夜をこえて


「なごりおしい」

 そう言ったのは私の方だった。
 終電へ急ぐ人の流れの中で、つないだ彼の指先をそっとなでる。
 立ち止まった彼の腕につないでいない方の手をそえて、そっと頬を寄せる。
 寒々しい蛍光灯の下で見上げた彼は目を丸して、その下はほんのり色づいているように見えた。
 私の火照った顔は、もっと赤いだろうか。
 この間の鼓動が伝わればいいと思って、しがみつくように彼に体をよせた。
 もっと『酔っちゃった』とか『休みたい』とかベタな言葉の方がよかっただろうか。
 見え透いた嘘への抵抗が、私を曖昧にさせる。
 だって、私が酔うような事態なら、きっと彼は泥酔して動けなくなっている。
 アルコールを嗜む私に付き合ってはくれるけど、私よりも彼の方がうんと弱かった。
 低アルコールを一杯だけ。
 彼は気にしないで好きに飲んでいいよって言ってくれるけど、私は彼のペースに合わせるのが好きだった。
 たった一杯だけ。たくさんあるメニューの中からどれがいいか相談して、同じものを頼む。それが何よりも特別な美酒だった。
 彼が二杯目のアルコールを嗜んだことがあるのは、二十歳の集いの日の一回だけだった。
 ちょっとした同窓会気分で級友たちと集まった居酒屋で、早生まれだという彼は初めてのアルコールを味わった。
 一杯目まではまったく酔った様子もなくて楽しそうにしていたのに、二杯目を半分ぐらい飲んだところで様子が変わった。
 トイレから帰ってこなくなった彼を心配して様子を見に行ったのが、彼との交際のきっかけだった。
 すえた臭いをさせる彼の背を撫でていたら、涙ぐんだ目でお礼をしたいからと連絡先を聞かれた。
 それまではただのクラスメイトで、進学してからはどこで何をしているのかも知らなかったような間柄。でも、私は彼に連絡先を教えた。
 弱り切ったその眼差しに惹かれたんだとは、口が裂けても言えない。
 彼がアルコールに弱くて良かった。居酒屋のトイレが男女兼用で良かった。そんなことに感謝してしまうような自分だって、彼には知られたくなかった。
 でも、弱り果てたこんな涙目に惹かれてしまっては、病める時もきっと一生好きなんだろうと思った。

「少し、歩こうか」

 走馬灯のように昔のことを思い出していた気持ちが、私の手を握り直す彼の力強さに戻ってくる。
 少し震えるその手に気づかないふりをしながら、胸がいっぱいになる。
 私は彼のこういう所が好きだった。
 私は彼に手を引かれるがまま、駅を後にした。



「クチナシの花があるね」

 車通りを逸れて入った公園。
 その石畳を歩きながら、私は彼の声に導かれて暗闇の中に浮かぶ花をつけた。
 暗闇の中で淡く光を放つように浮かび上がる純白の花。
 甘い香りがまとわりつくように漂ってくる。
 今までも嗅いだことのある香りの気がしたし、見たこともある花のような気がした。クチナシという名前を聞いたことがあるけど、私はそれが全部繋がっていなかった。
 これがそうなんだと、私は何気なく彼に教えられる。

「クチナシと言えばさ、昔――」

 私と彼は小中学校が同じだった。高校からは進路が分かれて、二十歳になるまで風の便りさえ耳にしない間柄だった。
 公園に生い茂った木々が外灯の明かりを遮って、太陽の光とは違う青白い木漏れ灯を彼の顔に落とす。

「オオスカシバの幼虫がさ」

 彼は楽しそうに、祖母の家にあったクチナシの木をオオスカシバという蛾の幼虫が食い荒らして丸裸にしてしまった話をする。
 あまり小中学校の時の彼がどんなクラスメイトだったか記憶は薄い。でも、こうしてたびたび彼の話が私の記憶を刺激する。
 そうだ。彼は虫が好きだった。
 小学校の図書室にある虫関連の本をコンプリートしたって貸出カードをみんなに見せびらかしていたことがある。
 中学になってから、体育館での集会中にムカデが出たってみんなが逃げる中、上履き片手に戦いを挑みに行って叱られてたのを見たこともあった。
 星の砂のように、私の記憶の中に眠る彼の思い出。

「オオスズメガってどんな蛾なの?」

 私以外の女の子に虫の話なんてしたら嫌われちゃうかもよって思いながら、私は言葉を返す。
 私以外の女の子になら、どれだけ嫌われてもいいよ。私は好きだから。
 今、彼の声を聞いているのは私だけだった。

「ハチドリみたいで……」

 ウグイス色の体。赤いベルト。黄色いパンツ。エビフライみたいなしっぽ。透明な羽。ハチみたいな羽音。
 語り始める彼の言葉を、心地よい音楽のように浴びる。
 少し熱のこもった足早な声。
 今まで虫の話なんてしたことなかったし、昔みたいに虫が好きってほどじゃないんだと思う。
 それでもかつて仕入れた知識は持ったまま、昔あった情熱もまだ彼の胸の奥でくすぶっているようだった。
 一度好きになったから――そんな彼が今、私を好いてくれているという事実。
 ずっと彼の声を聴いていたい。ずっと彼の体温を感じていたい。ずっと彼のそばにいたい。
 こんな気持ちが私に芽生えるだなんて……
 友達に恋人が出来ても、私には片思いの相手さえいなかった。
 楽しそうで苦しそうで、好きな人がいる友人たちは輝いて見えた。
 憧れを感じながらも、そういう意味で人を好きになる未来が自分にあるだなんて思えなかった。
 それが、今……

 初心な恋だった。
 初デートまで、付き合い始めるまで、手を繋ぐまで、唇を重ねるまで、その重ねた下を探るまで……同年代の友人たちからしたら、呆れるぐらいの時間が経っている。
 それでも、優しく微笑む彼との歩幅が心地よかった。

「へえ、見てみたいな」

 彼の話に相槌を打つと、不意に会話が途切れた。
 夜風が枝を揺らす音だけが聞こえて、いつの間にか震えの止まっていた手が力を込めた。

「タクシー呼べるけど……まだ、歩く?」

 陰る彼の顔を見つめてうなづき返すと、彼は少し辺りを探るように目を動かすと、身を屈めてきた。
 私が逃げられる速度で降ってくる唇を、私は迎え入れる。
 彼の首に腕を回して、抱え込むように彼と唇を重ねる。
 鼻に抜ける吐息も、口内のぬくもりもやわらかさも、彼と出会うまで知らなかった。
 こんなことを求める自分、今まで知らなかった。
 もしも私が虫だったら、彼のために羽ばたいて、舞い、鳴いて、闘っただろう。
 外灯に蜘蛛の糸のように唾液が光り、私と彼の唇を繋ぐ。

「行こう」

 彼が私の手を握り、私たちは再び歩き始めた。



「ちょっとコンビニ寄っていい?」

 抜け道の公園から車通りに戻って、明るい街並みを行くと彼がそう切り出した。

「いいよ」

 そう答えて、二人でコンビニの中に入っていく。
 明るい店内の中を彼は迷いなく進んでいこうとしたけど、途中で立ち止まって私の方を見た。

「ここで、待っててくれる?」

 私をお菓子コーナーに残して、彼はそそくさと奥の方へ行ってしまった。
 このコンビニに入るのは初めてだったけど、何度も彼の話の中に出てくるから初めて入った気がしなかった。ポップの手書きのイラストが絵はがき調で面白いと言ってたところだ。
 何を買うのか察した私は努めて彼の方を見ないようにする。
 彼はそのまま私の元に戻ることなくレジに向かい、それから私に「なにか買う?」と聞きに戻ってきた。

「うん。ちょっと待ってて」

 私は彼を待っている間に見繕っていた下着や化粧品類を持ってレジに向かおうとする。

「ご、ごめん……」

「なにが?」

 私の手の中にあるものに気が付いて謝る彼にそう返して、さっさとレジに行ってしまう私は意地が悪かっただろうか。
 彼が何に謝っているか見当はついている。
 自分が買いたい物だけ買って、私が必要なものにまで気が回っていなかったこと。
 何か買うか聞いたものの、なにもないと答えられるか、せいぜいお菓子ぐらいと思っていたんだと思う。
 でも、どうしてそんな物を買うのかは聞かれなかった。
 私も、さっき彼が何を買ったのかも検討がついている。
 以心伝心。でも、お互いにはっきり言葉にしていない。

「もう、欲しいものない?」

 レジから彼の元に戻って聞いてみる。

「大丈夫」
「じゃあ、行こう」

 今度は、私の方から手を握った。
 彼の欲しいもの――キミが欲しい。なんて、キザなセリフを求めていたわけじゃない。
 でも、ちゃんと言葉が欲しかった。
 曖昧な意思確認じゃなくて、はっきりとした言質が欲しい。
 私の方も、アナタが欲しいなんて言えない。
 冗談めかして言ってみたらいいんだろうか。冗談じゃないからこそ、言えない。
 名残惜しいと言って引き留めたのは私の方なのに……
 はっきり言わないで察して欲しいとか、責任を回避して彼に押し付けているようで嫌な気持ちもある。
 はしたないだとか、そういう感情も邪魔してくる。
 でも、言葉にしない不安が胸にくすぶる。

 何度も話に聞いた。このコンビニの裏手に、彼の住むアパートはある。

「ねえ!」

 角を曲がってコンビニの明かりから陰に入った時、私は立ち止まって彼の手を強く握った。

「あ……やっぱり、タクシー……呼ぶ?」

 彼の目が不安に揺れて地面に落ちる。今からでも引き返して良いよと、優しい声が言う。
 でも、そうじゃない。欲しい言葉はそうじゃない。引き返す後押しより、もう一歩を……

「でも、俺はこのまま一緒にいたいな」

 零れるようにつぶやかれた彼の言葉。
 揺れる彼の目に捕らえられる。

「俺も名残惜しい。もっと、一緒にいたい。果穂のこと、もっと知りたい」

 キスの前兆みたいに、彼の手が私の頬にふれる。
 でも距離は縮まらない。優しく優しく、私の感触を確かめるように何度もなでてくる。
 まるで毛繕いみたいに気持ちがいい。もっと触れたいと言うように、くすぐる指が首筋に下りてくる。

「嫌になったらいつでもタクシー呼ぶし、そんなことで嫌いになったりしないから……嫌いにならないで」

 不安に揺れる目が心地良い。
 私に嫌われることに怯える眼差しに満たされるなんて、知られたらどうなるんだろう。
 私も怖い。彼に嫌われることが。

「うん……」

「私もやっぱり怖くて怖気付いちゃうかもしれないけど……嫌いにならないでくれる?」

 こんな言質に意味はないのかもしれない。それでも、今お互いにお互いを安心させたいという気持ちは本当だから。

「もちろん」


 優しい彼の笑顔に励まされて、私は初めて彼のアパートに足を踏み入れた。


 ――初めての夜は、きっと始まりの夜になる。