前にコルセットの紐が着いている町娘風のピンクのドレスを身に付けて、試行錯誤しながら鏡の前でドレスに似合うメイクをしていた。
「ねぇ、合ってるかな?」
高瀬くんの着付けのために一人にされた更衣室としてパーテーションが組まれた視聴覚室で、岩崎さんに助けを求める。
常日頃メイクはしているけど、中世イタリアをイメージしたメイクなんてわかりっこない。事前に調べることもしないまま、セルフメイクを任されてしまったのだ。
「合っているかはわかりませんが……」
彼の言葉が詰まる。やっぱりおかしいのかな。いきなり黙り込むから、つい先を求めるように首を傾げると、岩崎さんは目を泳がせながら次の言葉を口にした。
「とてもよく似合っています。とても……綺麗です」
「えぇ、ほんと?」
全く合わない目が、わたしの不安を掻き立てる。新鮮な空気が欲しくなって、メイク用の筆を置いて窓を開けた。
十月の半ばになれば、やはり息苦しさの少ない取り込みやすい空気が流れてくる。
「金木犀が綺麗ですね」
隣で窓の外を指さす岩崎さんの指先を追う。そこにあったオレンジ色の小さな星のような花は、心を落ち着かせる甘い香りを放っていた。
「いい香り……。アロマみたい」
「花言葉も、きっと素敵なんでしょう」
知っているのに教えてくれなさそうな口ぶりに不貞腐れたような顔を向けてみる。でも岩崎さんは、小さく笑ってわたしの道具が散らばった席へと戻っていった。
「素敵なジュリエット、練習の成果を最大限発揮してきてくださいね」
準備が終わったわたしの背中を押す。
人混みとは別ルートを通り、体育館の舞台袖に入ると、白いパンツに青いブラウス。紋章のついた青いコートを来た高瀬くんが手招きをしていた。
言葉が出ないほど、とてもよく似合っていた。
これからこの人と恋人になれる最後の時間が始まるのかと思うと、寂しさが襲ってくる。
悲恋の物語だから、この気持ちはむしろちょうどいいのかもしれない。
時間が来て舞台の幕が上がると、モンタギュー家とキャピュレット家が長年対立しているシーンから始まる。
舞台袖から見ていると、会場が暗くなる。場面が変わる合図だ。
大道具係の人が勢揃いで舞台上を舞踏会の会場に仕上げ、ジュリエットと、その他もろもろのドレスや王子服を着た人が舞台に現れる。
真っ白な光の中で、体育館のパイプ椅子に座る人達は顔すらはっきり見えなくて。
和らいだ心地いい緊張の中、わたしはジュリエットになりきる。
「あぁ、あなたは夜の闇を照らす月明かりのように美しい」
ロミオの服を着た高瀬くんは、そう、わたしに手を伸ばす。
こんなに素敵なロミオに好かれて、ジュリエットは幸せ者だな。彼の手を取りながら、このままロミオとジュリエットの世界へ転生できてしまえばいいのにと、非現実的なことを思ってみた。
物語は練習のときよりも体感時間は早く進んでいく。
「名前がなんだっていうの?わたくしがバラと呼ぶ花をもし違う名前で呼んだとしても、変わらずいい香りがするわ」
わたしが一番好きなセリフを、体育館の舞台の上でロミオに伝えた。
わたしを愛するなら名前を捨てて。
それが嫌なら、せめてわたしを愛すると誓って。
だって、名前が違えどあなたはあなたであることは変わらない。わたしの敵は、あなたの名前だけよ。
まっすぐで純粋な愛。その思いはわたしの胸を熱くした。
わたしにはあってはいけないものだから。
こんなふうに、全身で高瀬くんに好きという気持ちを伝えられたらどれだけ素晴らしいだろう。
目の前でわたしのジュリエットとしての要求を受け止め名前を捨てると言った彼は、ありえないくらい眩しい。
確かな幸せがここにはあるような気がした。
しかし、ロミオが親友のマーキュシオを殺された怒りで、ジュリエットの従兄弟であるティボルトを殺してしまう。そのせいでロミオはヴェローナから追放され、二人は別れることになってしまう。
好きな人との別れは、演じているだけなのに胸が張り裂けそうなくらい痛くて、苦しい。
伸ばしても届かない手が、虚しい。
終わりが近づくごとに、わたしの中にある私情に頭が侵略されていく。
父から勧められた結婚。それに耐えられずに仮死状態になる薬を飲む計画を立てるジュリエット。
ラストに向けて張り詰めた緊張感が、出演している人の中には確実に流れていた。
変なところで感情移入してはいけない。そう思うのに、仮死状態になる薬を飲むとき、瞑った目の横から一筋涙が伝ってしまった。
「あぁ、ジュリエット。君と一緒なら、地獄でも構わない」
そう、死んだフリをするわたしの横で毒を飲むロミオ。わたしの顔を包み込んでいるとき、そっと涙を拭いてくれる手の優しさは、わたしの心をぎゅっと強く締め付ける。
「あぁ、ロミオ。どうしてわたくしの分の毒を残してくださらなかったの?この短剣であなたに続くわ」
横で倒れているロミオの亡骸に悲しみ、マジックナイフを胸に刺すとき。天国にいるであろうロミオを見上げて、また泣いた。
ロミオの上に倒れ込んで、わたしたちの出番は完全に終わりを迎えてしまった。
「迫真の演技だね」
ハンカチを差し出してくれる高瀬くんは、そのままわたしの目から流れ続ける涙を拭いてくれる。
「……うん。ちょっと力が入りすぎちゃった」
交互に拭いてくれているから、片方を衣装の袖で拭おうとすると、彼のもう片方の手で制止された。
「袖で拭うと痛いよ。ザラザラだから」
ザラザラ、というかレースみたいなものが袖に着いていた。気付かなかった。
「よく見てるね。ありがとう」
「……そんなこと、ないよ」
高瀬くんが目を逸らしたとき、舞台の方から拍手が聞こえてきた。
終わったんだ。これで、高瀬くんとわたしによるロミオとジュリエットの恋物語は完全に幕を閉じてしまった。
「お疲れさま。いい劇だったよ!」
演劇部員の人が、わたしと高瀬くんを筆頭に、劇の上に立った人の肩をぽんと叩いた。
みんなはにこにこ笑っていた。
寂しさよりも開放感のほうが強いのだろう。
クラスで別で出店している訳ではないし、部活に入っていない人は完全に自由時間だから。
「ロミジュリ、二人で文化祭回っておいで」
村人役的立場で登場した高瀬くんの友達は、体育館の出口へわたしと高瀬くんをグイグイ押していく。
「でも片付けもあるし……」
「そうだよ。次の出し物までに舞台のセット下ろさないといけないだろ?」
わたしたちが何を言おうと、縦に首を振る人は彼を含め誰もいなかった。
「主役は誰よりも頑張ったんだから、楽しんでこい!」
誰かがそんなことを言ったのが最後の後押しになり、完全に体育館から締め出されてしまった。
「どうする?」
「どうしようね」
驚きのあまり引っ込んだ涙は、それ以上こぼれてくることがなくて。呆気にとられて顔を見合わせる。
ロミオとジュリエットの服のまま、言われたままにとりあえず校内に繰り出してみた。
服装が服装だからか、みんながこっちを振り向く。出番が終わったばかりだからか、わたしたちを体育館で見た人はいるかいないか。それくらい少ないと思う。
「小晴小晴、プラネタリウムやってるっぽいよ」
真っ暗な教室にぶら下がる看板には、星をイメージしたような細かったり太かったりする文字の線でプラネタリウムとシンプルに書かれていた。
「え!行きたいかも」
勢いのまま、室内に入る。
格好を見てギョッとした目をされたけど、何かを察したのか笑顔で案内してくれた。
ダンボールに新聞紙をくるんで作られたような敷布団に寝転がると、学校の天井とは思えない綺麗な星空が広がっていた。
「すごい、綺麗だね」
他に誰もいないのに、何となく小声で話す。
「うん。なんか、落ち着くね」
高瀬くんの返答も、小声で帰ってきた。
アナウンスもないから、しばらく静かに星空を眺めていると、眠たくなってきてしまう。
ウトウトし始めたとき、ぱっと明かりがついた。その眩しさに、思わず目を瞑る。
「終わったみたいだね」
先に立ち上がった高瀬くんが、エスコートするように手を伸ばしてくれる。戸惑いながらも、その手を取って引っ張ってもらって教室を出る。
そのままなんとなく自然に繋いだままの手をどちらともなく離そうとしないまま。
昼食にカフェの模擬店をしているクラスでパンケーキを食べ、怖いけど面白いと通りすがりの人が話していたお化け屋敷に入って絶叫して。
野外ステージのバンドの歌声を聴いて、空いていた科学部の空気砲を浴びた。
そんなことをしていたら着替える暇もなく後夜祭の時間になってしまった。みんなが揃ってグラウンドに出て恒例のプロジェクションマッピングを待つ中で、わたしたちは誰もいない空き教室で足を休めていた。
「ヒールだったの忘れてて連れ回してごめん」
「全然大丈夫だよ。靴擦れとかもしてないし」
「それならよかった」
窓際にイスを引っ張ってきて、そこに二人して腰掛ける。
「文化祭のジンクスって知ってる?」
プロジェクションマッピングが始まる前。緊張した面持ちで高瀬くんはわたしの顔を見つめた。
ドキッと跳ね上がる心臓。
ジンクスがあったことすら知らなかったけど、今この話をするってことは、きっと今日何かにあやかってやり遂げたいことがあるってことだよね。
「ううん、知らない」
首を振るのが見えているのか、いないのか。
電気をつけていないこの暗い部屋では、よく見えないだろうか。
「……そうか。ねぇ小晴」
緊張が伝わってくる。嫌な予感が、わたしの心をよぎった。高瀬くんを傷つけてしまうような、そんな予感が。
「なに……?」
うるさい心臓。
目の前でぼんやり光った高瀬くんの腕時計が暗くなったとき、彼はわたしの前に跪いた。
途端、流行りの音楽がグラウンド中に流れ始めた。
校舎に向けて投影されるプロジェクションマッピングは、眩い光で教室を照らしていた。
やっと見えたわたしを見上げる高瀬くんは、真っ赤で強ばった顔をしていた。
「好きです。小晴のことが好きです。僕と付き合ってくれませんか……?」
きっと普通好きな人に告白をされたら、夢の世界にいるのではないかと、現実離れしたようなふわふわしたことを考えるのだろう。
でもわたしは、高瀬くんの告白によって現実に引き戻されてしまった。
「……ごめんなさい」
好きな人からの告白なのに。受け入れられない辛さと、受け入れられないのに好きにさせてしまった罪悪感が、音楽に合わせて細くなる光と一緒に落ちていく。
「……そっか。そうだよね。ちゃんとわかってたから、気にしないで。もし嫌じゃなかったら、これからもできれば今まで通り仲良くしてほしいな」
高瀬くんはそれだけ言って、顔を隠すようにして空き教室を出ていった。
入れ替わるように岩崎さんがわたしの目の前に立った。
「よかったんですか?断っちゃって。大好きなんですよね?」
岩崎さんの顔は今振られた人みたいに苦しさで顔が歪んでいる。
「だってしょうがないじゃん」
わたしの中の、出してはいけない気持ちが心の中で広がっていく。岩崎さんはなにも悪くないのに。
「わたし、死ぬんでしょ?高瀬くんに振られた苦しみよりもずっと苦しい死別を味わせるの?」
一度口に出してしまうと、言いたくなくても止められない。湧き上がってくる感情が抑えきれない。
「死ぬってわかってるのに、伝えられないんだよ?病気とは違うから。ちゃんと別れられないまま、目の前から居なくなれっていうの?」
岩崎さんは、わたしが涙ながらに訴えても何も言わない。ただわたしの目を見て、頷きながら話を聞くだけだ。
「好きなのに、これ以上苦しめたくないの。恋したことない岩崎さんに、わたしの苦しみなんてわかんないよ」
そこまで言い切って、話せなくなってしまった。涙が次々に溢れ出して、しゃくりあげてしまうせいで上手く息が吸えなくて。
話そうとすると、ひゅっと喉で息を吸う音が鳴る。
「なに、それ。どういうこと、小晴」
いつ入ってきたのか、高瀬くんが岩崎さんの胴体を通り越してわたしの目を見るようにしゃがんだ。
椅子に座るわたしの足に、高瀬くんの膝が触れていた。
涙を拭いながら泣きじゃくるわたしの手を取られると、微笑んでいる高瀬くんと目が合う。
「いつから、聞いて……」
絞り出すように言うと、彼は申し訳なさそうな顔をして俯く。
「……はじめから。ごめん、聞くつもりなかったんだけど」
どうやら教室を出てすぐ横にある柱にもたれて哀愁に暮れていたら、わたしの訴えが始まったらしい。
「聞かれたくないなら、話さなくていい。でも、それでも僕は小晴を幸せにしたいって思うよ」
「でも……」
やっぱり大切な人を失う気持ちは、経験したことないからこそ、計り知れなくて。
軽い気持ちで頷くなんてできない。
「いいじゃないですか。好きな人が自分と同じ気持ちなんて、奇跡なんですから」
答えを急かすように、岩崎さんが言葉でわたしの背中を押す。
まだ迷いのあるわたしの手を、高瀬くんは少し強引に引っ張った。
「僕は小晴が好き。小晴も、僕が好きなんでしょ?未来のことなんてどうでもいいよ。好きなんだから」
高瀬くんの言葉に、わたしより先に岩崎さんが頷いた。
「……うん、好き。わたしを、あなたの恋人にしてください」
答えた途端、わたしの身体は高瀬くんの胸の中にすっぽり収まっていた。
「うれしい。ありがとう、ありがとう。本当に、生きててよかった」
ぎゅっと力の入る彼の腕の中は、わたしの荒波のような心をあっという間に治してしまった。
いつか話せるといいな。
わたしの抱えている、誰にも言えない秘密を。
プロジェクションマッピングのラストスパートが流れたとき、もうわたしの気持ちはそれだけでいっぱいになっていた。
「ねぇ、合ってるかな?」
高瀬くんの着付けのために一人にされた更衣室としてパーテーションが組まれた視聴覚室で、岩崎さんに助けを求める。
常日頃メイクはしているけど、中世イタリアをイメージしたメイクなんてわかりっこない。事前に調べることもしないまま、セルフメイクを任されてしまったのだ。
「合っているかはわかりませんが……」
彼の言葉が詰まる。やっぱりおかしいのかな。いきなり黙り込むから、つい先を求めるように首を傾げると、岩崎さんは目を泳がせながら次の言葉を口にした。
「とてもよく似合っています。とても……綺麗です」
「えぇ、ほんと?」
全く合わない目が、わたしの不安を掻き立てる。新鮮な空気が欲しくなって、メイク用の筆を置いて窓を開けた。
十月の半ばになれば、やはり息苦しさの少ない取り込みやすい空気が流れてくる。
「金木犀が綺麗ですね」
隣で窓の外を指さす岩崎さんの指先を追う。そこにあったオレンジ色の小さな星のような花は、心を落ち着かせる甘い香りを放っていた。
「いい香り……。アロマみたい」
「花言葉も、きっと素敵なんでしょう」
知っているのに教えてくれなさそうな口ぶりに不貞腐れたような顔を向けてみる。でも岩崎さんは、小さく笑ってわたしの道具が散らばった席へと戻っていった。
「素敵なジュリエット、練習の成果を最大限発揮してきてくださいね」
準備が終わったわたしの背中を押す。
人混みとは別ルートを通り、体育館の舞台袖に入ると、白いパンツに青いブラウス。紋章のついた青いコートを来た高瀬くんが手招きをしていた。
言葉が出ないほど、とてもよく似合っていた。
これからこの人と恋人になれる最後の時間が始まるのかと思うと、寂しさが襲ってくる。
悲恋の物語だから、この気持ちはむしろちょうどいいのかもしれない。
時間が来て舞台の幕が上がると、モンタギュー家とキャピュレット家が長年対立しているシーンから始まる。
舞台袖から見ていると、会場が暗くなる。場面が変わる合図だ。
大道具係の人が勢揃いで舞台上を舞踏会の会場に仕上げ、ジュリエットと、その他もろもろのドレスや王子服を着た人が舞台に現れる。
真っ白な光の中で、体育館のパイプ椅子に座る人達は顔すらはっきり見えなくて。
和らいだ心地いい緊張の中、わたしはジュリエットになりきる。
「あぁ、あなたは夜の闇を照らす月明かりのように美しい」
ロミオの服を着た高瀬くんは、そう、わたしに手を伸ばす。
こんなに素敵なロミオに好かれて、ジュリエットは幸せ者だな。彼の手を取りながら、このままロミオとジュリエットの世界へ転生できてしまえばいいのにと、非現実的なことを思ってみた。
物語は練習のときよりも体感時間は早く進んでいく。
「名前がなんだっていうの?わたくしがバラと呼ぶ花をもし違う名前で呼んだとしても、変わらずいい香りがするわ」
わたしが一番好きなセリフを、体育館の舞台の上でロミオに伝えた。
わたしを愛するなら名前を捨てて。
それが嫌なら、せめてわたしを愛すると誓って。
だって、名前が違えどあなたはあなたであることは変わらない。わたしの敵は、あなたの名前だけよ。
まっすぐで純粋な愛。その思いはわたしの胸を熱くした。
わたしにはあってはいけないものだから。
こんなふうに、全身で高瀬くんに好きという気持ちを伝えられたらどれだけ素晴らしいだろう。
目の前でわたしのジュリエットとしての要求を受け止め名前を捨てると言った彼は、ありえないくらい眩しい。
確かな幸せがここにはあるような気がした。
しかし、ロミオが親友のマーキュシオを殺された怒りで、ジュリエットの従兄弟であるティボルトを殺してしまう。そのせいでロミオはヴェローナから追放され、二人は別れることになってしまう。
好きな人との別れは、演じているだけなのに胸が張り裂けそうなくらい痛くて、苦しい。
伸ばしても届かない手が、虚しい。
終わりが近づくごとに、わたしの中にある私情に頭が侵略されていく。
父から勧められた結婚。それに耐えられずに仮死状態になる薬を飲む計画を立てるジュリエット。
ラストに向けて張り詰めた緊張感が、出演している人の中には確実に流れていた。
変なところで感情移入してはいけない。そう思うのに、仮死状態になる薬を飲むとき、瞑った目の横から一筋涙が伝ってしまった。
「あぁ、ジュリエット。君と一緒なら、地獄でも構わない」
そう、死んだフリをするわたしの横で毒を飲むロミオ。わたしの顔を包み込んでいるとき、そっと涙を拭いてくれる手の優しさは、わたしの心をぎゅっと強く締め付ける。
「あぁ、ロミオ。どうしてわたくしの分の毒を残してくださらなかったの?この短剣であなたに続くわ」
横で倒れているロミオの亡骸に悲しみ、マジックナイフを胸に刺すとき。天国にいるであろうロミオを見上げて、また泣いた。
ロミオの上に倒れ込んで、わたしたちの出番は完全に終わりを迎えてしまった。
「迫真の演技だね」
ハンカチを差し出してくれる高瀬くんは、そのままわたしの目から流れ続ける涙を拭いてくれる。
「……うん。ちょっと力が入りすぎちゃった」
交互に拭いてくれているから、片方を衣装の袖で拭おうとすると、彼のもう片方の手で制止された。
「袖で拭うと痛いよ。ザラザラだから」
ザラザラ、というかレースみたいなものが袖に着いていた。気付かなかった。
「よく見てるね。ありがとう」
「……そんなこと、ないよ」
高瀬くんが目を逸らしたとき、舞台の方から拍手が聞こえてきた。
終わったんだ。これで、高瀬くんとわたしによるロミオとジュリエットの恋物語は完全に幕を閉じてしまった。
「お疲れさま。いい劇だったよ!」
演劇部員の人が、わたしと高瀬くんを筆頭に、劇の上に立った人の肩をぽんと叩いた。
みんなはにこにこ笑っていた。
寂しさよりも開放感のほうが強いのだろう。
クラスで別で出店している訳ではないし、部活に入っていない人は完全に自由時間だから。
「ロミジュリ、二人で文化祭回っておいで」
村人役的立場で登場した高瀬くんの友達は、体育館の出口へわたしと高瀬くんをグイグイ押していく。
「でも片付けもあるし……」
「そうだよ。次の出し物までに舞台のセット下ろさないといけないだろ?」
わたしたちが何を言おうと、縦に首を振る人は彼を含め誰もいなかった。
「主役は誰よりも頑張ったんだから、楽しんでこい!」
誰かがそんなことを言ったのが最後の後押しになり、完全に体育館から締め出されてしまった。
「どうする?」
「どうしようね」
驚きのあまり引っ込んだ涙は、それ以上こぼれてくることがなくて。呆気にとられて顔を見合わせる。
ロミオとジュリエットの服のまま、言われたままにとりあえず校内に繰り出してみた。
服装が服装だからか、みんながこっちを振り向く。出番が終わったばかりだからか、わたしたちを体育館で見た人はいるかいないか。それくらい少ないと思う。
「小晴小晴、プラネタリウムやってるっぽいよ」
真っ暗な教室にぶら下がる看板には、星をイメージしたような細かったり太かったりする文字の線でプラネタリウムとシンプルに書かれていた。
「え!行きたいかも」
勢いのまま、室内に入る。
格好を見てギョッとした目をされたけど、何かを察したのか笑顔で案内してくれた。
ダンボールに新聞紙をくるんで作られたような敷布団に寝転がると、学校の天井とは思えない綺麗な星空が広がっていた。
「すごい、綺麗だね」
他に誰もいないのに、何となく小声で話す。
「うん。なんか、落ち着くね」
高瀬くんの返答も、小声で帰ってきた。
アナウンスもないから、しばらく静かに星空を眺めていると、眠たくなってきてしまう。
ウトウトし始めたとき、ぱっと明かりがついた。その眩しさに、思わず目を瞑る。
「終わったみたいだね」
先に立ち上がった高瀬くんが、エスコートするように手を伸ばしてくれる。戸惑いながらも、その手を取って引っ張ってもらって教室を出る。
そのままなんとなく自然に繋いだままの手をどちらともなく離そうとしないまま。
昼食にカフェの模擬店をしているクラスでパンケーキを食べ、怖いけど面白いと通りすがりの人が話していたお化け屋敷に入って絶叫して。
野外ステージのバンドの歌声を聴いて、空いていた科学部の空気砲を浴びた。
そんなことをしていたら着替える暇もなく後夜祭の時間になってしまった。みんなが揃ってグラウンドに出て恒例のプロジェクションマッピングを待つ中で、わたしたちは誰もいない空き教室で足を休めていた。
「ヒールだったの忘れてて連れ回してごめん」
「全然大丈夫だよ。靴擦れとかもしてないし」
「それならよかった」
窓際にイスを引っ張ってきて、そこに二人して腰掛ける。
「文化祭のジンクスって知ってる?」
プロジェクションマッピングが始まる前。緊張した面持ちで高瀬くんはわたしの顔を見つめた。
ドキッと跳ね上がる心臓。
ジンクスがあったことすら知らなかったけど、今この話をするってことは、きっと今日何かにあやかってやり遂げたいことがあるってことだよね。
「ううん、知らない」
首を振るのが見えているのか、いないのか。
電気をつけていないこの暗い部屋では、よく見えないだろうか。
「……そうか。ねぇ小晴」
緊張が伝わってくる。嫌な予感が、わたしの心をよぎった。高瀬くんを傷つけてしまうような、そんな予感が。
「なに……?」
うるさい心臓。
目の前でぼんやり光った高瀬くんの腕時計が暗くなったとき、彼はわたしの前に跪いた。
途端、流行りの音楽がグラウンド中に流れ始めた。
校舎に向けて投影されるプロジェクションマッピングは、眩い光で教室を照らしていた。
やっと見えたわたしを見上げる高瀬くんは、真っ赤で強ばった顔をしていた。
「好きです。小晴のことが好きです。僕と付き合ってくれませんか……?」
きっと普通好きな人に告白をされたら、夢の世界にいるのではないかと、現実離れしたようなふわふわしたことを考えるのだろう。
でもわたしは、高瀬くんの告白によって現実に引き戻されてしまった。
「……ごめんなさい」
好きな人からの告白なのに。受け入れられない辛さと、受け入れられないのに好きにさせてしまった罪悪感が、音楽に合わせて細くなる光と一緒に落ちていく。
「……そっか。そうだよね。ちゃんとわかってたから、気にしないで。もし嫌じゃなかったら、これからもできれば今まで通り仲良くしてほしいな」
高瀬くんはそれだけ言って、顔を隠すようにして空き教室を出ていった。
入れ替わるように岩崎さんがわたしの目の前に立った。
「よかったんですか?断っちゃって。大好きなんですよね?」
岩崎さんの顔は今振られた人みたいに苦しさで顔が歪んでいる。
「だってしょうがないじゃん」
わたしの中の、出してはいけない気持ちが心の中で広がっていく。岩崎さんはなにも悪くないのに。
「わたし、死ぬんでしょ?高瀬くんに振られた苦しみよりもずっと苦しい死別を味わせるの?」
一度口に出してしまうと、言いたくなくても止められない。湧き上がってくる感情が抑えきれない。
「死ぬってわかってるのに、伝えられないんだよ?病気とは違うから。ちゃんと別れられないまま、目の前から居なくなれっていうの?」
岩崎さんは、わたしが涙ながらに訴えても何も言わない。ただわたしの目を見て、頷きながら話を聞くだけだ。
「好きなのに、これ以上苦しめたくないの。恋したことない岩崎さんに、わたしの苦しみなんてわかんないよ」
そこまで言い切って、話せなくなってしまった。涙が次々に溢れ出して、しゃくりあげてしまうせいで上手く息が吸えなくて。
話そうとすると、ひゅっと喉で息を吸う音が鳴る。
「なに、それ。どういうこと、小晴」
いつ入ってきたのか、高瀬くんが岩崎さんの胴体を通り越してわたしの目を見るようにしゃがんだ。
椅子に座るわたしの足に、高瀬くんの膝が触れていた。
涙を拭いながら泣きじゃくるわたしの手を取られると、微笑んでいる高瀬くんと目が合う。
「いつから、聞いて……」
絞り出すように言うと、彼は申し訳なさそうな顔をして俯く。
「……はじめから。ごめん、聞くつもりなかったんだけど」
どうやら教室を出てすぐ横にある柱にもたれて哀愁に暮れていたら、わたしの訴えが始まったらしい。
「聞かれたくないなら、話さなくていい。でも、それでも僕は小晴を幸せにしたいって思うよ」
「でも……」
やっぱり大切な人を失う気持ちは、経験したことないからこそ、計り知れなくて。
軽い気持ちで頷くなんてできない。
「いいじゃないですか。好きな人が自分と同じ気持ちなんて、奇跡なんですから」
答えを急かすように、岩崎さんが言葉でわたしの背中を押す。
まだ迷いのあるわたしの手を、高瀬くんは少し強引に引っ張った。
「僕は小晴が好き。小晴も、僕が好きなんでしょ?未来のことなんてどうでもいいよ。好きなんだから」
高瀬くんの言葉に、わたしより先に岩崎さんが頷いた。
「……うん、好き。わたしを、あなたの恋人にしてください」
答えた途端、わたしの身体は高瀬くんの胸の中にすっぽり収まっていた。
「うれしい。ありがとう、ありがとう。本当に、生きててよかった」
ぎゅっと力の入る彼の腕の中は、わたしの荒波のような心をあっという間に治してしまった。
いつか話せるといいな。
わたしの抱えている、誰にも言えない秘密を。
プロジェクションマッピングのラストスパートが流れたとき、もうわたしの気持ちはそれだけでいっぱいになっていた。


