「高瀬くんって、腕時計つけてるんだね」
夏服が目に馴染んできたころ、高瀬くんの左腕に黒い腕時計がついているのを見つけた。
「えっ、あぁ、うん。ほら、時間が……。時計がないところもあるからさ」
なんだろう。すごく焦っている。
しどろもどろで、次の言葉を探すのに必死になっているのか、視線が泳いでいた。
「ごめん、触れられたくなかった?」
思わず聞いて、はっとする。
もし触れられたくないのなら、そういうことを聞かれるのも嫌だろう。やってしまった。
「全然、そんなことないよ」
少しキツそうなくらいきっちり締めているのか、ベルトが若干腕を締め付けていた。
視線が腕時計に集中していることに気が付いたのか、全然関係ないのか、高瀬くんは腕を隠すように机に右肘をついて話題を変えた。
「そういえば、もうすぐ夏休みだね」
そうなのだ。高瀬くんに恋して、約一ヶ月。
振り向いてほしいとか、そんな望みはないせいで、ただいつも通りの何の変哲もない日常が流れていた。
「早いよね。この前入学したばっかりだったのに」
「結構長かったよ。授業とか、だるいし」
年を取ると一年の感覚が短くなると聞いたのを思い出した。高瀬くんが言うように、わたしも授業はだるかった。
それでも早いなと感じるのは、やはり死が近いからなのか。それともただ普通にババくさいだけなのかな。
「でも小晴と話してるときは、時間が流れるのがいつも早い」
想像もしない言葉に、心臓が跳ねる。
わたしの死因はキュン死なのではないかと思ってしまうほど、高瀬くんの不意に発せられる言葉に胸が暴れる。
同時に、気遣ってくれての一言が優しく、小さいトゲのように心に刺さった。
「高瀬くん、いつも優しいよね」
最近ずっと、高瀬くんのことを無意識のうちに目で追ってしまう。その中で、彼はやはり優しい人だと再確認させられた。
教室に入るとき、他の人と被ったら先に相手を入れてあげるところとか。
消されていない黒板を何も言わずに消すところとか。それを見つけて手伝おうとしたわたしを見て、「制服汚れちゃうから座ってな」って。
高瀬くんの制服の袖にもチョークの粉が積もっているのに、嫌な顔ひとつせずにさらっと言えてしまうところとか。
クラスで回収した授業のノートを職員室に運ぶときに半分以上持ってくれたり。
優しすぎるほど、彼は優しい。
「僕は、誰にでも優しいわけじゃないよ」
何を思ったのか、高瀬くんはわたしからわかりやすく目を逸らした。
「わかってるよ」
「……えっ」
バッチリ合う目には、戸惑いや期待が込められているように見えた。
「関わる人全員に優しくできるとは、思ってないよ。人間だもん、そんなの当たり前だよ」
本当だよ。
その気持ちが伝わるように、高瀬くんに話す。
それなのに、まるで期待はずれだったかのように一瞬、がっかりしたような表情になった。
すぐにいつも話すときと同じ表情に戻ったけど。
「ねぇ、夏休みってなにか予定入ってる?」
覚悟を決めたような、意思の強い気持ちが声に混じっていた。これからなにが始まるんだろう。
想像もつかないまま、わたしは首を横に振った。
「じゃあ、今年の夏は僕にちょうだい」
予想外の言葉に、どうしても理解が追いつかない。
「えっと、それはつまり……?」
「夏休みの一ヶ月、小晴の時間をちょうだい」
断固として譲らない、という強い心持ちが、向かい風になってわたしにぶつかってくる。
期待をしてしまう。高瀬くんの中にいるわたしは、少なからず特別なんじゃないかって。
つい、浮かれた気持ちになってしまう。
「わかった」
断ったなんて言ったら、岩崎さんが唖然とした顔でこちらを見るだろう。
でもそれ以上に、好きな人との予定が入ることが嬉しくて。二つ返事で了承した。
「じゃあ、早速なんだけど。二週間後の夜、空いてる?」
高瀬くんに聞かれて縦に頷いた二週間後。
夏休みに突入した翌日、お母さんに浴衣を着つけてもらっていた。
「そんなにガチガチに緊張して……。もしかしてデートなの?」
興味津々にわたしの帯をきつく締めるお母さんに必死に違うと首を何度も横に振って伝えても、誤魔化せないらしい。
駿くんを思っていたことも、なにもかも全て見透かされていたのかもしれないと想像するとゾッとする。
想像だけで、多分気付いていないままだとは思うけど。
「そうだ。駿也くんの招待状、家族全員で出席するって返事だしておいたからね」
「うん。わかった」
メイクをしてもらうために椅子に座らせられながら、すっかり忘れていた結婚式の招待状のことを聞かされた。
もうダメージはほとんどゼロで、あとは当日顔を見たとき、どう思うんだろうというささやかな不安だけが胸に残っていた。
「ねぇ、お母さん」
慣れた手つきでわたしの顔に筆をあてる仕事人の顔に話しかけるのは、自分の親でありながらつい遠慮してしまう。
「ん?」
「……ありがとう」
「まだ終わってないじゃない。いきなりどうしたの?」
「なんか、言いたくなって」
生きていたら死と隣り合わせと言うけれど、わたしはまだ死なない。
でも、こうしてお母さんにメイクしてもらえることも、顔を合わせられることも、もう少ししかないのかと考えたとき、伝えないと後悔すると思っただけだ。
それにきっと、今日が終わったらもう、浴衣を着ることなんてないだろう。お母さんに着付けてもらうのは、これで人生最後になってしまった。
「なにか悪いことでもしたの?」
お母さんは口ではそう言っているけど、嬉しそうに笑っていた。その笑顔を見たら胸がいっぱいになって、ついにわたしは、本心で願ってしまった。
死にたくない。
一緒にいた時間は他の家庭より短いけど、まだわたしを愛おしそうに見つめる瞳から離れたくない。
興味なさそうな素振りのない、早く記録を残したいとカメラの準備をするお父さんの手を離したくない。
わたしの部屋で待つ岩崎さんには悟られてはいけない気持ちが、どこに隠れていたのか次々と溢れてくる。
「ねぇ、三人で写真撮ろうよ」
肩につくくらいのミディアムヘアを器用に編み込んでクラゲヘアにまとめあげたお母さんが、お父さんにわたし一人を差し出すから。
出番が来たと気合いを入れてカメラを構えるから、その腕を引っ張った。
「いいじゃないか。小晴は真ん中な」
お母さんにピッタリ押し付けられて、お父さんはカメラをいじって机に置いてからわたしにくっついた。
お父さんの「はいチーズ」でちょうどシャッターが切れる。
カウントをしている様子もないのにタイミングがピッタリなのは、職業病に近いものがあるのだろう。
「いやぁ、いい写真が撮れたよ」
満足そうに撮れた写真を見つめて、少し寂しそうにわたしのことを見つめる。
「デートなんだろ?早く帰ってくるんだぞ」
「デートじゃないよ。友達だよ」
「いいじゃない。多少遅くなってもいいから、デート楽しんできなさいね」
お母さんに押されるように廊下に出て、玄関で下駄を履いて振り返る。
「だから、デートじゃないってば」
「はいはい。気を付けて行ってらっしゃい」
それ以上有無を言わせないというように、手を振ってバタンと玄関の扉を閉めた。
頭の中には、デートという三文字がしっかり刻み込まれてしまっていて、気持ちが全然落ち着かない。
「よくお似合いです」
白の布地に、赤みの弱い彼岸花の浴衣。
今日のためにお母さんが選んでくれたものだ。
「変じゃない?」
プロのメイクアップアーティストのお母さんが着付けてヘアメイクをしてくれたのだから、変なわけないのだけど。
どうしても気になってしまう。
「全く変ではないです。デートには最適ですね」
「デートじゃないってば。みんなしてからかってる?」
「いえ。じゃあ私は少し離れたところにいますから、楽しんでくださいね」
約束の時間より少し早めにたどり着いた神社の鳥居の前で、スマホを握りしめて高瀬くんが来るのを待っていた。
夏服が目に馴染んできたころ、高瀬くんの左腕に黒い腕時計がついているのを見つけた。
「えっ、あぁ、うん。ほら、時間が……。時計がないところもあるからさ」
なんだろう。すごく焦っている。
しどろもどろで、次の言葉を探すのに必死になっているのか、視線が泳いでいた。
「ごめん、触れられたくなかった?」
思わず聞いて、はっとする。
もし触れられたくないのなら、そういうことを聞かれるのも嫌だろう。やってしまった。
「全然、そんなことないよ」
少しキツそうなくらいきっちり締めているのか、ベルトが若干腕を締め付けていた。
視線が腕時計に集中していることに気が付いたのか、全然関係ないのか、高瀬くんは腕を隠すように机に右肘をついて話題を変えた。
「そういえば、もうすぐ夏休みだね」
そうなのだ。高瀬くんに恋して、約一ヶ月。
振り向いてほしいとか、そんな望みはないせいで、ただいつも通りの何の変哲もない日常が流れていた。
「早いよね。この前入学したばっかりだったのに」
「結構長かったよ。授業とか、だるいし」
年を取ると一年の感覚が短くなると聞いたのを思い出した。高瀬くんが言うように、わたしも授業はだるかった。
それでも早いなと感じるのは、やはり死が近いからなのか。それともただ普通にババくさいだけなのかな。
「でも小晴と話してるときは、時間が流れるのがいつも早い」
想像もしない言葉に、心臓が跳ねる。
わたしの死因はキュン死なのではないかと思ってしまうほど、高瀬くんの不意に発せられる言葉に胸が暴れる。
同時に、気遣ってくれての一言が優しく、小さいトゲのように心に刺さった。
「高瀬くん、いつも優しいよね」
最近ずっと、高瀬くんのことを無意識のうちに目で追ってしまう。その中で、彼はやはり優しい人だと再確認させられた。
教室に入るとき、他の人と被ったら先に相手を入れてあげるところとか。
消されていない黒板を何も言わずに消すところとか。それを見つけて手伝おうとしたわたしを見て、「制服汚れちゃうから座ってな」って。
高瀬くんの制服の袖にもチョークの粉が積もっているのに、嫌な顔ひとつせずにさらっと言えてしまうところとか。
クラスで回収した授業のノートを職員室に運ぶときに半分以上持ってくれたり。
優しすぎるほど、彼は優しい。
「僕は、誰にでも優しいわけじゃないよ」
何を思ったのか、高瀬くんはわたしからわかりやすく目を逸らした。
「わかってるよ」
「……えっ」
バッチリ合う目には、戸惑いや期待が込められているように見えた。
「関わる人全員に優しくできるとは、思ってないよ。人間だもん、そんなの当たり前だよ」
本当だよ。
その気持ちが伝わるように、高瀬くんに話す。
それなのに、まるで期待はずれだったかのように一瞬、がっかりしたような表情になった。
すぐにいつも話すときと同じ表情に戻ったけど。
「ねぇ、夏休みってなにか予定入ってる?」
覚悟を決めたような、意思の強い気持ちが声に混じっていた。これからなにが始まるんだろう。
想像もつかないまま、わたしは首を横に振った。
「じゃあ、今年の夏は僕にちょうだい」
予想外の言葉に、どうしても理解が追いつかない。
「えっと、それはつまり……?」
「夏休みの一ヶ月、小晴の時間をちょうだい」
断固として譲らない、という強い心持ちが、向かい風になってわたしにぶつかってくる。
期待をしてしまう。高瀬くんの中にいるわたしは、少なからず特別なんじゃないかって。
つい、浮かれた気持ちになってしまう。
「わかった」
断ったなんて言ったら、岩崎さんが唖然とした顔でこちらを見るだろう。
でもそれ以上に、好きな人との予定が入ることが嬉しくて。二つ返事で了承した。
「じゃあ、早速なんだけど。二週間後の夜、空いてる?」
高瀬くんに聞かれて縦に頷いた二週間後。
夏休みに突入した翌日、お母さんに浴衣を着つけてもらっていた。
「そんなにガチガチに緊張して……。もしかしてデートなの?」
興味津々にわたしの帯をきつく締めるお母さんに必死に違うと首を何度も横に振って伝えても、誤魔化せないらしい。
駿くんを思っていたことも、なにもかも全て見透かされていたのかもしれないと想像するとゾッとする。
想像だけで、多分気付いていないままだとは思うけど。
「そうだ。駿也くんの招待状、家族全員で出席するって返事だしておいたからね」
「うん。わかった」
メイクをしてもらうために椅子に座らせられながら、すっかり忘れていた結婚式の招待状のことを聞かされた。
もうダメージはほとんどゼロで、あとは当日顔を見たとき、どう思うんだろうというささやかな不安だけが胸に残っていた。
「ねぇ、お母さん」
慣れた手つきでわたしの顔に筆をあてる仕事人の顔に話しかけるのは、自分の親でありながらつい遠慮してしまう。
「ん?」
「……ありがとう」
「まだ終わってないじゃない。いきなりどうしたの?」
「なんか、言いたくなって」
生きていたら死と隣り合わせと言うけれど、わたしはまだ死なない。
でも、こうしてお母さんにメイクしてもらえることも、顔を合わせられることも、もう少ししかないのかと考えたとき、伝えないと後悔すると思っただけだ。
それにきっと、今日が終わったらもう、浴衣を着ることなんてないだろう。お母さんに着付けてもらうのは、これで人生最後になってしまった。
「なにか悪いことでもしたの?」
お母さんは口ではそう言っているけど、嬉しそうに笑っていた。その笑顔を見たら胸がいっぱいになって、ついにわたしは、本心で願ってしまった。
死にたくない。
一緒にいた時間は他の家庭より短いけど、まだわたしを愛おしそうに見つめる瞳から離れたくない。
興味なさそうな素振りのない、早く記録を残したいとカメラの準備をするお父さんの手を離したくない。
わたしの部屋で待つ岩崎さんには悟られてはいけない気持ちが、どこに隠れていたのか次々と溢れてくる。
「ねぇ、三人で写真撮ろうよ」
肩につくくらいのミディアムヘアを器用に編み込んでクラゲヘアにまとめあげたお母さんが、お父さんにわたし一人を差し出すから。
出番が来たと気合いを入れてカメラを構えるから、その腕を引っ張った。
「いいじゃないか。小晴は真ん中な」
お母さんにピッタリ押し付けられて、お父さんはカメラをいじって机に置いてからわたしにくっついた。
お父さんの「はいチーズ」でちょうどシャッターが切れる。
カウントをしている様子もないのにタイミングがピッタリなのは、職業病に近いものがあるのだろう。
「いやぁ、いい写真が撮れたよ」
満足そうに撮れた写真を見つめて、少し寂しそうにわたしのことを見つめる。
「デートなんだろ?早く帰ってくるんだぞ」
「デートじゃないよ。友達だよ」
「いいじゃない。多少遅くなってもいいから、デート楽しんできなさいね」
お母さんに押されるように廊下に出て、玄関で下駄を履いて振り返る。
「だから、デートじゃないってば」
「はいはい。気を付けて行ってらっしゃい」
それ以上有無を言わせないというように、手を振ってバタンと玄関の扉を閉めた。
頭の中には、デートという三文字がしっかり刻み込まれてしまっていて、気持ちが全然落ち着かない。
「よくお似合いです」
白の布地に、赤みの弱い彼岸花の浴衣。
今日のためにお母さんが選んでくれたものだ。
「変じゃない?」
プロのメイクアップアーティストのお母さんが着付けてヘアメイクをしてくれたのだから、変なわけないのだけど。
どうしても気になってしまう。
「全く変ではないです。デートには最適ですね」
「デートじゃないってば。みんなしてからかってる?」
「いえ。じゃあ私は少し離れたところにいますから、楽しんでくださいね」
約束の時間より少し早めにたどり着いた神社の鳥居の前で、スマホを握りしめて高瀬くんが来るのを待っていた。


