死にたい訳じゃないけれど、これといって生きたい訳でもない気分が続いていた。そんな晴れない気分のまま、とりあえず環境が変われば何とかなるかという短絡的な思考で春を迎えたら、ふつうにうまくいかなくて死にたくなった。

 今までの人生で、ふつうになりたいと強く願っていたけれど、実際にふつうの生活をしてみたら想像よりもふつうが難しくて、それを考えたらやっぱりちょっとだけ死にたくなった。

 だけど死ぬ度胸も勇気もないから、毎日毎日何かを誤魔化しながら生きている。

 そんなことを、元同期の星くんとのサシ飲みで零した結果がこれだ。飲酒、喫煙、泥酔、ヤニクラ、千鳥足で見上げた夜空には星が瞬いていて、死ね、と思った。


「晴乃、ひとりで帰れんの」

「帰るけど、その前に一本、煙草吸うの―」

「おまえね、今日だけで何本吸ってんの? 普段吸わないくせに」

「これはねえ、間接的な自殺行為なのよ、わかる?」

「じゃあ俺のこと巻き込まないで。副流煙の方が危険でしょうが」


 星くんがあたしの肩を抱きながら、ため息をつく。そして彼は、喫煙所を華麗にスルーした。こういうところが憎らしい。なのに文句は言えなかった。星くんに支えられてないと歩けないのはあたしの方だから。

 星くんは、大学院時代の同期だった。

 誰もが知っている有名な大学の、人文科学研究科にある、倫理学研究室。理系に比べれば就職にも不利で、文系の中でもあまり人気のない学問分野だけど、学問の魔力に魅入られて大学院にまで進学したのが、あたしと、星くんだった。

 好きなことにとことん打ち込める研究生活はそれなりに楽しい――と思えていたのは、最初だけだった。

 修士1年の、何も知らない頃はまだよかった。だが、研究とは何かを知れば知るほどに、自分には向いていないと思うようになった。自分の研究テーマはそれなりに好きだったし、倫理学のことを学ぶのは楽しかったけれど、研究となると少し違った。あたしは、勉強が好きだっただけで、研究が好きなわけではなかった。すでにある知識を吸収するのは得意だったけれど、あたしには新しい知を想像するセンスがなかった。まあ、現実を知った、みたいな感じ。

 早々にアカデミアの道を諦めて、あたしは修士卒で就職することを選んだ。文系の修士卒が研究職なんかに就けるわけがないので、就職先は自ずと一般企業に。それなりに給料が良かったという理由で選んだ、医療コンサル事業を主とする会社に就職を決めた。

 就活が終わってからは楽だった。修論に取り組みながら、だらだらと自分のペースでゆるく研究活動に打ち込む日々。研究に向いてはいなかったけれど、やはり倫理学という学問分野が好きだったし、同期の星くんと専門的な話を思い切りできるのが楽しかった。人文科学をやっている人と一緒に、独特の語彙を使って、人間とはなにか、社会とは何かを語るのが好きだった。終わりが見えている研究生活だったからこそ、あたしは思い切り、学問に打ち込む2年間を楽しむことができたのだ。

 だが、修士論文を書き終えて、研究室を出た頃、気付いてしまった。

 あたしは、いつの間にか、アカデミアの文化に染まってしまっていたらしい。

 内定式、入社式、そして新入社員研修を終えた頃、ボロが出始めた。頑張って周りにノリを合わせている自分に気付いた。大して面白くもない場面でみんなが笑っているから笑っていた。自分の会話が絶妙に相手に通じなくて、自ずと閉口する場面もあった。相手の話し方が合わなかった。飲み会であたしだけがじょうずに話せなかった。

 そんな、小さい違和感が積み重なっていく。

 新入社員はほとんどが、22歳の新卒。つまり、学部4年生から上がってきた子たちがほとんどで、年齢にしてあたしの2つ下である。あたしが会社の同期と馴染めないのは、別に年齢のせいじゃない。修士卒とはいえ、研究室文化にどっぷり染まったあたしと、卒論で軽く研究に触れただけの四大卒の人間の間には、何か乗り越えられない壁があったのだ。

 相手を馬鹿にしたいわけじゃない。ただ、あたしが話す言葉の語彙がちょっと専門的だったりして、それが変だと突っ込まれて話が進まない、みたいなことが多くて、段々と他人と話すことに疲れてきた。

 相手が悪いわけじゃない。きっと、みんながふつうなのだ。ふつうに喋って、ふつうに笑って、ふつうに生きている。あたしもふつうになりたかった。みんなに馴染みたかった。だけど無理だった。みんなに合わせて笑おうとするとき、ずっと、ほんのすこし、息がしづらかった。

 久しぶりに会った研究室の元同期である星くんからサシ飲みに誘われた今日、会社で馴染めない自分の惨めさを語った。おそろしく鋭い言葉で、自分の惨めさを余すところなく説明した。お酒は進み、ふだんはあまり吸わない煙草を吸って、頭の中がぐちゃぐちゃになった。

 だからこうして、いつもよりもはやく酔っ払って、星くんに支えられながら歩くという醜態を晒している。


「晴乃、もうすぐ駅着くよ」


 考え事をしているあたしに星くんが言った。

 いつの間にか、星くんに肩を抱かれている。ふらついて歩けないあたしを支えてここまで歩いてくれたのだろう。だけど、お酒のせいで近い距離に何も疑問を抱かなかった。


「星くんはいいよねえ、才能もあるからアカデミア残って博士院生ですかあ。あたしなんか、才能ないからアカデミアにも残れないし、発言キモいから一般にも馴染めないのー」

「またその話?」

「じゃあ何、ほかに面白い話あるの?」

「はやくしないと終電逃すから」


 思えば、くたびれたサラリーマンや、大学生らしき風貌の男女が早歩きであたしたちを追い越していくのがさっきから続いている。駅に向かっていたのかあ。

 急いじゃって、ばかみたいだ。もっとゆっくり歩けばいいのに。他人が急いでいるのを見ると自分も急がなきゃって思う。それが嫌だ。あたしはずっと、自分のペースで歩いていたい。

 それでも星くんのおかげで駅に着くことができた。改札を通る。〈まもなく最終電車が参ります、乗り遅れのないようにご注意ください〉と、終電のときにしか聴けない特別なアナウンスが流れる。夜の匂いがする。特段良い匂いとは思わない。

 ホームに降りると、ちょうど、最終電車がホームに滑り込んだ。すでに人が押し込まれている。座れないかもしれない。

 むかつくなあ。あたし以外の全員が幸せに見える。


「あの電車が、地獄行きの電車だったら、どうする」


 気まぐれに星くんに言うと、星くんは肩を抱く力をちょっとだけ強めた。


「じゃあ、乗るのやめる?」

「は?」

「乗ったら地獄に行くんでしょ」


 電車の扉が目の前で開く。

 ふらついた足で乗り込もうとしたが、身体が動かなかった。

 ……星くんが、あたしの肩をかたく抱いたまま離そうとしない。


「せめて天国に行こうよ」


 最終電車の扉は目の前で閉まり、地獄行きの列車はいなくなった。







 駅員さんに言って改札から出してもらって、再び夜は続いていく。両手いっぱいに抱きしめても抱えきれないほどの量の星屑が、空いっぱいに広がっている。それを見て、地獄行きの列車には乗らなくて良かったと、ほんのすこしだけ考えた。さっきまで、星空を仰いで悪態をついていたのに。同じ星空を見たときの思考パターンはメンタルに大きく左右されるのね、とひとり頭の中で納得した。

 終電が走り去った街はすこしだけ活気を失っていて、やや疲れているみたいだった。あたしとおんなじだ。だけど無理やり元気に振る舞おうとしているところとか、特に。

 どうせあと5時間もすれば朝が来るのに、束の間の非現実に縋る街の若者たちは、何かに飢えている感じがした。これもあたしと同じ。あたしも何かに飢えている。

 そんな夜を歩きながら、ひとり余裕そうな星くんが言う。雑談を始めるつもりらしい。


「晴乃は、何にでもなれるとしたら、何になりたい?」

「どういうこと?」

「現実は置いといて、どんな仕事にも就けるんだったら、俺は宇宙飛行士になってみたかった。無重力空間でバク転したい。あと、絶対無理だけど、土星の環っかの上、走ってみたい」

「土星の環って氷の粒なんだって、物理の友達が言ってた。スケートの靴が要るかも」

「へえ、買っておかないと」


 ばかみたいだ。土星の環の上を走れるわけないし、星くん如きの体力で宇宙飛行士になれるわけない。

 だけど、仮定の話にちょっとだけ真面目な学問の話を織り交ぜても変な顔をされないのは星くんだけだ。こういった会話を、会社の同期にしたらもれなく引かれてしまうだろう。


「それで、晴乃は何になりたいの」


 あたしは、何だろう。あたしは何になりたかったんだろう。

 現実味がなくても良い。とにかく、やってみたかった職業。全部が叶うなら、進みたかった道。そんなこと、あるのだろうか。

 ぐるぐる考えたが、アルコールの入った脳みそではうまく思考が広がらない。口をついて出るままに喋った。


「哲学者、かなあ」

「哲学者?」

「全部の学問分野の中で、一番気が狂ってるのって、哲学者だと思わない? 頭良すぎてヤバいもん、あいつら」

「哲学が文系で一番変なヤツ多いのは、わかるけど。それで、哲学者になりたいのはどうして」

「頭良すぎて理解されないくらいまで頭良くなれば、なんか、悩みのレベルが数段階上というか。今のあたしが持ってる悩みなんか、ちっちゃく見えそう。それほどまでに賢い人の世界を見てみたい。それくらいまで吹っ切りたい。それで鈍器くらいに分厚い哲学書書いてさ、人間たちの時間をその本の解釈のために奪ってやりたい。それで著書の内容を称賛されたり批判されたりしたい。そして、自分と知的レベルの合う人と議論して、後世ではあたしの書いた哲学書の解釈が研究テーマになったりして。そしたらもうヤバいじゃん? おもしろくない?」

「思ったより願望が細かくてキショいよ、そりゃあ会社で馴染めないよな」

「悪口?」

「誉め言葉。ていうか、そろそろ着くよ」


 知らない間に歩かせられていたのはただの散歩かと思っていたけれど、彼の中ではきちんと行き先が決まっていたらしい。

 そこは見慣れた道だった。こっちの角を曲がれば、ほんの数か月前まで通っていた大学のキャンパスがある。


「こんなところ、大学くらいしかないじゃん」

「だから、大学だよ」

「へ、大学?」

「夜中の研究室とか、懐かしいでしょ」


 星くんは迷わず角を曲がる。図書館側の門から入構して、それから研究室がある方の建物に向かう。

 たしかにうちの大学は24時間営業というか、鍵さえ借りればいつでも入れるけれど。だけど、終電を逃した男女の行き先が大学の研究室だなんて、たぶん変だと思う。


「晴乃、見て。こんな時間なのに、結構明かりが点いてる」

「……ほんとだ。みんな、休まないの?」

「そろそろ学振申請書の提出日だから、M2とかが頑張って書いてるんだよ」

「星くんだってDC2の枠で出すんでしょ」

「俺は去年の申請書ちょっと変えるだけだからね。紀要論文しか持ってないから通るわけないし。世知辛いですわ」


 学振――つまり日本学術振興会がやっている、大学院生への研究費助成事業の最大手である。これに通ると、業績に箔がつく。その代わり、採択率は1割と少し。狭き門であるが、博士課程に進学する人間にとっては今後のキャリアのための登竜門であり、申請がほぼ義務付けられている。

 もちろん、博士課程に進学した星くんも申請するはずだ。修士で卒業したあたしには、関係のない話だけど。


「うちの研究室も、多分M2の内藤が申請書作ってるから、研究室の鍵空いてる」

「あの子、D進するの?」

「なんかそうみたい」


 星くんの後ろについていくように、構内を進む。人文科学研究科の研究棟の4階に、倫理学研究室があった。共有スペースとなっている412教室は電気が点いている。星くんが扉を開けると、中にはひとりだけ男子学生がいた。さっき話題に上がった、修士2年の内藤だった。一つ歳下なのでもちろん顔見知りである。


「おわっ、星さんと、え、晴乃さんじゃないすか!?」


 内藤は、深夜1時半には見合わないテンションで言った。そんな彼の前にはノートPCとマグカップが一つ。星くんの言う通り、申請書の作成の追われていたのだろう。

 星くんは、お疲れー、と内藤に挨拶をしながら共有スペースに入っていく。


「晴乃と飲んでたら終電逃しちゃってね。研究室ならどんだけ居てもタダだし、連れてきた」

「ここ、冷蔵庫にお酒もありますからねえ。そういえば昨日タカちゃんが日本酒持ってきたんすけど、飲みます?」

「晴乃酔ってるから日本酒はだめ。新歓で余った缶あったでしょ。それもらう」


 がさがさと、星くんは勝手に共有スペースの冷蔵庫を漁り始めた。

 この研究室にいた頃によく座っていた、黒革のソファーに腰を下ろす。見た目に反してよく沈む、座り心地のよいソファーだ。

 ああ、懐かしくて泣きそうだ。ここに居た頃、楽しかった。こうして夜まで研究室に残ったメンバーでお酒を飲んで、教授の愚痴で盛り上がったり、卒論や修論の時期には先輩に泣きついたり。思い出の濃度が高すぎて窒息しそうだ。

 星くんが、缶ビールを片手に、あたしの隣にやってきた。だけどその視線は内藤に向いている。


「ていうか内藤さ、俺の院生室のデスク使っていいから、席外してもらえる?」

「あーいいっすよー。ていうかあと少ししたら帰るんで、逆に鍵返却お願いして良いすか?」

「了解。悪いね」


 別にいいっすよ、と言いながら、内藤がシンクでマグカップを洗い始める。それから内藤は共有スペースを出ていった。内藤は大学近くのアパートに住んでいるはずだから、終電は気にせずにこんな時間まで作業をしていられる。


「星くん、べつに内藤のこと追い出さなくても良かったんじゃない?」

「あいつ口軽いから。晴乃が悩んでること、エンタメにされたくないでしょ」

「あー、それはそう」


 星くんが缶ビールを開けて、それに口をつける。そろそろあたしも酔いが醒めてきた。それにちょっとだけ口寂しい。


「星くん、あたしにも欲しい」

「だめ。晴乃が潰れたときに支えて運ぶこっちの身にもなって」

「ひどいー。飲みたいよ」

「じゃあ一口だけね」


 ず、と飲みかけの缶ビールを手渡される。さっき、星くんが飲んだ缶ビール。間接キス、という言葉が頭の中を巡ったが、それを気にしているのが自分だけだったら嫌なので、思い切って口をつけた。味はよくわからなかった。

 そのまま缶ビールを星くんに返さずに両手でホールドすると、星くんは呆れたような顔をした。隣にいる星くんはちょっと猫背気味だった。


「晴乃」

「なーに」

「さっき言ってた哲学者の話、戻ってもいい?」

「どうぞ、なんなりと」

「……別に、やったら良いじゃん。研究者」


 星くんの言葉を受けて、ごくり、もう一度缶ビールに口をつけた。今度はちょっとだけ苦かった。

 星くんはそんなことを簡単に言うけれど、どう考えたって今更哲学者になれるわけがない。あれはただの仮の話で、現実世界の話をしていたわけじゃないはずだ。星くんだって、宇宙飛行士になれるわけがないのに。


「だから、無理だって。実際問題難しいけど、なんでも叶うとしたら何になりたいか、っていう話だったじゃん」

「だけど、晴乃の場合は別に、そこまで現実味がないわけじゃない」

「無理だって。哲学のことなーんにも知らないし」

「哲学のことは知らなくても、倫理学のことはわかるじゃん」


 そのとき、あたしが手に持っていた缶ビールに、横から星くんが口をつけた。それから、あたしの手ごと缶ビールを掴んで、それを喉に流し込む。彼が一口それを飲むと、缶が手元に返された。

 一瞬だけ包み込まれた手に、男性らしいごつごつとした体温を感じて、それがちょっとだけもどかしい。星くんがそれを、誰に対してもやってしまうのか、それともあたしに対してだけやっているのかが判別できない。

 だけど間違いなく言えるのは、あたしは彼のその仕草に対して、べつに嫌だとかそういう気持ちを抱えているわけじゃないということ。むしろ、こうして触れられるたびに、なんだか安心するような、ここに居ていいよって言われているみたいな、そんなあたたかさを感じるのだ。

 星くんが続ける。


「哲学者になれなくても、倫理学者にはなれるかもよ。それで鈍器くらいに分厚い本書いて、それの解釈で人間の時間を奪って、称賛されたり批判されたりして、自分の考えに真っ向からぶつかってくれる人と議論したらいいじゃん」

「あたし、研究向いてないんだって」

「俺だって向いてない。去年は学振落ちてるし」

「じゃあなんでD進したの」

「人生捨ててでも、研究したかったから」


 学問に一番向いてるのは、星くんみたいな人だ。とくに文系においてはそう。理系と違って、研究職のアテなんてほとんどないし、アカデミアに残る以外の就職先なんて、別に院卒じゃなくてもなれるようなものばかり。だから文系が院進するのはコスパが悪いと言われる。それが文系院卒の現実である。

 そんな中で、アカデミアに残る意味とはなんだろう。そういうことを考えたとき、星くんみたいに、自分の研究を愛せる人は強い。

 でも、あたしは違った。


「あたし、研究室にいる自分はそれなりにすきだったけど、研究がすきだったんじゃなくて、自分のことを受け入れてくれる空間が好きだっただけなんだと思うよ」

「どういうこと?」

「あたし、研究のこと、そこまで好きじゃないと思う。こうして、星くんとか、内藤とかと、研究について話すのは好きだったけど、研究そのものにひとりで取り組む時間はふつうに面倒くさいから無理だった。それに、好きだけじゃやっていけない現実が見えすぎちゃったから。あたしレベルの熱量でD進したって、査読付きの論文2本書いて卒業するのに、3年じゃ絶対卒業できないってわかってる。哲学者とか倫理学者になる以前に、無理なんだよ。だからといって就職しても、アカデミア知らない人とは話が合わなくて馴染めないから苦しいって話。あたしはここの空間が好きだったけど、研究は無理なんだって。あたしは、どこにも居場所がない自分の揺らぎに戸惑ったまま、毎日毎日うっすらと死にたいの」


 缶ビールに口をつけて、ごくごくと飲み下す。晴乃、とそれを制止する声が聞こえてきたが、無視してやった。

 そのままほぼ一気飲みみたいにすると、一気にアルコールが頭に回る。そういう自傷行為をしたいお年頃だった。ふわふわ、くらくらする。


「晴乃って、ほんと、頭いいんだか悪いんだかわかんない」

「悪いよー、頭悪いから会社で馴染めないの」

「居場所ないのがしんどいってことはよくわかった」

「そーだよー。アカデミアにも残れないしー、一般社会でもうまくやれないのー」


 ソファに身体を預けて、それから上半身のバランスを崩す。とっさに星くんが腕を引いて、そのままあたしを自分に寄りかからせた。

 どっと近くなる体温。男性の、大きくて太い腕に抱きとめられて、そのまま収まった。

 どうしよう。離れなきゃってわかっているのに、動けない。アルコールのせいか、星くんのせいか、それとも、あたしが星くんに甘えているせいか。だけど今はアルコールのせいにしていたかった。

 どうしてだろう。やさしい星くんのせいでちょっとだけ泣きそうだ。できればずっとここにいたい。


「晴乃がアカデミアにも一般社会にも馴染めないなら、ほかの居場所があればいい」

「そんなの、ないよ」

「……俺と一緒にいればいいじゃん」


 ぎゅう、と力強い腕に収まったまま、星くんの体温を感じていた。


「星くんは、アカデミア側のひとじゃん」

「ううん。俺のこと、院生の星じゃなくて、個人としての星として見てほしい。晴乃と一緒にいる俺は、ただのひとりの人間だから。だから俺が、今日から晴乃の居場所」

「告白みたいじゃん、それ」

「告白だから、これ」


 胸の中で、星くんを見上げる。ほんのちょっとだけ顔が赤くなっている。

 知らなかった星くんの一面。だけど思えば、星くんはずっとやさしかった。


「晴乃が駅のホームで、『あの電車が地獄行きの電車だったらどうする』って言ったとき、今日しかないって思った」

「わざと逃させたの?」

「当たり前でしょ。俺ね、それなりに晴乃のこと好きだったから。今日、俺が飲み誘ったのも、終電逃させたのも、内藤がすんなりここ譲ってくれたのも、そろそろ自覚して」


 今更だけど星くんの距離が近い。絶対に離さないって言いたいみたいだ。相手の男性性を意識すると一気に心臓の音がうるさくなる。星くんなんて、一緒に居て楽しい同期だったくせに、こういうふうになると一気にどきどきしてしまうのはなんでだろう。ドーパミンが出てるんだ、きっと。こんなんじゃ、星くんを意識してるみたいだ。


「星くん、顔赤い」

「晴乃だって赤い」

「あたしは、ほら、アルコールのせい」

「ずる。俺ばっかり好きみたい」

「そりゃあ、星くんから告白してきたわけですから」

「返事はくれないの?」

「始発が走る頃に、ポジティブな返事をします」

「良いって言ってるみたいじゃん、それ」

「良いって言ってるんだよ、これ」


 ばかみたいな言葉遊びばかりが得意になってしまったあたしたちの告白はロマンチックの欠片もないけれど、星くんが何だか嬉しそうだったから、別にそれで良いかって思えた。

 それに、たぶん、あたしは今、誰よりも安心してる。

 ここに居ていいよって言われることの大切さを、何よりも、誰よりも実感している。


「死にたくてもいいから、いったん俺に寄りかかって生きてくれればそれでいいよ。無理に馴染まなくてもいいし、変わらなくていいから、適当にやり過ごして俺のところに来てくれれば、そしたら俺は、どんな話にも付き合うから、死にたい気分ごと持って帰っておいで」


 きっと来週会社に行っても、うまくやれない自分は変わらないままだし、ほんのすこし死にたい気持ちもなくならないと思う。やけにネガティブな自分も、自分の負の感情にばかり目が行く自分も。きっと変わらないけど、それでも心の中にひとつ寄り添える軸があれば、それなりに生きていける。

 寄りかかれる最初の軸が星くんだった。それを彼がくれた。

 その優しさだけで、十分、生きていける。


「晴乃は、きっと大丈夫だから。だからまずは、一緒にいよう」


 星の降る夜、両手いっぱいに居場所を抱きしめて、きっと明日も生きていく。