* * *
時は一年前に遡る。
中学三年生。完全にいじめられっ子というレッテルが貼られたまま、最後の一年を過ごしていた。
彼女に出会う前、三年間いじめられ続けていた僕の心はズタズタで、目の前は常に真っ暗闇だった。
「お前ムカつくんだよ」
三年間飽きずに僕をいじめ続けた三人組の一人が、ある種の口癖のように僕の机に手をついて叫んだ。
少しズラした回答を書きながら、字体を歪ませながら書き込んだ、渡したばかりの彼らの分の課題を床に撒き散らす。
「お前の誤魔化しが下手だから、俺らが怒られたんだわ。成績下がったらどうしてくれんだよ」
とてもとても、理不尽だ。
クラスメイトは僕への叱責を見て見ぬふりしながらも、誰も何も話さない。
シンとした教室に、三人組のリーダーの怒号が響いていた。
なぜこんなことになってしまったのか。なぜ、僕はいじめられているのか。
そのきっかけは、とても些細なものだったと思う。
「なぁ、ちょっとパシられてくんない?」
中学一年生のころのその一言が全ての始まりだった。そんなことも知らずに、前の席に座る僕を苦しめることになる彼の言葉に頷いた。
パシられる内容は、非常に簡単なものだった。
喉が渇いたが、手が離せない。お金はあとで払うから、一階にある自動販売機でコーラを買ってきてほしい。
それだけだった。
買ってきたものは、特に吹き出したりすることもなく、至って普通のコーラだったと思う。
でもその日から、僕といじめっ子三人組の価値観が合わない友達(仮)というような関係がスタートしたのだ。
初めは荷物持ちやおつかいなど、ちょっとこの人たち変わってんな、くらいで済むようなことだった。
しかし、一ヶ月二ヶ月、一年、二年。
確実に流れる時間によって、何に対しても言い返さない僕がつまらなくなったのか、サンドバッグにちょうどいいとでも思ったのか。
友達(仮)という関係は時間が経つと確実に歪み、いつしか売店で買わされた三人の昼食代は返ってこなくなった。
三人組の分の課題を押し付けられるようになった。
気に入らないことがあると、僕を罵るようになった。
指折り数えるとそれだけかと言われるかもしれないけど、それだけで僕は苦しかった。
癒えない心の傷が、日に日に増えていく。癒える間もなく、元ある傷の上から再び傷つけられる。
そんな日々だった。
「死ねよ」「お前なんて無価値なんだよ」「この役立たず」「なんでこんなとこにいんの?」
頭の中で何度も何度も、浴びせられてきた言葉がループする。
耐えきれない。学校に行きたくない。
……このまま、夜が明けなければいいのに。
冬の寒空で星が綺麗に瞬く夜八時。
人は、死ぬと星になると言う。
おばあちゃんが死んで悲しくて眠れなかった夜、星空を指さしながら母さんが教えてくれた。
そのせいだろうか。僕には空に瞬く星々がいつにも増して輝いて見えたのは。
母が珍しく飲み会に出かけた、一人の夜。
僕の思考を飲み込んだ暗い気持ちは、いつしか考えることのコントロールの指揮権を奪い取った。
思考が正常に戻ったのは、正常じゃない思考になってからそう長くはなかったと思う。
靴下が濡れた感覚で、僕はハッとした。
ぽたぽたと、赤い液体が僕の足元を濡らしていく。
……どうしよう。どうしよう、これ。どうしたらいい?
自分の行動のくせに、パニックになってしまって家を飛び出した。
どうにかしてこの血を止めないと。止めないと、母さんに迷惑がかかる。
どこに行くべきなのかもわからないまま、僕はどこへ行くのかもわからない電車に乗っていた。
手元にあったハンカチで涙目になりながら手首を押えながら座席に座る。
一駅、二駅と降りずに座っていると、少しづつ周りの視線が気になり始めた。
僕のことは全く見ていないのかもしれないのに、普通じゃ有り得ないことをしてしまったせいで全ての感覚がバグっていたんだと思う。
いたたまれなくなってしまって降りた駅。
逃げるように改札を抜け、少し走ったところに見つけた公園のブランコに座った。
止まったのか、まだ滲んでいるのか。
暗いからよくわからないけど、赤くなったハンカチの色だけはしっかりわかることに絶望しかけていたときだった。
「あ、ここに人いるの初めて見た」
女の子が僕の隣に座って、声をかけた。
顔を上げると、キィ、と金具が擦れる音がする。
今の僕には受け入れられなさそうな、キラキラした女の子がそこにいた。
宝石箱をひっくり返したような輝きを持つ、僕と違って毎日充実していそうな女の子だ。
「……え、ちょっと大丈夫?」
そっちが声をかけてきたくせに、全然目が合わないじゃないか。
そう思った矢先、彼女は僕に近づいてしゃがんだ。
「包帯とか、持ってくるから。ここでちょっと待ってて」
驚くわけでも、見て見ぬふりをするわけでもない。
変な人だと言わんばかりに向けられる視線とは違う、少しもたれかかりたくなるような優しい視線。
落ち着いた口調に、心配が混ざっているような気がする深みのある声。
「そんな、悪いよ……」
「気にしないで。一人で手当てするの、大変でしょ?」
彼女は街灯の下で振り向くと、微笑んだ。
その瞬間、ふわっと花が舞うような、さっきの輝きとはまた違う色が彼女の周りに広がった。
五分もしないうちに、彼女は救急箱とレジ袋を持ってパタパタと走って戻ってきた。
「ごめんね、お待たせ」
躊躇せずに地面に救急箱を置き、蓋を開けた。
薬箱特有のツンとする香りが鼻に届く。
「痛いと思うけど……ごめんね」
彼女が謝ることは何もないのに、ごめん、ごめんと謝りながら、僕の腕に消毒を染み込ませたコットンを当てた。
「いっ、っー」
声にならない声が口から零れる。
スマホのライトを頼りに、彼女は傷口を消毒して、ガーゼを当てて、包帯を丁寧に巻いてくれた。
「できた。痛くしちゃって本当にごめんね」
「ううん。ありがとう。助かったよ」
「よかった」
救急箱の蓋を閉じて、隅に置いたまま僕の隣のブランコに再び腰掛けた。
「わたしね、好きな人と同じ高校を受験するの。でも、頭がいいところでね、勉強詰めだったから逃げ出してきちゃった」
小さく笑う彼女は、同い年だったらしい。
月とすっぽんくらいの差がこのブランコの間にはあるように感じてしまうほど、彼女は輝いてその光が廃ることなんてなさそうに見えた。
そんな彼女の口から出てきた「好きな人」という言葉に、僕の心はなぜかチクリと傷んだ。
「どこの高校に行くの?」
「春之柄高校。結構背伸びしてるところ」
僕の家から二駅離れたところで近く、頭の悪いいじめっ子には到底行けなさそうな高校だ。
「そうなんだ。恋、してるんだね」
「うん。ずーっと好きな人がいるの。恋ってね、素敵なんだよ。世界が満点の星空みたいにキラキラして見えるの」
知らない誰かを思い浮かべながら笑う彼女は、とても美しく見えた。
それからの僕は、毎日必死だった。
もう一度彼女に会いたい。
名前も知らない彼女に、もう一度会えたら。そのときは恥ずかしくない自分でいたい。
その一心で、春之柄高校に行くことを目指して生きてきた。
彼女は僕の恩人で、好きな人だ。
僕の暗闇まみれの世界を変えた、たった一人の女の子。
本当にもう一度会えるなんて、奇跡だったのだ。
* * *
時は一年前に遡る。
中学三年生。完全にいじめられっ子というレッテルが貼られたまま、最後の一年を過ごしていた。
彼女に出会う前、三年間いじめられ続けていた僕の心はズタズタで、目の前は常に真っ暗闇だった。
「お前ムカつくんだよ」
三年間飽きずに僕をいじめ続けた三人組の一人が、ある種の口癖のように僕の机に手をついて叫んだ。
少しズラした回答を書きながら、字体を歪ませながら書き込んだ、渡したばかりの彼らの分の課題を床に撒き散らす。
「お前の誤魔化しが下手だから、俺らが怒られたんだわ。成績下がったらどうしてくれんだよ」
とてもとても、理不尽だ。
クラスメイトは僕への叱責を見て見ぬふりしながらも、誰も何も話さない。
シンとした教室に、三人組のリーダーの怒号が響いていた。
なぜこんなことになってしまったのか。なぜ、僕はいじめられているのか。
そのきっかけは、とても些細なものだったと思う。
「なぁ、ちょっとパシられてくんない?」
中学一年生のころのその一言が全ての始まりだった。そんなことも知らずに、前の席に座る僕を苦しめることになる彼の言葉に頷いた。
パシられる内容は、非常に簡単なものだった。
喉が渇いたが、手が離せない。お金はあとで払うから、一階にある自動販売機でコーラを買ってきてほしい。
それだけだった。
買ってきたものは、特に吹き出したりすることもなく、至って普通のコーラだったと思う。
でもその日から、僕といじめっ子三人組の価値観が合わない友達(仮)というような関係がスタートしたのだ。
初めは荷物持ちやおつかいなど、ちょっとこの人たち変わってんな、くらいで済むようなことだった。
しかし、一ヶ月二ヶ月、一年、二年。
確実に流れる時間によって、何に対しても言い返さない僕がつまらなくなったのか、サンドバッグにちょうどいいとでも思ったのか。
友達(仮)という関係は時間が経つと確実に歪み、いつしか売店で買わされた三人の昼食代は返ってこなくなった。
三人組の分の課題を押し付けられるようになった。
気に入らないことがあると、僕を罵るようになった。
指折り数えるとそれだけかと言われるかもしれないけど、それだけで僕は苦しかった。
癒えない心の傷が、日に日に増えていく。癒える間もなく、元ある傷の上から再び傷つけられる。
そんな日々だった。
「死ねよ」「お前なんて無価値なんだよ」「この役立たず」「なんでこんなとこにいんの?」
頭の中で何度も何度も、浴びせられてきた言葉がループする。
耐えきれない。学校に行きたくない。
……このまま、夜が明けなければいいのに。
冬の寒空で星が綺麗に瞬く夜八時。
人は、死ぬと星になると言う。
おばあちゃんが死んで悲しくて眠れなかった夜、星空を指さしながら母さんが教えてくれた。
そのせいだろうか。僕には空に瞬く星々がいつにも増して輝いて見えたのは。
母が珍しく飲み会に出かけた、一人の夜。
僕の思考を飲み込んだ暗い気持ちは、いつしか考えることのコントロールの指揮権を奪い取った。
思考が正常に戻ったのは、正常じゃない思考になってからそう長くはなかったと思う。
靴下が濡れた感覚で、僕はハッとした。
ぽたぽたと、赤い液体が僕の足元を濡らしていく。
……どうしよう。どうしよう、これ。どうしたらいい?
自分の行動のくせに、パニックになってしまって家を飛び出した。
どうにかしてこの血を止めないと。止めないと、母さんに迷惑がかかる。
どこに行くべきなのかもわからないまま、僕はどこへ行くのかもわからない電車に乗っていた。
手元にあったハンカチで涙目になりながら手首を押えながら座席に座る。
一駅、二駅と降りずに座っていると、少しづつ周りの視線が気になり始めた。
僕のことは全く見ていないのかもしれないのに、普通じゃ有り得ないことをしてしまったせいで全ての感覚がバグっていたんだと思う。
いたたまれなくなってしまって降りた駅。
逃げるように改札を抜け、少し走ったところに見つけた公園のブランコに座った。
止まったのか、まだ滲んでいるのか。
暗いからよくわからないけど、赤くなったハンカチの色だけはしっかりわかることに絶望しかけていたときだった。
「あ、ここに人いるの初めて見た」
女の子が僕の隣に座って、声をかけた。
顔を上げると、キィ、と金具が擦れる音がする。
今の僕には受け入れられなさそうな、キラキラした女の子がそこにいた。
宝石箱をひっくり返したような輝きを持つ、僕と違って毎日充実していそうな女の子だ。
「……え、ちょっと大丈夫?」
そっちが声をかけてきたくせに、全然目が合わないじゃないか。
そう思った矢先、彼女は僕に近づいてしゃがんだ。
「包帯とか、持ってくるから。ここでちょっと待ってて」
驚くわけでも、見て見ぬふりをするわけでもない。
変な人だと言わんばかりに向けられる視線とは違う、少しもたれかかりたくなるような優しい視線。
落ち着いた口調に、心配が混ざっているような気がする深みのある声。
「そんな、悪いよ……」
「気にしないで。一人で手当てするの、大変でしょ?」
彼女は街灯の下で振り向くと、微笑んだ。
その瞬間、ふわっと花が舞うような、さっきの輝きとはまた違う色が彼女の周りに広がった。
五分もしないうちに、彼女は救急箱とレジ袋を持ってパタパタと走って戻ってきた。
「ごめんね、お待たせ」
躊躇せずに地面に救急箱を置き、蓋を開けた。
薬箱特有のツンとする香りが鼻に届く。
「痛いと思うけど……ごめんね」
彼女が謝ることは何もないのに、ごめん、ごめんと謝りながら、僕の腕に消毒を染み込ませたコットンを当てた。
「いっ、っー」
声にならない声が口から零れる。
スマホのライトを頼りに、彼女は傷口を消毒して、ガーゼを当てて、包帯を丁寧に巻いてくれた。
「できた。痛くしちゃって本当にごめんね」
「ううん。ありがとう。助かったよ」
「よかった」
救急箱の蓋を閉じて、隅に置いたまま僕の隣のブランコに再び腰掛けた。
「わたしね、好きな人と同じ高校を受験するの。でも、頭がいいところでね、勉強詰めだったから逃げ出してきちゃった」
小さく笑う彼女は、同い年だったらしい。
月とすっぽんくらいの差がこのブランコの間にはあるように感じてしまうほど、彼女は輝いてその光が廃ることなんてなさそうに見えた。
そんな彼女の口から出てきた「好きな人」という言葉に、僕の心はなぜかチクリと傷んだ。
「どこの高校に行くの?」
「春之柄高校。結構背伸びしてるところ」
僕の家から二駅離れたところで近く、頭の悪いいじめっ子には到底行けなさそうな高校だ。
「そうなんだ。恋、してるんだね」
「うん。ずーっと好きな人がいるの。恋ってね、素敵なんだよ。世界が満点の星空みたいにキラキラして見えるの」
知らない誰かを思い浮かべながら笑う彼女は、とても美しく見えた。
それからの僕は、毎日必死だった。
もう一度彼女に会いたい。
名前も知らない彼女に、もう一度会えたら。そのときは恥ずかしくない自分でいたい。
その一心で、春之柄高校に行くことを目指して生きてきた。
彼女は僕の恩人で、好きな人だ。
僕の暗闇まみれの世界を変えた、たった一人の女の子。
本当にもう一度会えるなんて、奇跡だったのだ。
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