朝、目が覚める。
昨日の出来事が夢だったんじゃないかと疑ってしまう中で、思い切り頬を引っ張ってみた。
「痛い……」
痛いってことは、夢じゃないってことだよね。
ていうか、夢の中で頬をつねったら痛くないのかな。
実験したことないから、結局夢か現実かわからないまま起き上がる。
充電器に刺してあったスマホをケーブルから外し、ぼーっとした頭で画面を見た。
十時三十分を示す時計を見て、久しぶりにゆっくり寝れたことに気がついた。
「おはようございます。よく眠れましたか?」
リビングにおりていくと、岩崎さんが笑った。
いつもみたいなスマイル感のないぼんやりとした笑顔で、違和感がある。
「岩崎さんは、眠れなかったの?」
死神に寝不足という概念が存在するのかは謎だけど、眠れなかった人の顔に近いように見えた。
「あぁ、そういう訳ではないんですけどね」
困ったように笑う岩崎さんは、明らかに元気がなかった。
「そっか」
果たしてわたしが聞いてわかる内容なのか、そう考えたときに、絶対に上手くアドバイスもできなければ、わからないことばかりだろうという結論に至った。
顔を洗って水を飲んでいると、高瀬くんから電話がかかってきた。
「わたし、部屋にいるから。何かあったら呼んでね」
画面を確認するわたしを見て、なぜか辛そうに顔を歪める。そんな彼を見る頻度は、最近少し多いような気がした。
「……あ、」
「ん?どうしたの?」
何か言いたげにこちらに手を伸ばす岩崎さんは、その手をなんでもないと言うように大袈裟にパタパタと振って見せた。
「すみません。気にしないでください」
「そう……?」
何度か振り向きながらも、今度は引き止めたくせに早く電話に出ないととジェスチャーしてくる。切れる前にと階段を上りながら急いで電話を取った。
「もしもし、小晴?起きてた?」
電話越しに聞こえる高瀬くんの声は、少し低くて。それだけで心臓の鼓動が早くなる。
「起きてたよ。おはよう、高瀬くん」
おはようと返ってきそうなのに、返答もないまま無言の時間が流れている。
何か言った方がいいのかな。でも、何がいいんだろう。
付き合って一日。いつも通りができなくなってしまうくらい、顔を見ているわけじゃないのにガチガチに緊張してしまう。
そろそろ呼ぼうかな。そう思ったとき、大きく息を吸う音が画面の向こうから聞こえてきた。
「いや、ごめん。本当に付き合えたんだなって実感してた」
嬉しさが滲む高瀬くんの声に、胸がきゅーっと締め付けられる。
「うわ、僕今緊張してるのかな。いつも通り話せてないよね?」
「えっ、高瀬くんも緊張するの?」
たかが電話一本。恋人として付き合うくらいの仲なのに、緊張なんてしないのが普通だと思っていた。
だからかな。電話の向こうの高瀬くんも同じなんだと思うと、安心からかだんだん緊張が和らいでくる。
「するよ。好きな子との電話だよ?緊張しない方がおかしいよ」
「そっか、そうだよね」
いつもどうやって話してた?
そんなことを考えても、全然わからなくて。「あー……」と結局ぎこちない返事しかできない。
「小晴も緊張してるんだ」
「してるよ。しないほうが無理だよ」
「なにそれ、嬉しい」
はにかんでいる高瀬くんの顔が目に浮かぶ。目を細めて笑う眩しい笑顔は、思い出しただけでも心を大きく動かす力があった。
「そんなことが嬉しいの?」
「うん。だって、小晴も僕のことが好きで緊張してくれてるんでしょ?嬉しくない方がおかしいよ」
「わたしは、安心する。同じ気持ちなんだーって思うと、嬉しい」
口から自然と、嬉しいという言葉が出ていた。
あ、わたしも嬉しいんだって、今までなかった感情が心に新しい芽を生やす。
その新芽を大きな木に育て上げることは確実にできなけど、今が幸せなんだからと、暗い気持ちから目をそらす言い訳ができた。
「昨日は色々あったし、ゆっくり休んでね」
特に内容のある話もしないまま、高瀬くんは電話を切る準備を始めていた。
「うん、ありがとう。高瀬くんもね」
引き止める理由もなかったから、そのままどちらからともなく電話を切った。
十分足らずの初電話は、大切な思い出としてわたしの心に刻まれた。忘れたくない一瞬がどんどん増えていくと、成仏するときに持っていけないと困るけど。
心のアルバムにしまってあるのだから、関係ないよね。……大丈夫だよね?
少し気になって、岩崎さんのところへ降りていく。
「岩崎さん!ねぇ、聞きたいことがあって」
彼に元気がないことなどすっかり忘れて、扉を押し開ける。彼は一人のはずなのに、左を向いて誰かと話しているように見えた。
「好きなんてわかんないよ。知らないんだから」
沈黙。
「いや、それはルール違反だろ?」
また沈黙。
「……え?」
誰かに前を見ろと言われたように、不思議そうな顔をしてこちらを向いた。
「うわっ、小晴さん?彼との電話は終わったんですか?」
本当に気付いていなかったらしい。肩が大きく震え、目が飛び出してきそうなくらい見開いている。
「そこに、誰かいるの?」
「……えっと……」
目を泳がせる、と言うより、隣にいるであろう誰かを見ている素振りだ。
どうしたんだろう。もしかして、目撃したらまずかった?
「見なかったことにしたほうがいい?」
「あ、いえ。すみません、勝手にこの人が入ってきてしまったもので。見えないとは思いますが、私の友人の榊秋斗です」
「あ、どうも……」
とりあえず岩崎さんの指先が向く方向へとお辞儀をするけど、これっぽっちも榊さんの姿は見えない。
「秋斗は死神の人事部の仕事をしているんです。ルール違反の取り締まりとか、報酬を与えたりだとか。死神に対する監視カメラみたいな仕事をしています」
「死神にも人事とかあるんですね」
姿形の見えない相手に驚きの感情を伝えるのは、はたから見たら一人芝居をしている変な人に見えてしまいそうだ。
「唯一生きている人間と関わらない仕事です」
色んな役割があるんだなぁ。
岩崎さんと、榊さんがいるであろう空気に話しかけていると、なにを聞こうと思っていたのかなんてどうでもよくなったらしい。
すっかり頭から抜けていた。
「すみません、お邪魔しました」
話のキリが着いたのかすらわからないけど、割り込んでしまったのが申し訳なくて、話していたことの内容が、聞いてはいけないような気がしてなんだか気まずくて。
そそくさとリビングをあとにした。