目を覚ますと、見慣れた天井が広がっていた。
こういうとき、きっとどこだかわからないところにいて、何となく自分の状況を察するものだろう。
でもわたしは、今の状況を全く察することができなかった。
「小晴、入るよ」
コンコン、と扉をノックする音が聞こえて、朝一番にわたしの視界に映ったのは、駿くんの心配そうな瞳だった。
「……駿くん、どうしたの?」
おはようの挨拶もなしに、駿くんの鼻に視線を固定する。
今、駿くんの目を見たら。きっと泣いてしまうから。
「大丈夫か?昨日大変だっただろ。入学式、行けそう?」
一歩、また一歩。確実にベッドの上に起き上がって座ったままのわたしに近づいてくる。
笑えないよ。今日はさすがに、笑えない。
死にそびれたことが悔しい。でも、心配して家まで来てくれる駿くんの頭に、心に、わたしの存在がきっと一晩あったんだと思うと嬉しくなる。
ズレている。
わたしの思考はもう、壊れているに違いない。
事故に遭いかけて狂ってしまったのか。実はどこか大事な細胞だけが飛んでいってしまったのか。
気持ち悪いくらい矛盾している自分の感情が、わたしのことをさらに嫌いにさせる。
「なにより、小晴がなんともなくてよかったよ」
ため息混じりの声で、目の前で立ち止まったかと思ったら、膝立ちになってわたしを抱き寄せた。
「……うん」
駿くんの温かさに包まれて、信じられないくらい胸が痛かった。苦しくて、喉がつかえて。頷くことも一苦労だった。
それなのに、すぐに離れた温もりは寂しくて。
矛盾した気持ちが、わたしの気分をさらに落としていく。
「俺、今から帰らないといけないんだけどさ。一つ約束してくれる?」
目線の高さはそのままに、まるで懇願するようにわたしの両手を強く握った。
「俺より先に死なないで。小晴のことが、一番大切だから。お願い」
小刻みに震えるその手に、駿くんの中のわたしという存在の大きさを知れた気がする。
もちろん、まだ死にたいほど苦しいけど、この恋心を知られないためには笑ってあげないといけないと思った。
「……うん。ごめんね、駿くん」
いつも色々な変化に気付く駿くんも、五年という長い月日が経っているからなのか、それとも相当心配をかけて動揺させてしまったのか、わたしの渾身の作り笑いには気付かなかった。
「ほんと、轢かれる前に尻もちついてくれてよかったよ。歩道から一歩しかはみ出てなかったからかな」
わたしの記憶と噛み合わない記憶を話す駿くんに、深く話を聞く気にもなれなずに、とりあえず微笑んで頷いた。
「じゃあ、俺もう行くわ。なんかあったら、連絡しろよ」
「うん」
手を振る駿くんに手を振り返して立ち上がると、ちょうど死角になっていた場所にブラックスーツを着た男性が立っていることに気がついた。
思わず息を呑む。人は本当に怖いと叫び声すらでないのだと、こんなときにどこか他人事で実感している。
……駿くん気付かなかったのかな。
ていうか、あれ誰?泥棒?
いや、よく見たら足が浮いてるし……。
……え、足浮いてる?幽霊じゃん。
頭の中で状況を把握しようと試みるも、やはり理解できない。
しばらく固まってその人を見ていると、痺れを切らしたのかこちらへ向かってくる。
足を踏み出して歩いているのに、足音のひとつも無いまま、わたしの目の前で静止する。
思わずベッドに座り込んだわたしと視線を合わせて、その幽霊は口を開いた。
「初めまして。驚かせてしまってすみません。私、未来死亡者担当の死神の、岩崎蓮と申します」
ポケットから取り出された黒ベースに白文字の名刺が、目の前でゆらゆらと揺れる。
電話番号もメールアドレスも何も書いていない、所属と名前だけのシンプルなそれは、音も立てずに机の上に着地した。
もう一度まじまじとそれを読むも、理解が追いつかない。
「しに、がみ……?」
わたしはまだ、夢を見ているのだろうか。
はたまた、トラックに轢かれたせいで意識不明で入院しているのだろうか。
死後の世界とは、なんだかまた別物のような気がするのは、生死をさまよっているから?
聞いてもいいのかわからない問いが、頭の中をぐるぐる巡る。
「小晴ー!そろそろ降りてきて朝ごはん食べなさい!」
わたしが言葉を発しようとすると、それをお母さんが制止した。開けっ放しになっているわたしの部屋の扉から顔をのぞかせて、呆れたような顔でわたしを見る。
「まだパジャマなの?入学式遅れるじゃない」
おたまを片手に、上下に振ってわたしを急かす。
思わず目の前に立ったままの死神と名乗る彼を見ると、お母さんもわたしの視線の先を追って扉の横の壁を見た。
「なに、虫でもでた?」
やはりお母さんにも彼は見えていないらしい。
完全に虫が出たと勘違いしたお母さんは、おたまを武器に部屋に入ってくる。それで虫を潰すつもりなのかな。そんなおたまで掬ったスープなんて飲みたくないな。
「虫なんていないよ。すぐ着替える」
ベッドから立ち上がって制服を手に取ると、お母さんは「早くしなさいよ」と言い残して部屋の扉を閉めた。
「あの、あなたってわたしにしか見えないの?」
制服を抱きしめて、わたしより少し背の高い彼に尋ねる。聞かなくても、駿くんといいお母さんといい、気付かなかったんだからそうに違いないと思うけど。
「はい。私の存在は、担当する方にしか見えないようになっています」
「……やっぱりそうなんだ……」
訳もわからないまま相槌を打っていると、彼はわたしの部屋の壁を通り抜けた。
「早く着替えないと、お時間が……」
壁の向こうから、彼の声がはっきり聞こえる。
着替えないといけないから、出て行ってくれたんだ。
死神にしては、気が利いている気がする。
死神の基準なんて、知らないけどさ。
「ありがとう……」
気遣いのある行動に呆気にとられながら、真新しい制服に袖を通す。
一度も洗濯をしていない、匂いのない服がわたしの肩に着地する。
進学したら制服を買い直すように、わたしの心も新しいものに買い換えられたら。
新しい制服に柔軟剤の匂いが付くように、新品ピカピカになったわたしの心を染め直すことができたらいいのに。
そんなことを思いつつ、駿くんに制服姿を見てもらえたら、可愛いって思ってもらえたかな、なんて。
忘れたいのに、忘れることが怖い。
今までの生き方を全て否定するみたいで、怖い。
だから結局矛盾した心のまま、汚れひとつないピカピカのスクールバッグを肩にかけて部屋を出る。
駿くんとのツーショットをスマホの待ち受けにしたまま。
こういうとき、きっとどこだかわからないところにいて、何となく自分の状況を察するものだろう。
でもわたしは、今の状況を全く察することができなかった。
「小晴、入るよ」
コンコン、と扉をノックする音が聞こえて、朝一番にわたしの視界に映ったのは、駿くんの心配そうな瞳だった。
「……駿くん、どうしたの?」
おはようの挨拶もなしに、駿くんの鼻に視線を固定する。
今、駿くんの目を見たら。きっと泣いてしまうから。
「大丈夫か?昨日大変だっただろ。入学式、行けそう?」
一歩、また一歩。確実にベッドの上に起き上がって座ったままのわたしに近づいてくる。
笑えないよ。今日はさすがに、笑えない。
死にそびれたことが悔しい。でも、心配して家まで来てくれる駿くんの頭に、心に、わたしの存在がきっと一晩あったんだと思うと嬉しくなる。
ズレている。
わたしの思考はもう、壊れているに違いない。
事故に遭いかけて狂ってしまったのか。実はどこか大事な細胞だけが飛んでいってしまったのか。
気持ち悪いくらい矛盾している自分の感情が、わたしのことをさらに嫌いにさせる。
「なにより、小晴がなんともなくてよかったよ」
ため息混じりの声で、目の前で立ち止まったかと思ったら、膝立ちになってわたしを抱き寄せた。
「……うん」
駿くんの温かさに包まれて、信じられないくらい胸が痛かった。苦しくて、喉がつかえて。頷くことも一苦労だった。
それなのに、すぐに離れた温もりは寂しくて。
矛盾した気持ちが、わたしの気分をさらに落としていく。
「俺、今から帰らないといけないんだけどさ。一つ約束してくれる?」
目線の高さはそのままに、まるで懇願するようにわたしの両手を強く握った。
「俺より先に死なないで。小晴のことが、一番大切だから。お願い」
小刻みに震えるその手に、駿くんの中のわたしという存在の大きさを知れた気がする。
もちろん、まだ死にたいほど苦しいけど、この恋心を知られないためには笑ってあげないといけないと思った。
「……うん。ごめんね、駿くん」
いつも色々な変化に気付く駿くんも、五年という長い月日が経っているからなのか、それとも相当心配をかけて動揺させてしまったのか、わたしの渾身の作り笑いには気付かなかった。
「ほんと、轢かれる前に尻もちついてくれてよかったよ。歩道から一歩しかはみ出てなかったからかな」
わたしの記憶と噛み合わない記憶を話す駿くんに、深く話を聞く気にもなれなずに、とりあえず微笑んで頷いた。
「じゃあ、俺もう行くわ。なんかあったら、連絡しろよ」
「うん」
手を振る駿くんに手を振り返して立ち上がると、ちょうど死角になっていた場所にブラックスーツを着た男性が立っていることに気がついた。
思わず息を呑む。人は本当に怖いと叫び声すらでないのだと、こんなときにどこか他人事で実感している。
……駿くん気付かなかったのかな。
ていうか、あれ誰?泥棒?
いや、よく見たら足が浮いてるし……。
……え、足浮いてる?幽霊じゃん。
頭の中で状況を把握しようと試みるも、やはり理解できない。
しばらく固まってその人を見ていると、痺れを切らしたのかこちらへ向かってくる。
足を踏み出して歩いているのに、足音のひとつも無いまま、わたしの目の前で静止する。
思わずベッドに座り込んだわたしと視線を合わせて、その幽霊は口を開いた。
「初めまして。驚かせてしまってすみません。私、未来死亡者担当の死神の、岩崎蓮と申します」
ポケットから取り出された黒ベースに白文字の名刺が、目の前でゆらゆらと揺れる。
電話番号もメールアドレスも何も書いていない、所属と名前だけのシンプルなそれは、音も立てずに机の上に着地した。
もう一度まじまじとそれを読むも、理解が追いつかない。
「しに、がみ……?」
わたしはまだ、夢を見ているのだろうか。
はたまた、トラックに轢かれたせいで意識不明で入院しているのだろうか。
死後の世界とは、なんだかまた別物のような気がするのは、生死をさまよっているから?
聞いてもいいのかわからない問いが、頭の中をぐるぐる巡る。
「小晴ー!そろそろ降りてきて朝ごはん食べなさい!」
わたしが言葉を発しようとすると、それをお母さんが制止した。開けっ放しになっているわたしの部屋の扉から顔をのぞかせて、呆れたような顔でわたしを見る。
「まだパジャマなの?入学式遅れるじゃない」
おたまを片手に、上下に振ってわたしを急かす。
思わず目の前に立ったままの死神と名乗る彼を見ると、お母さんもわたしの視線の先を追って扉の横の壁を見た。
「なに、虫でもでた?」
やはりお母さんにも彼は見えていないらしい。
完全に虫が出たと勘違いしたお母さんは、おたまを武器に部屋に入ってくる。それで虫を潰すつもりなのかな。そんなおたまで掬ったスープなんて飲みたくないな。
「虫なんていないよ。すぐ着替える」
ベッドから立ち上がって制服を手に取ると、お母さんは「早くしなさいよ」と言い残して部屋の扉を閉めた。
「あの、あなたってわたしにしか見えないの?」
制服を抱きしめて、わたしより少し背の高い彼に尋ねる。聞かなくても、駿くんといいお母さんといい、気付かなかったんだからそうに違いないと思うけど。
「はい。私の存在は、担当する方にしか見えないようになっています」
「……やっぱりそうなんだ……」
訳もわからないまま相槌を打っていると、彼はわたしの部屋の壁を通り抜けた。
「早く着替えないと、お時間が……」
壁の向こうから、彼の声がはっきり聞こえる。
着替えないといけないから、出て行ってくれたんだ。
死神にしては、気が利いている気がする。
死神の基準なんて、知らないけどさ。
「ありがとう……」
気遣いのある行動に呆気にとられながら、真新しい制服に袖を通す。
一度も洗濯をしていない、匂いのない服がわたしの肩に着地する。
進学したら制服を買い直すように、わたしの心も新しいものに買い換えられたら。
新しい制服に柔軟剤の匂いが付くように、新品ピカピカになったわたしの心を染め直すことができたらいいのに。
そんなことを思いつつ、駿くんに制服姿を見てもらえたら、可愛いって思ってもらえたかな、なんて。
忘れたいのに、忘れることが怖い。
今までの生き方を全て否定するみたいで、怖い。
だから結局矛盾した心のまま、汚れひとつないピカピカのスクールバッグを肩にかけて部屋を出る。
駿くんとのツーショットをスマホの待ち受けにしたまま。


