「俺、結婚しました」
隣でご飯を食べる駿くんの思わぬ告白に、思わず箸を落とした。
カラン、と軽い音が食卓に響く。
「___え、今なんて?」
すぐに聞き返してしまう。
今聞こえた言葉が、現実でないことを祈りながら。
「結婚したんだ。夏に結婚式もやるんだよ」
わたしの落とした箸を拾いながら、見たことのない幸せそうな顔を向けられる。
なんて言おうか。
真っ白になった頭の中では、なんの言葉も浮かばない。
「まぁ!おめでとう」
一瞬の間を埋めるように、お母さんの高い声が食卓に響いた。
「いやぁ。駿也くんも、もう結婚かぁ。時が経つのは早いなぁ」
次に、お父さんがしみじみと今までを噛み締めるように何度も頷いて、「おめでとう」と潤んだ瞳で言った。
まるで我が子が旅立つみたいな雰囲気に、げんなりしてしまう。
駿くんこと柊木駿也くんは、わたしの十個上のお兄ちゃん。
お兄ちゃんといえど、血は繋がっていない。
ただ隣の家に住んでいるってだけの、幼なじみみたいな関係性だ。
「早いといえば、小晴も見ないうちに、もう高校生か」
そうだよ。やっと、あともう少しで手が届くと思っていたのに。
赤いチューリップと白いかすみ草の花束を持ってうちにやってきたときは、幸せで、空だって飛べそうなほどだったのに。
花束の重みが、わたしへの気持ちの重みみたいで嬉しかったのに。
社会人になって五年目の駿くんは、いつしかもう、そんな遠くにいたんだね。
「そうだよ。だって最後に会ったの、五年前のお正月だよ?」
なるべくいつも通りを装って会話をする。
いつも通りといいつつも、久々だからよくわからない。
さっきと同じ声のトーンで、笑顔で、テンポで。ちゃんと話せてる?
誰にも聞けない不安を自分に問いかけて、また不安になる。
「もうそんなになる?そりゃあ、こんなに立派なお姉さんになるよね」
嬉しいような、子ども扱いされてるみたいで悲しいような。
どっちつかずの感情が、わたしの中を走り回る。
高校卒業後は県外の短大に行って、二十歳から大手家電メーカーの営業職をしている駿くんだ。
周りにはきっと、素敵な大人が山ほどいたのだろう。
年の差のせいで、わたしの恋は一度もいい方に傾いたことがなかった。
いつだって、『隣の家に住んでいる妹みたいな子』という肩書きから外れることはなかった。
でも、いつか。いつかきっとって、努力を重ねてきたのに。
見合う大人になりたくて、大嫌いな勉強もたくさんして、自分磨きも義務感のようにはなっていたけど、頑張ってきたつもりだ。
でももう、もしかしたらって微かな希望を持つことさえできない。
恋って、夢中になっているときは世界が輝いて、なんにでもなれそうなくらいふわふわしているのに。終わりが来ると、まるで垂直のジェットコースターみたいに気分が落ちる。
世界を映し出していた瞳からフィルターが外れて、少し暗い、そんな世界に変わる。未来に希望を持つことさえ、難しいような世界に。
「わたし、ちょっとコンビニ行ってくる」
夜ご飯を口の中に詰め込んで、この場を離れる口実を作った。
明るさを失った世界から逃げたかった。
でも何より、自分の口からいつ駿くんを傷つける言葉が出てくるかわからなくて、怖かった。
なんで結婚するの?
わたしだって。いや、きっとわたしの方が。ずっと長く駿くんのことが好きなのに。
結婚なんてしないでよ。
どうせろくな人じゃないよ。
そう、気持ちが暴走してしまいそうだから。
それなのに。
立ち上がって食器を持ったわたしの手を、ここから動かせないように掴まれる。
素肌に触れた駿くんの手は、温かかった。
「俺も一緒に行くよ。もう暗いし」
「……いいよ。だって駿くんは、この場の主役だよ?ここにいないと」
そう言いつつ、振りほどけない。
心情の矛盾が、わたしをどうしようもなく黒い感情で包んでいく。
「小晴の貴重な時間だろ?俺のことなんてどうでもいいよ」
諭したいんだろうけど、逆効果だ。
どうでもよくないようにしたのは、駿くんのくせに。
お母さんとお父さんと過ごす時間も貴重だけど、駿くんと過ごす時間も同じくらい貴重なはずなのに。
わたしはまるで、空気を読めない脇役みたい。
「ほら、座りな?」
せっかくしまった椅子を、また引かれる。
目を閉じて、ゆっくり酸素を体に取り込んだ。
「でもやっぱり、行ってくる。結婚祝いのケーキ買いたいの。だから一人で行かせて」
自分の中の精一杯の冷静な感情で。
今できる一番の笑顔で。
そっと駿くんの手を振りほどいた。
食卓に置かれた、花瓶にいけられた花束を気付かれないように睨みつけたあと、拍子抜けしている駿くんから逃げるようにリビングを出た。
「気を付けてな」
靴を履いている最中、リビングの扉を少し開けて心配そうな顔を向けられる。
「すぐそこだから。そんなに心配しなくて大丈夫だよ」
愛おしいから心配する。
そんな瞳じゃなくて、少し過剰に妹を心配する兄のような目だった。
「行ってきます」
「うん。行ってらっしゃい」
にこりと微笑む駿くんに軽く手を振って、家を出る。
四月の冬混じりの冷たい春の空気が、身体と一緒に頭を冷やしてくれる。
どうせなら一緒に、気持ちも冷ましてくれたらいいのに。なんて、トレンチコートのポケットに手を突っ込んで考える。
いっその事、嫌いになれたらいいのに。
そうしたら誰も苦しまなくて済むのに。
そう思っていてもなお、わたしの中を流れる黒くてドロドロした感情と、冷たい悲しみが心を支配する。
こんな自分、大嫌い。
好きな人の幸せを願うことができるような、綺麗な人でありたかった。
そう。まるで、こんなふうに。
夜でも人を惹きつける、満開の桜みたいに。
そんな人間でいられたらよかったのに。
あぁ。もうどうせ、生きがいがなくなってしまったんだから。
「……このまま死んでしまえたらいいのになぁ」
そうしたら、この持っていても迷惑をかけるだけの恋心とか、自分の中の嫌な感情とか。
そんなものを全て綺麗さっぱり捨てられるのに。
歩行者信号の先、明るく光るコンビニの看板を視界の隅に移して、それより少し近くにある桜の木に焦点を合わせた。
うちの一番近くの、淡墨桜。
駿くんとの思い出の詰まった、淡墨桜。
ずっとその麗しさに憧れていた、淡墨桜。
今年はこの気温もあってか遅咲きで、お母さんが入学式に重なってくれて嬉しいと話していた。
暗闇なのに、信号の赤い光に負けない迫力がある。
まるで呼ばれているみたいに、つい足を前へと進めていた。
横断歩道に差し掛かると、ちょうどパッと青信号に変わり、向こう側から素早く自転車が横を走っていった。
チラッとこちらを見た目は、明らかに頭のおかしい人を見るものだった。
そりゃあそうだよね。交通量が多いこの交差点で、信号無視をしかけたんだから。
一歩一歩確実に、地面を踏み締めて横断歩道の真ん中辺りに差し掛かったころ。
耳障りな音と目が眩むほどの光が、わたしに向かって走ってきた。
『このまま死んでしまえたらいいのになぁ』
さっきの独り言が、脳内に浮かんだ。
それと同時に、近付いてくる大型トラックの運転手の人の真っ青な顔が、ライトの隙間からハッキリと目に入った。
「……あははっ」
望むものは、駿くんは。手に入らない人生だった。
それなのに。こんな、絶望まみれの望みは叶うんだね。
諦めと、絶望と。ほんの少しだけ、やっと楽になれるという期待と。
その全てを含んだ笑いは、道路とタイヤの擦れる明らかに遅いブレーキ音と何度も鳴らされるクラクションに掻き消されていた。
隣でご飯を食べる駿くんの思わぬ告白に、思わず箸を落とした。
カラン、と軽い音が食卓に響く。
「___え、今なんて?」
すぐに聞き返してしまう。
今聞こえた言葉が、現実でないことを祈りながら。
「結婚したんだ。夏に結婚式もやるんだよ」
わたしの落とした箸を拾いながら、見たことのない幸せそうな顔を向けられる。
なんて言おうか。
真っ白になった頭の中では、なんの言葉も浮かばない。
「まぁ!おめでとう」
一瞬の間を埋めるように、お母さんの高い声が食卓に響いた。
「いやぁ。駿也くんも、もう結婚かぁ。時が経つのは早いなぁ」
次に、お父さんがしみじみと今までを噛み締めるように何度も頷いて、「おめでとう」と潤んだ瞳で言った。
まるで我が子が旅立つみたいな雰囲気に、げんなりしてしまう。
駿くんこと柊木駿也くんは、わたしの十個上のお兄ちゃん。
お兄ちゃんといえど、血は繋がっていない。
ただ隣の家に住んでいるってだけの、幼なじみみたいな関係性だ。
「早いといえば、小晴も見ないうちに、もう高校生か」
そうだよ。やっと、あともう少しで手が届くと思っていたのに。
赤いチューリップと白いかすみ草の花束を持ってうちにやってきたときは、幸せで、空だって飛べそうなほどだったのに。
花束の重みが、わたしへの気持ちの重みみたいで嬉しかったのに。
社会人になって五年目の駿くんは、いつしかもう、そんな遠くにいたんだね。
「そうだよ。だって最後に会ったの、五年前のお正月だよ?」
なるべくいつも通りを装って会話をする。
いつも通りといいつつも、久々だからよくわからない。
さっきと同じ声のトーンで、笑顔で、テンポで。ちゃんと話せてる?
誰にも聞けない不安を自分に問いかけて、また不安になる。
「もうそんなになる?そりゃあ、こんなに立派なお姉さんになるよね」
嬉しいような、子ども扱いされてるみたいで悲しいような。
どっちつかずの感情が、わたしの中を走り回る。
高校卒業後は県外の短大に行って、二十歳から大手家電メーカーの営業職をしている駿くんだ。
周りにはきっと、素敵な大人が山ほどいたのだろう。
年の差のせいで、わたしの恋は一度もいい方に傾いたことがなかった。
いつだって、『隣の家に住んでいる妹みたいな子』という肩書きから外れることはなかった。
でも、いつか。いつかきっとって、努力を重ねてきたのに。
見合う大人になりたくて、大嫌いな勉強もたくさんして、自分磨きも義務感のようにはなっていたけど、頑張ってきたつもりだ。
でももう、もしかしたらって微かな希望を持つことさえできない。
恋って、夢中になっているときは世界が輝いて、なんにでもなれそうなくらいふわふわしているのに。終わりが来ると、まるで垂直のジェットコースターみたいに気分が落ちる。
世界を映し出していた瞳からフィルターが外れて、少し暗い、そんな世界に変わる。未来に希望を持つことさえ、難しいような世界に。
「わたし、ちょっとコンビニ行ってくる」
夜ご飯を口の中に詰め込んで、この場を離れる口実を作った。
明るさを失った世界から逃げたかった。
でも何より、自分の口からいつ駿くんを傷つける言葉が出てくるかわからなくて、怖かった。
なんで結婚するの?
わたしだって。いや、きっとわたしの方が。ずっと長く駿くんのことが好きなのに。
結婚なんてしないでよ。
どうせろくな人じゃないよ。
そう、気持ちが暴走してしまいそうだから。
それなのに。
立ち上がって食器を持ったわたしの手を、ここから動かせないように掴まれる。
素肌に触れた駿くんの手は、温かかった。
「俺も一緒に行くよ。もう暗いし」
「……いいよ。だって駿くんは、この場の主役だよ?ここにいないと」
そう言いつつ、振りほどけない。
心情の矛盾が、わたしをどうしようもなく黒い感情で包んでいく。
「小晴の貴重な時間だろ?俺のことなんてどうでもいいよ」
諭したいんだろうけど、逆効果だ。
どうでもよくないようにしたのは、駿くんのくせに。
お母さんとお父さんと過ごす時間も貴重だけど、駿くんと過ごす時間も同じくらい貴重なはずなのに。
わたしはまるで、空気を読めない脇役みたい。
「ほら、座りな?」
せっかくしまった椅子を、また引かれる。
目を閉じて、ゆっくり酸素を体に取り込んだ。
「でもやっぱり、行ってくる。結婚祝いのケーキ買いたいの。だから一人で行かせて」
自分の中の精一杯の冷静な感情で。
今できる一番の笑顔で。
そっと駿くんの手を振りほどいた。
食卓に置かれた、花瓶にいけられた花束を気付かれないように睨みつけたあと、拍子抜けしている駿くんから逃げるようにリビングを出た。
「気を付けてな」
靴を履いている最中、リビングの扉を少し開けて心配そうな顔を向けられる。
「すぐそこだから。そんなに心配しなくて大丈夫だよ」
愛おしいから心配する。
そんな瞳じゃなくて、少し過剰に妹を心配する兄のような目だった。
「行ってきます」
「うん。行ってらっしゃい」
にこりと微笑む駿くんに軽く手を振って、家を出る。
四月の冬混じりの冷たい春の空気が、身体と一緒に頭を冷やしてくれる。
どうせなら一緒に、気持ちも冷ましてくれたらいいのに。なんて、トレンチコートのポケットに手を突っ込んで考える。
いっその事、嫌いになれたらいいのに。
そうしたら誰も苦しまなくて済むのに。
そう思っていてもなお、わたしの中を流れる黒くてドロドロした感情と、冷たい悲しみが心を支配する。
こんな自分、大嫌い。
好きな人の幸せを願うことができるような、綺麗な人でありたかった。
そう。まるで、こんなふうに。
夜でも人を惹きつける、満開の桜みたいに。
そんな人間でいられたらよかったのに。
あぁ。もうどうせ、生きがいがなくなってしまったんだから。
「……このまま死んでしまえたらいいのになぁ」
そうしたら、この持っていても迷惑をかけるだけの恋心とか、自分の中の嫌な感情とか。
そんなものを全て綺麗さっぱり捨てられるのに。
歩行者信号の先、明るく光るコンビニの看板を視界の隅に移して、それより少し近くにある桜の木に焦点を合わせた。
うちの一番近くの、淡墨桜。
駿くんとの思い出の詰まった、淡墨桜。
ずっとその麗しさに憧れていた、淡墨桜。
今年はこの気温もあってか遅咲きで、お母さんが入学式に重なってくれて嬉しいと話していた。
暗闇なのに、信号の赤い光に負けない迫力がある。
まるで呼ばれているみたいに、つい足を前へと進めていた。
横断歩道に差し掛かると、ちょうどパッと青信号に変わり、向こう側から素早く自転車が横を走っていった。
チラッとこちらを見た目は、明らかに頭のおかしい人を見るものだった。
そりゃあそうだよね。交通量が多いこの交差点で、信号無視をしかけたんだから。
一歩一歩確実に、地面を踏み締めて横断歩道の真ん中辺りに差し掛かったころ。
耳障りな音と目が眩むほどの光が、わたしに向かって走ってきた。
『このまま死んでしまえたらいいのになぁ』
さっきの独り言が、脳内に浮かんだ。
それと同時に、近付いてくる大型トラックの運転手の人の真っ青な顔が、ライトの隙間からハッキリと目に入った。
「……あははっ」
望むものは、駿くんは。手に入らない人生だった。
それなのに。こんな、絶望まみれの望みは叶うんだね。
諦めと、絶望と。ほんの少しだけ、やっと楽になれるという期待と。
その全てを含んだ笑いは、道路とタイヤの擦れる明らかに遅いブレーキ音と何度も鳴らされるクラクションに掻き消されていた。


