの恋心を、恋の痛みを。わかってくれようとしてくれているだけで救われた気がする。
「どの駅で降りるんですか?」
「次だよ。春之柄」
最寄り駅から五駅離れた春之柄駅は、お母さんの母校でもある上に、駿くんの母校であるから、何度か降りたことがある。
特にこれといって学校までの道のりを歩いたりしてみなかったのは、歩いた経験があるから。
「桜が綺麗ですね」
駅の改札を出ると、余裕のある時間が流れていた。春色の穏やかな景色が流れていて、足取りもつられてゆったりするような気がする。
「この桜ね、駿くんと見たんだ」
少し歩くと、石畳に囲まれた1本の桜の木が見えてくる。小学生の頃、早く駿くんに会いたくて迎えに来たときに一緒に落ちている花弁を拾った思い出がある。
「だから、今は好きじゃない」
わたしはずっと桜に憧れていた。淡くて儚げで、でも何よりも綺麗で美しい。見る人の心を洗うようなその花のようになりたい。なれば、駿くんもわたしのことをもっと好きになる。
そう信じて疑わなかった。
「きっとまた、好きになれます。私にはわかります。あなたは桜と同じくらい美しいと、私は思います」
「……なにそれ」
笑って少し照れた自分を誤魔化した。
誰もそんなこと、言ってくれなかった。
小晴はかわいいね。駿くんはいつもそう言うけど。そのかわいいは、小さい子に向けるような、妹みたいに、という意味なのはよくわかる。
「ありがと」
わたしが言うと、岩崎さんは微笑んで頷いた。
電車に乗っていた人たちの波も過ぎ去ったこの時間は静かで、昨日よりも気が楽に感じた。


