「あぁ、ロミオ、ロミオ。あなたはどうしてロミオなの?」
キャピュレット家のジュリエットが、ロミオは対立しているモンタギュー家の息子だと知って、その運命を嘆く場面。
かの有名なこのセリフを堂々と口にしていることに高揚感を覚えていた。
何日目かの合わせ練習。教室の前方で制服のまま、セリフを読みながら動きをつける。
初めてのことで難しいけど、楽しさの方がそれを上回っていた。
「升月さん、上手いね」
演じる側ではなく監督する側を選んだ演劇部員は、台本を片手に褒め言葉を浴びせた。
「え!ありがとうございます!」
嬉しくなって、練習を見に来てくれた岩崎さんを見ると、グッドサインを向けてくれる。
高瀬くんはというと、あまり得意ではないみたいで。セリフを噛んでしまったりしていたけど、明るく奮闘する姿は誰よりも素敵だった。
中世のイタリア・ヴェローナが舞台であるこの作品は、対立したモンタギュー家とキャピュレット家の若者、ロミオとジュリエットの悲恋の物語。
結婚するも二人の悲しくとも愛おしい愛の物語は、叶わぬ恋をするわたしにはピッタリかもしれない。
「もう一度初めからやります」
ジュリエットを演じるわたしと、ロミオを演じる高瀬くん。彼が中世イタリアの綺麗な世界を、わたしに投影できるのか。ロミオが一目惚れするほど、わたしは美しくあれるのか。
不安になりながらも、台本を片手に高瀬くんと目を合わせた。
キャピュレット家の舞踏会に忍び込むところから、わたしたちの出番は始まる。
出会い、好き合い、そして始まる悲劇。
一度通しで練習をして、休憩を摂ることになった。
「おつかれさま」
「おつかれ。ジュリエット役、似合ってるよ」
「ほんと?」
「うん。衣装着てる姿が見える気がする」
「なにそれ」
教壇に腰掛けて、冷たい水を飲む。たくさん褒められて気分がいいのか、ただの水が少し甘く感じた。
「嘘じゃないよ。僕も頑張らないと」
この役はとても役得だ。
劇の中とはいえ、悲しい運命だとしても。好きな人と恋人同士になれるのだから。
彼の恋人役を全力で堪能する以外の選択肢があるわけがない。堂々と甘いセリフを吐き、好きだと口にできる。
言えないと決まっている言葉を、ジュリエットを通じて伝えることができるのはなによりも幸せなことだった。
「あぁ、あなたは夜の闇を照らす月明かりのように美しい」
練習が始まって数日経っても高瀬くんはまだ慣れないのか、険しい顔で甘い言葉を吐く不釣り合いな光景に何度見ても笑いそうになってしまう。
それでも頑張っている姿はしっかり伝わってくるから、憎みたくても憎めないのだろう。
「明日からは体育館で本格的に練習するから、体育館に集合ね」
放課後の二時間ほど練習したあと言われたことに、高瀬くんは焦っているように見えた。
「練習付き合おうか?」
「え、いいの?」
「うん、もちろん」
完全に下心しかないのだけど、わたしから高瀬くんを誘ったのは、あの映画の日以来二回目のことだった。
学校は閉まってしまうから、わたしの家の近くの公園に移動した。
夜はなんとなく涼しくて、頬を撫でる風が心地いい。
「小晴はなんでそんなに上手に演じられるの?」
練習をする前に、ベンチに腰かけて星空を眺める。
岩崎さんに練習を付き合ってもらっているからだよ、なんてもちろん言えなくて。
そんなわたしが高瀬くんに伝えられるアドバイスは一つだけだった。
「わたしはジュリエットで、あなたはロミオ。一目惚れした、死を共にしたいほど好きな人。そう思って、わたしは高瀬くんに思いを伝えてる」
実際はジュリエットの役を借りて、セリフを借りて。全身であなたに思いを伝えているんだよ。
わたしは高瀬くんがわたしと一緒になれないことに悔やんで死を選ぶなら、喜んでその死を受け入れられる。
それが喉が焼けるほど苦しい毒死でも、心臓の動きを一瞬で止めてしまうほどの刺創でも。
ジュリエットがしたようにわたしも同じことを選べる自信があるの。
でもそんなこと言えないから。
あくまで役としてですよ、と伝わるように。必死に気持ちは抑えた。
「そうなんだ。ちょっとジュリエットに対する愛が足りなかったかもしれない」
「えぇ、酷いなぁ。もっとわたしのこと愛してよ」
「ごめん。今からちゃんと、ロミオとしてジュリエットのことを最後まで愛するよ」
台本を開いて、高瀬くんは息を吸った。
ベンチから立ち上がり、私の前に移動する。
「あぁ、あなたは夜の闇を照らす月明かりのように美しい」
目の色が変わったように見えた。
俳優さんじゃないから、一瞬で変わるなんて全くもって思っていなかったのに。
照れていただけで、芯の部分はすっかり上達していたのか。もとから演技が上手い人なのか。
険しい顔から一変して、いつもより優しい瞳を向けられる。
今度はわたしが照れる番だった。
少しずつ頭に入ってきていたセリフは飛び、台本をめくる手は慌ただしい。一目見てわかるほどの同様っぷりを見せていた。
そんなわたしを、高瀬くんはしゃがんで見上げる。そして、台本を閉じて微笑んだ。
「僕も君のことが好きだよ、ジュリエット」
セリフとは関係ない、想定外の言葉がわたしに飛んでくる。夢にまで見る高瀬くんからの告白は、文化祭を成功させるための心持ちの約束にしかすぎない。
そのことが胸に棘のように刺さって、小さな痛みを生じさせる。
「暗いから送るよ。帰ろう」
結局無駄話をして、これいって練習はできないまま帰路につくことになった。
「付き合わせてごめん。家でも練習してくるね」
黙り込んでしまったわたしを見て、高瀬くんはどう思うんだろう。下手だと思っているとは、思われたくないな。
だからといってそれをわざわざ歩き出してから話すのも、むしろ気を遣っていると思われそうで怖い。
「コンビニに寄ってもいい?」
送ってもらっているくせに寄り道なんてって思われるかもしれないけど、今はジュリエットとしてではなく升月小晴としてわたしを見て。
願ってはいけない願いを心に秘めて、隣を歩く高瀬くんの楽しそうに頷く姿を目に焼き付ける。
まだしっかりエアコンが効いているコンビニ店内は、少し寒かった。
もう少し一緒にいたい。彼女でもないのに、そんなわがままでついてきてもらったから、心は罪悪感と嬉しさで行ったり来たりしていた。
「何買うの?」
「今日の夜ご飯。作るのめんどくさいから」
会社帰りの人が買い漁ったのかお弁当は残っていなくて、おにぎりとサラダを買うことにした。
「ありがとうございましたー」の声を背に店を出る。少し歩くと涼しいとはいえどまだ少し汗ばむから、早く涼しくなってほしい。でも、時間は流れてほしくない。
どうにもできないわがままを飲み込んで、今はただ、高瀬くんの隣を歩いていた。
「一人暮らしなの?」
そう、彼は不思議そうにわたしのことを見ていた。さっき買ったホットスナックの唐揚げの入った袋を振りながら。
「ううん。両親はね、今出張してるの」
「そうなんだ。じゃあ、気を付けてね。火の元とか、戸締まりとか」
大真面目な顔をして言うから、つい笑ってしまった。心配してくれているのに、笑うなんてきっと高瀬くんは訳がわからないだろう。
思った通り、彼は不服そうに口を尖らせていた。
「なんで笑うんだよ」
「だって、なんかお母さんみたい」
わたしが言うと、高瀬くんは軽く笑うだけで嫌だともなんとも言わなかった。
「小晴の親って、どんな人?」
街灯の多い住宅街で、彼は急に立ち止まった。
どこか神妙な面持ちでわたしの顔色をうかがうように見ている。
「お母さんもお父さんも優しいよ。あんまり家にいないんだけど、幸せ」
この答えでよかったのか、家族のことは初めて話題に出たからどことなく不安を感じる。
「そうなんだ」
あ、なんだ。それだけか。
いつもと違う面持ちだと感じたのはどうやらわたしの気の所為で、さっきの話のつづきみたいな感じだったらしい。
「高瀬くんは?どんなご両親なの?」
しばらく沈黙が流れた。ちょうど街灯がない場所に立っているせいで、表情がよくわからない。
「うちも優しいよ。ただ……」
「ただ……?」
完全に黙り込んでしまった彼に、それ以上聞いてはいけない気がした。そんなに軽々しく聞くような話ではなさそうだし、この話は一度忘れることにした。
「いや、なんでもない。僕も最近、毎日起きるのが楽しいよ」
……どういうことだろう。話が繋がっているような、いないような。
「そう?」
深入りせずに、それだけ返した。きっと深い意味はないだろう。
触れられたくなかったら、わざわざ話したりしないだろうし、きっとなんでもない。
気になる気持ちにそう言い聞かせて、家の前で高瀬くんとわかれた。
岩崎さんと二人で家に入る。
いつもより小さく見える高瀬くんの背中を、見えなくなるまで見送ってから。