九月一日。それは、新学期が始まるという耐え難い絶望により、日本で自殺者が一番増える日。何かあったらまずは電話をしてくれと、ニュースで心の相談の電話番号を放送しているのを見た。
だからわざわざその日からずらして、学校が始まって一週間経った今日を無意識に選んでいたことに意味なんてきっとない。
死にたくなるその気持ちがわからんでもないわたしは、流れの早そうな川を眺めて橋の柵の上に座っていた。
吸い込まれるように、というわけではない。
ただ、誰もがそうなのだけど。それは変わることない事実なのだけど。
死ぬために生きているということが重くて苦しくて。
家から五百メートル地点にある川に、一人でこっそり出てきたのだ。
朝の早い時間。まだ誰も起きていない、朝焼けが綺麗な時間。
両親は出張で出かけていて、誰にも気付かれないこの日。
一度息を吐いて、吸って。わたしは飛んだ。
バシャン!と大きな水の音が耳に届く。
上手くいったと思ったのに、早そうな川の流れは治まってしまい、溺れることもなくただずぶ濡れになった人になった。
犬の散歩をしていた人が驚いて近づいて来たけど、変な人を見るような視線を向けてどこかへ消えていった。
「何してるんですか!小晴さん!」
わたしがいないことに気がついたのか、岩崎さんが血相を変えてこちらに向かってくる。
GPSでもつけられているのかと思うほど、場所をしっかり特定されていた。
「死ねなかったよ。おかしいな」
ははっ、と笑う。
しっかり水を吸い込んだ靴と服で川から上がり、服を絞る。雑巾並みに水が出てきた。
こんなに水が出るのに。生身の身体で飛び込んだのに。死ぬことができなかった。
「あなたは十二月の決められた特定のその日でないと、死ねないんです。こんなことしても痛いだけですから、もうやめてください」
淡々と、でもはっきり声に怒りを含んで怒られてしまった。
「……ごめんなさい」
でも、そういう運命だってわたしに教えたのは岩崎さんじゃないか。言わなければ、今も知らずにのうのうと生きていたはずなのに。
死の恐怖に脅かされながら生きているわたしの気持ちが、岩崎さんにわかるわけない。
「もうしないから、一人にして」
「……わかりました」
岩崎さんを置いて、家に帰る。
なんだか川臭い気がして、 とりあえずシャワーを浴びて、食事を摂らずに学校へ向かった。
「おはよー!って、大丈夫か?」
高瀬くんが、いつもより早く学校に着いていたわたしの顔を覗き込む。
大丈夫じゃないよ。死ぬのが怖いの。
これ以上、毎日追いかけてくる死の恐怖に耐えられる気がしない。
「なんでもない。おはよう」
机の上に手を置いて、背筋を伸ばす。
死ねないのなら、どうにかして暗い気持ちを忘れられる何かを見つけないと、ずっと苦しい。
「怪我してんじゃん。何があったの」
目の色を変えてわたしの手を取る。左手に、明らかにできたての擦り傷が残っていた。
痛くなかったから、気付かなかった。
「ほんとだ……」
「気付いてなかったの?とりあえず洗いに行こう」
高瀬くんに連れられて、廊下の水道の蛇口をひねる。
きっと橋で擦ったんだ。あまり覚えていないけど。
「血は止まってるかな。汚れも落ちたし……。どうする?絆創膏貼る?」
わたしの手をハンカチで優しく拭きながら、わたしのことを見下ろす。
高瀬くん、意外と背が高かったんだ。
一緒に遊びに行っていたくせに、同じくらいだと思ってた。ちょっと高いかなってくらいだと。
「大丈夫。ありがとう」
「わかった」
教室に戻って少しすると、予鈴が鳴った。カバンをそのまま机に置いていた高瀬くんが中身を出していると、本鈴が鳴って先生が入ってきた。
開口一番、楽しそうな声で言った。
「十月にある文化祭ですが、うちのクラスは劇をやることになりました」
生徒が全員ぽかんとしている中で、わたしは少し喜びを感じていた。
この学校は、一年生のどこか一クラスは劇をやる伝統があるそうで。そのクラスがうちに決まったとの事だ。
もし、もし。主役になったら余計なことを考えなくても済む。きっと、死の恐怖を少しでも和らげられる。
「ロミオとジュリエットをやろうと思います。まずは主役の二人を決めましょう。やりたい人はいますか?」
黒板にロミオ、ジュリエットと書いて、くるりとこちらを向き直す。
シェイクスピアの有名な作品であるロミオとジュリエットは、読んだことがなくとも誰もが知るタイトルであろう。
クラスのみんなは先生からわかりやすく目を逸らしていた。
誰も手を挙げないことを確認して、ピンと手を伸ばした。
先生の視線に、みんながわたしを注目する。
「ジュリエット、やりたいです」
緊張しながら言うと、先生は頷いてわたしの名前を黒板に書いた。
「升月さんなら、衣装も良く似合うわよ」
先生は乙女なのか、お嬢様みたいに、ふふふ、と笑った。
「じゃあロミオは優馬がいいと思う」
高瀬くんの友達が、彼を推薦した。
「えっ?僕?」
「うん。升月さんと仲良いし、なにより帰宅部だからな」
「そんな理由で推薦したのかよ」
そう言いつつも、彼は立ち上がった。
「ロミオ役、やります」
主役二人が決まると、先生は何度も頷いて黒板に名前を書き入れた。
「こんなに早く決まって助かるわ。じゃあ他の配役も決めていくから……」
先生は他の登場人物の名前を書いて、配役の軽い説明をしてくれた。国語の先生だから、それぞれの人物像もわかりやすかった。
ロングホームルームの一時間で、配役から裏方まで全てが決まり、台本がすぐに配られた。
こういうのも生徒に丸投げされるのかと思っていたから、なんだか文化祭の見方も変わってくるものがある。
「一ヶ月で覚えられるかな」
文化祭の一時間の劇だから、小説よりも薄くて端折られているところも多いとは思う。
初めての劇。初めての文化祭。初めての主役。
手を挙げたくせに、楽しみより不安の方が強かった。
「なんとかなるよ。一緒に頑張ろう」
「うん。そうだよね」
なにより、唯一夢中になれるものなわけだし。
高瀬くんと一緒なら、絶対上手くいく気がした。
同時に、朝岩崎さんに言ってしまった言葉が耳の奥で反芻していた。
耐えられなくて、休み時間にすぐ、岩崎さんに会いに行った。
空き教室を開けると、椅子に座ってバインダーを見ている彼の姿がそこにあった。
「小晴さん?」
「岩崎さん、ごめんなさい。わたし、頑張るから。ちゃんと生きるの頑張るために、ジュリエットの役をやることにしたの」
いきなりこんなことを言われても驚くのか、岩崎さんは何も言わずにわたしを見ている。
「だから、練習、付き合ってくれる……?」
「もちろんです。私でよければ、いつでも」
岩崎さんは笑って頷いた。
「ジュリエットってことは、ロミオもいるんですか?」
「うん。高瀬くんがロミオ役なの。きっと衣装もよく似合うよね」
想像するだけでときめいてしまうわたしの恋心を誰か止めてほしい。でも、それだけで頭がいっぱいになってほしいとも思う。
嫌なこと全部忘れて、高瀬くんの好きなところで頭も心も満たしたい。
「そう、なんですか……。小晴さんのジュリエット姿も、きっと素敵だと思いますよ」
強制的に着いてこないといけないから一緒に出かけたりしているけど、あまり顔は見ていないのかな。
想像がつかないのか、高瀬くんの話は終わってわたしの話に飛んでしまった。
「そうかな?似合うといいけど……」
「似合いますよ。私が保証します」
どこからそんな根拠が湧いてくるのかわからないけど、嬉しかったから素直に受け取っておいた。
「……ねぇ、一つだけ聞いてもいい?」
教室に戻る前に、岩崎さんの隣に座った。
まるで同級生みたい。同じ教室で、隣の席に座っているなんて。
岩崎さんはもうこの世に居ない人なのに、すぐそこにいるような不思議な感覚になった。
「なんですか?」
こちらを見る彼は、少し目を逸らしているように見える。でも気にならないから、そのままにしておいた。
「わたし、成仏するんじゃなくて死神になって岩崎さんの下で働きたい」
そうしたら、高瀬くんがちゃんと幸せになれているか自分の目で確認できる。両親が辛くとも働きながらわたしの死を乗り越えるところをちゃんと見られる。
ずっと一緒にいたい人のそばにいられる。
この埃っぽい空き教室に入って岩崎さんと話している最中、思いついたわたしの未来への道。
死ぬのが少し怖くなくなるような気がする、真っ暗闇より少し明るい道。
「それはできません」
てっきり意見を尊重してくれると思ったのに、岩崎さんはキッパリそれを否定した。
「なんで?なんでだめなの?」
「死神になれるのは、殺人事件に遭った人というルールがあるんです。小晴さんは事故死と決まっているので、死神になる第一の条件を満たせていないことになります」
「そう……。じゃあ本当に、なんの未練もなく死ぬ日を迎えるしかないってこと?」
本当に悔しそうに唇を噛みながら、岩崎さんは頷いた。
「そういうことになります。死神もいい仕事ではないですから」
しゅんとした顔をして、申し訳なさそうに頭を下げる。
「……希望に添えなくてすみません」
「気にしないで。悪あがきしてみただけだから」
そろそろ戻る時間だ。
立ち上がると、岩崎さんも一緒に立ち上がった。
「私もあなたを大切に思っています。そのことは忘れないでくださいね」
だから朝みたいなことはしないでくれと、心の底から懇願されているように聞こえた。
それくらい岩崎さんの声は切実で、消え入りそうな弱々しいものだった。
「わかった。忘れない」
わたしが頷くと、岩崎さんはわかりやすくほっとした顔を浮かべた。
「無理せず頑張ってください」と送り出されて、小走りで教室に戻った。