クローゼットの洋服をベッドの上に広げて鏡の前で合わせてみる。
「ねぇ、これどうかな?」
あまりファッションセンスのないわたしは、岩崎さんと明日の洋服を選んでいる。
日増しにかっこよく見える高瀬くんを、お祭りのお礼を称して映画に誘ったのだ。
数日前の、浴衣姿の高瀬くんがまぶたの裏に張り付いて離れなくて、好きな気持ちが大きくなればなるほど好きな人はかっこよく見えて仕方ない。
「とても似合っています。夏祭りは綺麗だったので、今回は髪を巻いて可愛らしい感じで行くのはいかがですか?」
「うん、そうする」
髪を巻くのは慣れている。
駿くんと会うとき、たまに髪を巻いてローツインテールをしていたから。
あのとき練習をたくさんする機会をくれたから、明日は手間取ることなく準備が出来そうだ。
「なにか進展はありましたか?」
服装が決まってクローゼットに服を片付けていると、岩崎さんが興味深そうに耳を傾ける。
「関係性は変わらないよ。でも困っちゃうよね」
「なにがですか?」
「会えば会うほど、魅力が増えていくの。どんどん好きになって、一人になると高瀬くんのことばっかり考えてる気がする」
好きになってはいけない。これ以上彼の魅力に溺れてはいけない。
そう考えれば考えるほど、彼はわたしを沼に落としていく。
まるでいつもキラキラしているアイドルが、クール系の表情をしたときみたいに。曲がひとつ違うだけで、全く違う雰囲気になるみたいに。
高瀬くんは会えば会うほど、知れば知るほど。魅力的な人だ。
「彼のどんなところが好きなんですか?」
「えぇ?どんなところって、それは……」
わたしが恥ずかしくて目を逸らすと、岩崎さんは楽しそうに笑っていた。
「笑顔も、眠たそうな顔も、優しいところも。全部好き。恋って、その人がいるだけで世界がキラキラして見えるの」
そう岩崎さんに話して、頭にぼんやり同じようなことを言った過去が思い浮かぶ。
夢だったのか、現実だったのか、あまり思い出せないけど、駿くんに対しても同じことを思っていたのかと思うと懐かしさを感じる。
「そう、なんですか……」
今度は岩崎さんがわたしから目を逸らした。
どうしたんだろう。何か変なこと言っちゃったかな。
「小晴ー!」
岩崎さんに声をかけようとしたとき、下からお母さんの声が聞こえてきた。
階段の上から下を見ると、両親ともに仕事の荷物を持って玄関ドアの前に立っていた。
「仕事行ってくるから、戸締りしっかりね」
今日は一泊二日。もう夜だから、明日の朝からの写真集のメイクと撮影らしい。
今更ながら、二人は仕事でも家でも良きパートナーなんだなと実感する。
出張はほとんどいつも同じ日同じ場所だし、仕事の話も噛み合っている。
手を振って両親を見送ると、途端に家が静かになった。振り返るも、岩崎さんは着いてきていなくてどうやら部屋で待っているらしい。
「岩崎さん?……大丈夫?」
さっきのまま石のように固まって動かない彼の肩を持って揺らすなんてできるわけなくて、返事のない岩崎さんを置いて部屋を出た。
シャワーを浴びて、エアコンの効いたリビングに入る。ほかほかと熱い身体が冷気に冷やされて、動きたくなくなってしまう。
ソファに全体重を預けてダラダラしていると、岩崎さんがやっと動きだしたのか部屋に入ってくる。
「岩崎さん、大丈夫?」
「すみません。少し考え事をしていまして」
もうそこにいるのは、いつもと変わらない姿だった。
何かを考えすぎて返事も返してくれないさっきの状態がまるで嘘のように、話すときはちゃんと目を合わせて頷いた。
「そっか。もし誰かに話したかったら、わたし聞くからね」
「ありがとうございます。でも、もう解決したから大丈夫です。お気持ちだけ受け取っておきます」
「わかった。じゃあ、おやすみなさい」
「おやすみなさい」
一人で階段をのぼり、部屋に入る。
両親がいない夜は一人で。いる夜は、二人で。
この階段をのぼるのが習慣になっていた。
明日は何を話そう。どんな一日になるんだろう。
想像するだけで幸せで、眠りにつくのが楽になる。息をするのが楽で、楽で。心地よく眠りについたはずなのに。
夢の中でわたしはあの日のように、自転車が横を通り過ぎ、信号無視をしてきたトラックに轢かれかけた。耳に確かに残るブレーキとクラクションの思わず目を瞑りたくなるような音が、目覚ましのように頭の中でこだまする。
目が覚めたときには、朝だった。
心臓がバクバクと、息苦しくなるほどの早鐘を打っている。額には冷や汗が滲み、手足は震えていた。
「小晴さん、そろそろ起きないと遅れますよ?」
ワンクッション置いてから、岩崎さんが部屋に入ってくる。
時間を見ようと未だに震えが治まらない手でスマホを持ち上げるも、上手く掴めずに落としてしまう。
ダメだよ。ダメ、岩崎さんの前では隠さないといけないのに……。
死ぬのが怖いなんて、気付かれたら。
死にたい人を死に追いやるのは望みを叶えるから百歩譲って楽だとして。
相手の意に反することを進めないといけない岩崎さんは、きっと苦しくなってしまうから。
「なにかあったんですか?顔、真っ青ですよ?」
嘘をつこうにも、考えがまとまらない。
でも、少しずつ近づいてくる岩崎さんに本当のことを言う勇気なんてなかった。
「その、あの、嫌な夢、見ちゃって……」
大丈夫、これくらいなら、バレない。大丈夫。
目の前に人がいることで落ち着いてきたのか、少し頭が働き始めた。
「嫌な夢、ですか?」
「うん。……お母さんが、いなくなる夢」
まるで小さい子どもみたいなことで、と思うかな。でもこれが、やっとのことで思いついた、今つける最大限の嘘だった。
「それは、辛いですね。小晴さんがご両親のことが大好きだってこと、わかりますから」
よかった、信じてもらえて。
それも一つの安心材料になったのか、ただの時間の経過なのか、ほっとしたときには手足の震えは止まっていた。
「わたし、着替えるね。着替えたら下に行くから」
「わかりました」
岩崎さんが部屋を出たのを確認してから、ため息混じりに立ち上がる。
頬を強めに叩いて気持ちをリセットさせて、落としたスマホを拾い上げたあと、出かける準備を始める。
昨日決めた水色のオフショルダーワンピース。いつもと少し違う、ラメが多めのナチュラルメイク。久しぶりの巻き髪をひとつに結んで、赤いリボンをつけた。
「どうかな?」
玄関前で待っている岩崎さんの前で、くるりと一周して見せる。
「とてもよく似合っています」
「よかった。ありがとう」
白いハンドバッグを持って、家を出る。
待ち合わせの映画館まで電車で移動している間、頭の中は楽しいことだけで満たせるように必死になっていた。
「小晴さん、小晴さん。次、降りる駅ですよ」
「えっ」
顔を上げると、次の停車駅を示す電光掲示板に、降りる予定の駅が流れていた。
急いで膝の上に乗せたスマホをカバンにしまい込み、停車駅で降りた。
「あ、小晴。おはよう」
ちょうど向かいに到着した逆方向へ進む電車から、高瀬くんが降りてきた。
シンプルな、ツートーンのアシンメトリーの服にサラッとしたアイボリーのズボンがよく似合っている。
……かっこいい。
その一言に尽きる。
「今日も、かわいいね。服も髪も、メイクも。すごく似合ってる」
「えっ」
電車が発車したばかりの人の少ないホームで、体温が一気に上がる。
「なんでそんなに、会う度褒めてくれるの……?」
やっとのことで絞り出した声で、顔を隠しながら指の間から高瀬くんを見る。今度は高瀬くんが顔を赤く染めた。
「そ、れは……」
わかりやすく目を逸らし、声は出ていないのに口をぱくぱくと動かす。
そんなかわいらしい高瀬くんとわたしの隣に立つ岩崎さんが視界に入った。
「えっ……」
昨日から、やはりどこか調子が悪いのだろうか。無理して笑っているのが丸わかりの引きつった笑顔を浮かべて、沈んだ顔でわたしと高瀬くんの間の地面を見つめていた。
「なに?」
高瀬くんは隠し事に気付かれたかのように、焦って赤みが増した顔でわたしと目を合わせた。
「あ、ううん。なんでもない」
「そっか、そっかそっか」
ほっとしたように何度も同じことを口にして、手で顔を仰いでいた。
顔が赤いのは、照れだけというより、暑さも相まってのものだろう。とりあえず涼しいところに移動したい。
「行こっか」
「そうだね。映画の時間もあるし、ね」
照れ負けたわたしは彼にかっこいいと伝えられなかった。でもわたしが今一瞬でも高瀬くんと自分の気持ちが同じものかもと期待したように、彼もわたしが高瀬くんに気があると勘違いされたくない。
勘違いでもなんでも、高瀬くんに今以上の心の傷を残すことになるのは、こんなにも良くしてもらっているのに耐えられない。
彼が甘さをくれるからって、同じ気持ちを返したいなんて考えは真綿で首をじわじわ締めているのと同じなのではないか。
改札口に向かって歩き始めるも、ぼーっと地面を見つめ続ける岩崎さんが動かずにその場に立ち尽くしていた。
高瀬くんに気付かれないように、たまに振り向くと、半径五百メートルの端であろう所を引きずられるように進んでいた。
本当にどうしちゃったんだろう。
……もしかしてわたしが死ぬのが怖いってこと、気付かれちゃったのかな。だから、楽しそうに話している今に終わりが来ることに申し訳なさを感じさせているのかな。
「小晴?どうかした?」
わたしが進めば進むほど引きずられる岩崎さんが可哀想で、つい立ち止まってしまった。
死神だし、壁もすり抜けられるから痛くはないんだろうけど、血は出ていないのに痛々しい。
「なんでもない。何の映画観る?」
顔を上げると、電車が停車して人が降りてきた波の中で、高瀬くんと目が合う。
彼は少し考えて、不敵な笑みを浮かべた。
「夏だからやっぱりホラー系とか?」
「ホラーなんてやってないよ」
だって、ホラー映画の予告なんてテレビでやってるの、見たことないし。
そう思って着いた映画館。
並べられたポスターには、甘酸っぱい青春恋愛ものに、物々しくも見なければと感じさせる戦争もの。毎年恒例のアニメ映画に、シリーズもののアクション映画。
そして、三つほど種類のあるホラー映画のポスターもしっかり掲示されていた。
どれを見ているのかと高瀬くんの視線の先を探ろうとするも、ジャンルごとに分けられた訳ではないせいでわからずじまいだった。
「観たいの、ある?」
高瀬くんに聞かれて、もう一度しっかりポスターを見る。
恋愛系の映画は、高瀬くんと見るのはなんだか恥ずかしい。だからといって戦争ものは一人でしっかり観たい気がするし、アニメ映画と言えど子供向けのテレビアニメだ。
アクションは前のシリーズを知らないし……。
「高瀬くんは?」
悩んだ末決められなくて、高瀬くんが観たいものにすることにした。
例えそれがホラーでも、きっとそこまで怖くない。
……そう思ったわたしがバカだった。
死ぬほど怖い。わたしも成仏しそびれたらこんなふうに人に恐れられる幽霊になってしまうのかと思うと、恐怖の上に別の怖さが重なって、余計に怖さを感じる。
「ぎゃぁぁぁっ!」
隣にいる高瀬くんがジュースを取る手を思い切り掴んでしまう。でも、それに照れを感じられるほど、今のわたしに余裕なんてなかった。
二時間ほどの上映は、二時間よりずっとずっと長く感じて、上映後に強い力で握った高瀬くんの手に赤い跡が残るほど怖かった。
「ごめんね。もっと易しいホラーだと思ってたんだけど、結構本格的だったね」
「うん、怖かった」
それはもう、どう取り繕うこともできないくらいに。お世辞でも怖くなかったといえないくらいに。
これを平気な顔して観て帰れる人の気が知れない。高瀬くんも含めて、ホラーを好きな人の気持ちは例え恋をしている相手でもわからない。
「でも一人じゃ絶対観なかったから、最初で最後の経験だと思えば観てよかったのかも」
「そう言ってもらえると、助かるよ」
高瀬くんは笑いながら、足に力が入って上手く歩けないわたしと嫌がらずに手を繋いでくれていた。
「座ろっか。僕飲み物買ってくるよ」
先に注文するタイプの喫茶店チェーンに入り、わたしを座らせてレジに並びに行った。
彼が買ってきてくれた期間限定のクラフトティーを受け取り、一口飲んだ。
「おいしい。ありがとう」
「よかった」
にこにこと、赤子を見守る親のような目でわたしがストローでドリンクを吸い上げる姿を見ている。
恥ずかしくて目を逸らすも、それさえも楽しそうに高瀬くんの小さな笑い声が耳に届いた。
「そんなに見られても、何も出ないよ?」
「知ってる。気にしないで?」
気になるよ、と内心思いつつ、高瀬くんに見られていることに嫌な気はしないからとそのまま放置することにした。
「次はどこ行こうね」
大人っぽくコーヒーを飲みながら彼は言った。
「んー、服屋とか?」
「そうじゃなくて……。次は、いつ会える?」
カラン、と氷がグラスに当たる軽い音が静かに響いた。
当たり前のように次に会う日の約束を考えてくれていることが嬉しくもあり、怖くもあった。
夢に出てくるほど、日を追う事に潜在的に死の恐怖に苛まれているというのに。
こんな楽しい気持ちと恐怖感を行ったり来たりする不安定な情緒で会うのも、申し訳ない。
「月末、かな。もうすぐ親戚みたいな人の結婚式があるの」
「そうなの?それはおめでとうだね」
小さく手を叩き、顔も見た事ない駿くんの晴れの日を嬉しそうに祝福していた。
結婚式なんて一日で、半月も間が空いていたら嫌いだと勘違いされるかもしれないと思った。それなのに高瀬くんは怪しむ様子もなくただ一言、「楽しんできてね」と笑っていた。
「ねぇ、これどうかな?」
あまりファッションセンスのないわたしは、岩崎さんと明日の洋服を選んでいる。
日増しにかっこよく見える高瀬くんを、お祭りのお礼を称して映画に誘ったのだ。
数日前の、浴衣姿の高瀬くんがまぶたの裏に張り付いて離れなくて、好きな気持ちが大きくなればなるほど好きな人はかっこよく見えて仕方ない。
「とても似合っています。夏祭りは綺麗だったので、今回は髪を巻いて可愛らしい感じで行くのはいかがですか?」
「うん、そうする」
髪を巻くのは慣れている。
駿くんと会うとき、たまに髪を巻いてローツインテールをしていたから。
あのとき練習をたくさんする機会をくれたから、明日は手間取ることなく準備が出来そうだ。
「なにか進展はありましたか?」
服装が決まってクローゼットに服を片付けていると、岩崎さんが興味深そうに耳を傾ける。
「関係性は変わらないよ。でも困っちゃうよね」
「なにがですか?」
「会えば会うほど、魅力が増えていくの。どんどん好きになって、一人になると高瀬くんのことばっかり考えてる気がする」
好きになってはいけない。これ以上彼の魅力に溺れてはいけない。
そう考えれば考えるほど、彼はわたしを沼に落としていく。
まるでいつもキラキラしているアイドルが、クール系の表情をしたときみたいに。曲がひとつ違うだけで、全く違う雰囲気になるみたいに。
高瀬くんは会えば会うほど、知れば知るほど。魅力的な人だ。
「彼のどんなところが好きなんですか?」
「えぇ?どんなところって、それは……」
わたしが恥ずかしくて目を逸らすと、岩崎さんは楽しそうに笑っていた。
「笑顔も、眠たそうな顔も、優しいところも。全部好き。恋って、その人がいるだけで世界がキラキラして見えるの」
そう岩崎さんに話して、頭にぼんやり同じようなことを言った過去が思い浮かぶ。
夢だったのか、現実だったのか、あまり思い出せないけど、駿くんに対しても同じことを思っていたのかと思うと懐かしさを感じる。
「そう、なんですか……」
今度は岩崎さんがわたしから目を逸らした。
どうしたんだろう。何か変なこと言っちゃったかな。
「小晴ー!」
岩崎さんに声をかけようとしたとき、下からお母さんの声が聞こえてきた。
階段の上から下を見ると、両親ともに仕事の荷物を持って玄関ドアの前に立っていた。
「仕事行ってくるから、戸締りしっかりね」
今日は一泊二日。もう夜だから、明日の朝からの写真集のメイクと撮影らしい。
今更ながら、二人は仕事でも家でも良きパートナーなんだなと実感する。
出張はほとんどいつも同じ日同じ場所だし、仕事の話も噛み合っている。
手を振って両親を見送ると、途端に家が静かになった。振り返るも、岩崎さんは着いてきていなくてどうやら部屋で待っているらしい。
「岩崎さん?……大丈夫?」
さっきのまま石のように固まって動かない彼の肩を持って揺らすなんてできるわけなくて、返事のない岩崎さんを置いて部屋を出た。
シャワーを浴びて、エアコンの効いたリビングに入る。ほかほかと熱い身体が冷気に冷やされて、動きたくなくなってしまう。
ソファに全体重を預けてダラダラしていると、岩崎さんがやっと動きだしたのか部屋に入ってくる。
「岩崎さん、大丈夫?」
「すみません。少し考え事をしていまして」
もうそこにいるのは、いつもと変わらない姿だった。
何かを考えすぎて返事も返してくれないさっきの状態がまるで嘘のように、話すときはちゃんと目を合わせて頷いた。
「そっか。もし誰かに話したかったら、わたし聞くからね」
「ありがとうございます。でも、もう解決したから大丈夫です。お気持ちだけ受け取っておきます」
「わかった。じゃあ、おやすみなさい」
「おやすみなさい」
一人で階段をのぼり、部屋に入る。
両親がいない夜は一人で。いる夜は、二人で。
この階段をのぼるのが習慣になっていた。
明日は何を話そう。どんな一日になるんだろう。
想像するだけで幸せで、眠りにつくのが楽になる。息をするのが楽で、楽で。心地よく眠りについたはずなのに。
夢の中でわたしはあの日のように、自転車が横を通り過ぎ、信号無視をしてきたトラックに轢かれかけた。耳に確かに残るブレーキとクラクションの思わず目を瞑りたくなるような音が、目覚ましのように頭の中でこだまする。
目が覚めたときには、朝だった。
心臓がバクバクと、息苦しくなるほどの早鐘を打っている。額には冷や汗が滲み、手足は震えていた。
「小晴さん、そろそろ起きないと遅れますよ?」
ワンクッション置いてから、岩崎さんが部屋に入ってくる。
時間を見ようと未だに震えが治まらない手でスマホを持ち上げるも、上手く掴めずに落としてしまう。
ダメだよ。ダメ、岩崎さんの前では隠さないといけないのに……。
死ぬのが怖いなんて、気付かれたら。
死にたい人を死に追いやるのは望みを叶えるから百歩譲って楽だとして。
相手の意に反することを進めないといけない岩崎さんは、きっと苦しくなってしまうから。
「なにかあったんですか?顔、真っ青ですよ?」
嘘をつこうにも、考えがまとまらない。
でも、少しずつ近づいてくる岩崎さんに本当のことを言う勇気なんてなかった。
「その、あの、嫌な夢、見ちゃって……」
大丈夫、これくらいなら、バレない。大丈夫。
目の前に人がいることで落ち着いてきたのか、少し頭が働き始めた。
「嫌な夢、ですか?」
「うん。……お母さんが、いなくなる夢」
まるで小さい子どもみたいなことで、と思うかな。でもこれが、やっとのことで思いついた、今つける最大限の嘘だった。
「それは、辛いですね。小晴さんがご両親のことが大好きだってこと、わかりますから」
よかった、信じてもらえて。
それも一つの安心材料になったのか、ただの時間の経過なのか、ほっとしたときには手足の震えは止まっていた。
「わたし、着替えるね。着替えたら下に行くから」
「わかりました」
岩崎さんが部屋を出たのを確認してから、ため息混じりに立ち上がる。
頬を強めに叩いて気持ちをリセットさせて、落としたスマホを拾い上げたあと、出かける準備を始める。
昨日決めた水色のオフショルダーワンピース。いつもと少し違う、ラメが多めのナチュラルメイク。久しぶりの巻き髪をひとつに結んで、赤いリボンをつけた。
「どうかな?」
玄関前で待っている岩崎さんの前で、くるりと一周して見せる。
「とてもよく似合っています」
「よかった。ありがとう」
白いハンドバッグを持って、家を出る。
待ち合わせの映画館まで電車で移動している間、頭の中は楽しいことだけで満たせるように必死になっていた。
「小晴さん、小晴さん。次、降りる駅ですよ」
「えっ」
顔を上げると、次の停車駅を示す電光掲示板に、降りる予定の駅が流れていた。
急いで膝の上に乗せたスマホをカバンにしまい込み、停車駅で降りた。
「あ、小晴。おはよう」
ちょうど向かいに到着した逆方向へ進む電車から、高瀬くんが降りてきた。
シンプルな、ツートーンのアシンメトリーの服にサラッとしたアイボリーのズボンがよく似合っている。
……かっこいい。
その一言に尽きる。
「今日も、かわいいね。服も髪も、メイクも。すごく似合ってる」
「えっ」
電車が発車したばかりの人の少ないホームで、体温が一気に上がる。
「なんでそんなに、会う度褒めてくれるの……?」
やっとのことで絞り出した声で、顔を隠しながら指の間から高瀬くんを見る。今度は高瀬くんが顔を赤く染めた。
「そ、れは……」
わかりやすく目を逸らし、声は出ていないのに口をぱくぱくと動かす。
そんなかわいらしい高瀬くんとわたしの隣に立つ岩崎さんが視界に入った。
「えっ……」
昨日から、やはりどこか調子が悪いのだろうか。無理して笑っているのが丸わかりの引きつった笑顔を浮かべて、沈んだ顔でわたしと高瀬くんの間の地面を見つめていた。
「なに?」
高瀬くんは隠し事に気付かれたかのように、焦って赤みが増した顔でわたしと目を合わせた。
「あ、ううん。なんでもない」
「そっか、そっかそっか」
ほっとしたように何度も同じことを口にして、手で顔を仰いでいた。
顔が赤いのは、照れだけというより、暑さも相まってのものだろう。とりあえず涼しいところに移動したい。
「行こっか」
「そうだね。映画の時間もあるし、ね」
照れ負けたわたしは彼にかっこいいと伝えられなかった。でもわたしが今一瞬でも高瀬くんと自分の気持ちが同じものかもと期待したように、彼もわたしが高瀬くんに気があると勘違いされたくない。
勘違いでもなんでも、高瀬くんに今以上の心の傷を残すことになるのは、こんなにも良くしてもらっているのに耐えられない。
彼が甘さをくれるからって、同じ気持ちを返したいなんて考えは真綿で首をじわじわ締めているのと同じなのではないか。
改札口に向かって歩き始めるも、ぼーっと地面を見つめ続ける岩崎さんが動かずにその場に立ち尽くしていた。
高瀬くんに気付かれないように、たまに振り向くと、半径五百メートルの端であろう所を引きずられるように進んでいた。
本当にどうしちゃったんだろう。
……もしかしてわたしが死ぬのが怖いってこと、気付かれちゃったのかな。だから、楽しそうに話している今に終わりが来ることに申し訳なさを感じさせているのかな。
「小晴?どうかした?」
わたしが進めば進むほど引きずられる岩崎さんが可哀想で、つい立ち止まってしまった。
死神だし、壁もすり抜けられるから痛くはないんだろうけど、血は出ていないのに痛々しい。
「なんでもない。何の映画観る?」
顔を上げると、電車が停車して人が降りてきた波の中で、高瀬くんと目が合う。
彼は少し考えて、不敵な笑みを浮かべた。
「夏だからやっぱりホラー系とか?」
「ホラーなんてやってないよ」
だって、ホラー映画の予告なんてテレビでやってるの、見たことないし。
そう思って着いた映画館。
並べられたポスターには、甘酸っぱい青春恋愛ものに、物々しくも見なければと感じさせる戦争もの。毎年恒例のアニメ映画に、シリーズもののアクション映画。
そして、三つほど種類のあるホラー映画のポスターもしっかり掲示されていた。
どれを見ているのかと高瀬くんの視線の先を探ろうとするも、ジャンルごとに分けられた訳ではないせいでわからずじまいだった。
「観たいの、ある?」
高瀬くんに聞かれて、もう一度しっかりポスターを見る。
恋愛系の映画は、高瀬くんと見るのはなんだか恥ずかしい。だからといって戦争ものは一人でしっかり観たい気がするし、アニメ映画と言えど子供向けのテレビアニメだ。
アクションは前のシリーズを知らないし……。
「高瀬くんは?」
悩んだ末決められなくて、高瀬くんが観たいものにすることにした。
例えそれがホラーでも、きっとそこまで怖くない。
……そう思ったわたしがバカだった。
死ぬほど怖い。わたしも成仏しそびれたらこんなふうに人に恐れられる幽霊になってしまうのかと思うと、恐怖の上に別の怖さが重なって、余計に怖さを感じる。
「ぎゃぁぁぁっ!」
隣にいる高瀬くんがジュースを取る手を思い切り掴んでしまう。でも、それに照れを感じられるほど、今のわたしに余裕なんてなかった。
二時間ほどの上映は、二時間よりずっとずっと長く感じて、上映後に強い力で握った高瀬くんの手に赤い跡が残るほど怖かった。
「ごめんね。もっと易しいホラーだと思ってたんだけど、結構本格的だったね」
「うん、怖かった」
それはもう、どう取り繕うこともできないくらいに。お世辞でも怖くなかったといえないくらいに。
これを平気な顔して観て帰れる人の気が知れない。高瀬くんも含めて、ホラーを好きな人の気持ちは例え恋をしている相手でもわからない。
「でも一人じゃ絶対観なかったから、最初で最後の経験だと思えば観てよかったのかも」
「そう言ってもらえると、助かるよ」
高瀬くんは笑いながら、足に力が入って上手く歩けないわたしと嫌がらずに手を繋いでくれていた。
「座ろっか。僕飲み物買ってくるよ」
先に注文するタイプの喫茶店チェーンに入り、わたしを座らせてレジに並びに行った。
彼が買ってきてくれた期間限定のクラフトティーを受け取り、一口飲んだ。
「おいしい。ありがとう」
「よかった」
にこにこと、赤子を見守る親のような目でわたしがストローでドリンクを吸い上げる姿を見ている。
恥ずかしくて目を逸らすも、それさえも楽しそうに高瀬くんの小さな笑い声が耳に届いた。
「そんなに見られても、何も出ないよ?」
「知ってる。気にしないで?」
気になるよ、と内心思いつつ、高瀬くんに見られていることに嫌な気はしないからとそのまま放置することにした。
「次はどこ行こうね」
大人っぽくコーヒーを飲みながら彼は言った。
「んー、服屋とか?」
「そうじゃなくて……。次は、いつ会える?」
カラン、と氷がグラスに当たる軽い音が静かに響いた。
当たり前のように次に会う日の約束を考えてくれていることが嬉しくもあり、怖くもあった。
夢に出てくるほど、日を追う事に潜在的に死の恐怖に苛まれているというのに。
こんな楽しい気持ちと恐怖感を行ったり来たりする不安定な情緒で会うのも、申し訳ない。
「月末、かな。もうすぐ親戚みたいな人の結婚式があるの」
「そうなの?それはおめでとうだね」
小さく手を叩き、顔も見た事ない駿くんの晴れの日を嬉しそうに祝福していた。
結婚式なんて一日で、半月も間が空いていたら嫌いだと勘違いされるかもしれないと思った。それなのに高瀬くんは怪しむ様子もなくただ一言、「楽しんできてね」と笑っていた。


