雨が降っている。
傘をさしながら、葉っぱの上を滑り落ちる雫を見つめる。
梅雨入りして、どんよりとして分厚い雲から降る雨ばかりの日々は気分を憂鬱にさせる。
「最近、暑くなってきたよね」
「もうそんな季節ですか。梅雨入りしたから、まだ案外涼しいものかと思っていました」
「汗をかくほどではないけどね。春物の服だと暑いかなってくらいだけど」
最近、岩崎さんには気温の感覚がないことを知った。ずっと長袖のスーツを着ているから、暑くないのか疑問に思って聞いてみたときに、気温だけでなく物の温度の感覚もないと教えてくれた。
「早く梅雨明けしないかな」
まだ梅雨入りのニュースは流れているものの、梅雨明けの文字はどこにも出ていない。早く青空が見たいのに、今日もそれは叶いそうになかった。
「そういえば、連絡先を交換しようと思っているって聞いてから、どうなりましたか?」
そうだ、まだ話していなかった。
未だに答えの出ない自分の感情に必死で、岩崎さんに報告しようという考えもなかった。
「連絡先、交換できたよ。まだ何も話してないんだけど……」
「よかったじゃないですか」
うん、よかった。友達になる第一歩を無事踏み出せたんだから、よかったと思うのが普通だよね。
岩崎さんと校門をくぐり、傘を閉じる。
昇降口に入ると、いつもは教室で会う高瀬くんとばったり会ってしまった。
「おはよ、早いね」
雨なのに、高瀬くんは太陽みたいに眩しい。
このまま雨雲を追いやってくれそうな明るさが目の前に広がっていた。
「おはよう」
ずっとずっと、高瀬くんと目が会う度、会話をする度、自分の容姿が気になってしまう。
前髪が変じゃないかとか、変な声じゃないかなとか、いつもはそこまで気にならないことに意識が飛んでなんだか自分が自分じゃないみたい。
「私はいつもの空き教室にいますね」
岩崎さんはそう言い残して、頷く間も与えないまま先に校舎の中へ入っていく。
「手、濡れてるよ」
そう、ハンカチを差し出してくれる。
「あっ、ごめんね」
受け取らないのもなんだか申し訳なくて、高瀬くんのハンカチを受け取って傘を閉じた時に付いた雨水を拭く。
「結構濡れちゃったから、わたしの使う……?」
急いでポケットから自分の乾いたハンカチを取り出して渡すも、高瀬くんは首を横に振った。
「ありがとう。でも、大丈夫。女の子はハンカチ使うシーン多いでしょ?」
高瀬くんがそう、濡れたハンカチだけを受け取って笑顔でポケットにしまいこんだとき、気付いてしまった。
____わたし、高瀬くんのことが好きだ。
どうしよう。どうしよう。
目の前に高瀬くんがいるのに、やっとわかった自分の気持ちに焦ってしまう。
今気付きたくなかった。なんなら、ずっと気付きたくなかった。
この恋は、思いが通じたら相手を傷つけることになるのに。
どうしてわたし、好きになっちゃったんだろう。好きになれたんだろう。
気持ちの整理をしたくて、高瀬くんを置いてトイレに逃げ込む。
感じ悪かったと思う。でも今、彼と顔を合わせられる自信がなかった。
近場のトイレの扉を閉めて、そこにもたれかかる。
どうしてこんなにも簡単に、駿くんから高瀬くんに心が動いたのか。それは何となくわかっていた。
無意識のうちにわからないふりをしていて、それにずっと気付いていないだけだった。
十二年間、駿くんに抱き続けていた恋心は、きっと恋ではなかった。
両親の代わりにわたしを愛してくれた、駿くんの家族のような愛情の認識が幼稚だった。
幼いわたしは親からもらう「好き」が家族愛で、他の人からもらう「好き」はドラマで見るような、恋の愛だと履き違えて成長してしまった。
そのせいでずっと、駿くんに依存していたんだ。
どんなわたしでも愛してくれる駿くんに。
仕事で忙しくてあまり帰ってこられない両親の代わりにたくさんの愛をくれた駿くんに。
駿くんのことが好き。好きって言ったら喜んでくれるから。頭を撫でて、「俺も」って純粋な笑顔で返してくれるから。
駿くんを好きでいれば、多少の苦しみはあれど両親にも過度な心配かけずに生きてこられていたから。
隣に駿くんがいるから、というのは大前提として、健康的な生活を常に意識して大人を目指していたからが大きいと思う。
わたしは駿くんを利用していた。
両親を安心させる道具として。自分を活き活きしているように見せる装飾品のように。
全てに気付かずに、駿くんだけをまっすぐ好きでいられたら良かった。
そうしたら、死ぬまでずっと。自分の間違いに気付くことなく生きていけたのに。
本当の恋を知らないまま、高瀬くんのことを好きにならないまま死んでいけたのに。
岩崎さんは、どこにいるんだろう。
この気持ちがどうしたらなくせるか、彼なら知っているだろうか。
思うがまま、トイレから出て階段を上る。一年のフロアの一番端にある、空き教室に向かって早足で歩く。
「小晴、どこ行くの?教室こっちだよ?」
階段を登りきって教室とは反対方向へ曲がったとき、後ろから高瀬くんに呼び止められた。
「あ、うん……」
胸の鼓動が大袈裟に跳ねる。
頭が真っ白になって、何を話せばいいのか、いつもどうやって話していたのか思い出せない。
つい俯いてなんて言おうか考えていると、朝のホームルーム五分前のチャイムが校内に響き渡った。
「行こう、遅刻しちゃう」
先を歩く高瀬くんの後ろについて、岩崎さんのいる空き教室ではなく自分のクラスに入った。
隣に高瀬くんがいる。
それだけで背筋が伸びて、ペンを握るだけでそわそわして落ち着かない。足元が夢見がちにふわふわして、頭の中から大事なことがいとも簡単に飛んでいく。
ノートを見られても恥ずかしくないように、キレイな字で書こう。ホームルームが終わり、始まった授業のやる気もいつもより少なからず高ぶっていた。
「隣の人とプリント交換してください」
小テストが終わるタイマーの小さい音が耳に届くと、浅井先生はすぐにそう指示した。
「僕、今日は自信あるよ」
そう、わたしにプリントを渡す。わたしも緊張しながら高瀬くんにプリントを手渡した。
手元に来たプリントと先生が書く黒板を見比べて丸つけをする中でも、新たな発見に心が躍る。
何となく字が全体的に横に広いけど、汚いわけじゃない読みやすい字を書くところが愛らしい。難しい漢字は少し誤魔化しているところも高瀬くんなら百点だ。
「どう?」
「全問正解だったよ。すごい」
プリントの受け渡しをして、彼の付けた丸を見る。
勢いがあって終わりの長い赤丸が、わたしは好きだ。バツのチェックは、残念そうに小さいのも、かわいらしい。
「ありがとう」
「え、なにが?」
なにがって、こんなにも表情のある丸つけをしてくれて、だけど。
そんなこと言ってもおかしいだけだから。
「なんでもない」
少し時間が経つと、緊張するけどいつも通り話せるようになってきて。上手く目は合わせられないけど、不思議そうにこちらを見る高瀬くんに微笑むくらいはできた。
これくらいがちょうどいい。これ以上は、求めない。
ついさっきまで浮かれて忘れていた現実も、ふとした瞬間に思い出してしまうから。
せめてこのまま、変わらない距離感でいたい。
そう思いながら、授業を受ける高瀬くんを横目でこっそり見つめていた。